あっちの自分がこう言えば
こっちの自分がこう言い返す。

すべき事、あるべき事を分かっている自分。
素直にそれに従って行こうとしない自分。

それは不安?心配?怖い?
ここは夢なの?現実なの?
混在する意識の中で、色々な言葉で、色々な自分が自分を惑わしてくる。

頭の中で思考する自分も
心の中で感じる自分も
鏡に映る自分も

どれもが自分の筈なのに、そのどれもが自分ではないように感じたり、

または目の前の出来事全てが自分の事なのに、その全てが他人事のように感じたり、

それが全てではない筈の事を、まるでそれが全てのように感じて、必要以上にそれに囚われてしまったり、

必死に何かを繋ぎ留めながら、無理矢理何かをそこに形成し、些細な緩みや、些細なひびのような綻びからその全てが崩れて壊れ、全てが抜け落ち、全てがどこかに流れて、全てがどこかに飛んでいってしまうような危うい感覚にばかり翻弄され、狭い感覚と意識の、偏った世界の中に自分を閉じ込め、壁の向こうの広い世界に気づかないふりをしては、あーでもない、こーでもないとしつこい位に自問自答を繰り返し、いつまで経っても前には進まず停滞し、気づけば何も変わっていないどころか、そっちを選べばそうなるよというのが目に見えていながら、本当は自分自身がそうなる事を望んでいるかのように、すすんで後退する。

まさに自滅の苦しみだ。

どうしてそっちを選び、どうしてそっちに向かうのか?

自分は一体誰と何の問答をしてたのだろうか?

ただ無駄な時間だけを浪費する、そんな問答に何の意味が今まであったのか?

誰か私に教えて欲しい。
私というものを。

誰か導いて欲しい。
迷いの無い世界に。

停滞する自分はただの臆病にしか過ぎないのかもしれないけれど、ヨガっぽく言えば、過去の経験?トラウマ?そんな風に色々なものが邪魔をするのか、どうしても最後に、真の"我"からの気付きを、慎重に確かめながらでないと、怖くて、不安で、心配で、その一歩さえ踏み出す事に躊躇ってしまう事が多々生じる。

私は何をしたいのか。
私はどうしたいのか。

何故私は今ここにいて、
何故私はそれをして、
何故私はそれを考え、
何故私はそれを思うのか。

仏教的に無我の境地なんて、現在地からしたら程遠く、結局中々手放せない"我"への執着。
 
それでもヨガの思想は教えてくれてる。
"我"はみんなにあるんですよと。

万物は皆、同じルーツを根本原質として持ち、そこから派生をし、循環を繰り返していきながら、どこかで何かを共有し、どこかで何かが関わり合いながら存在をしている。

それは物質的な繋がりもあれば、プラーナと呼ばれるようなエネルギー的なものを通しての繋がりもあるし、あるいは遺伝のように科学的な視点や、過去世等のスピリチュアル的なもの、または大きく広く縁起や因果の法則といった思想の観点からも説明出来る。

だからこそ私達は自他同一の視点を根拠として持ちながら、他者を慈しみ、他者を憐れむ、慈悲なる心を養う事が大切であるのだが、ヨガの中ではそれと同時に、内なる自分と向き合い、本質としての我と繋がり、それを磨いていく事も大切な目的の一つとして据えられている。それは、我儘や我が強いといった、欲深いエネルギーを象徴するような低次元の"我"の概念としてではなく、花が花として咲くように、雲が雲として流れるように、自分が自分として生きる為の、本質としての我、即ち真我(アートマン)なる概念として。

我とは何か?
それはあるのか無いのか。 
無我?真我?アートマン?

そんな渦巻く思考に翻弄され、答えの無い永遠不変の大きなテーマを前に、時に何か極端に偏った思想に傾倒したり、時に勢いや衝動に駆られて、屈折した形でエネルギーを暴発させてしまったり、あるいは死後の世界に安楽を求めてなんて事もあるかもしれない。

でも、唯一無二、たった一つの真なる我がそこにあるのだとしたら、どれだけ幾多の我が、あらゆる言葉で自分を翻弄し、心を迷わせ、苦しめようとも、それらは結局、視界を曇らす闇の中に作り出されたいくつものマーヤ(幻想)にしか過ぎないのだから、それら錯覚としての'我"に、あれやこれやと翻弄される必要なんて本来どこにもないのだ。

もし論理的に理解しようと思えば思うほど、しつこく考え込み、何かに縋ろうと思えば思うほど、余計に不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費しながら自らを疲弊させてしまうのであれば、まずは思考を手放し、身体を整え、気の流れを拡張し、瞑想で心を穏やかに落ちつかせる事を先決すればいい。

アーサナやプラーナヤーマや瞑想法含め、その為の智慧や実践がヨガには沢山あるし、私達が無知の闇から解放されて、物事を正しく見る為の、土台やきっかけとなるものは、いつでも穏やかで落ち着き、調和の図れた心身の状態の上に存在する。

我思う故に我あり。
我思う我はそこにあるかもしれないけれど、その我をどこまでも追っていく事は、はっきり言ってキリがない事であるし、時には閃きや覚醒、そんな言葉を頼りにしながら、内から湧く"我からの気付き"を静かに待ってみるのもいいかと思う。

それは、決してこちらから追わずもがな、向こうからやってきては、

無知なる心の影を照らし、
ありのままの姿を明らかにし、
自分の中の偏りも、 
盲信も、
そこに陥る自分が本当の自分ではない事も、

それら全て幻想のような灯火を、優しく吹き消していくのだから。


もっと揺れてもいい。
もっと乱れて惑って
もっと抗ってもいい。

思う存分感じ取ればいいのだ。
その心の迷いと、頭の靄を。

眉間に皺を寄せ、
奥歯を噛み締め、
身体は緊張、
呼吸は浅く早く、
より激しく。

大地を踏みしめ、思いを突き刺し、
そこに根を張り、耐えて忍んで下へ下へと根を伸ばしたら、堅固な意志の力は幾重の層をものともせずに、その根はきっといつか地球の深淵、核のマグマへ到達するだろう。

躍動する生命の鼓動。
沸き立つ灼熱の炎。

"根'はマグマの鼓動を身体に伝え、自身の脈のリズムはそこに共鳴し踊り出す。

"根"は灼熱の炎を吸い上げて、タパスの種に火を点け、力強く燃え上がらせる。

熱く激しく、炎はまるで何かを叫ぶように音を立て燃えたぎり、内なる力は漲り、蔓延る不純不浄なものは熱いタパスの火に燃やされていく。

次第と心の迷いは澄み、
頭の靄は晴れ
眉間の皺は緩まり、
やがて弛緩が訪れ緊張は解かれていく。

波が収まる。

一瞬の静寂が空間を包む。

そこにあるのは、何一つ濁りの無い純粋なる意識と、ただそれが広がりゆく感覚のみ。

乱れは統合される。
それは川の流れのように穏やかに。

意識の質は変容へと進む。
それは空より青く鮮やかに。
それは雲より白く純粋に。

意識の幅は更に拡大する。
それは地よりも広く、それは海より深く、それは宇宙のように果てなく無限に、未来永劫いつまでも続いていきながら。

もう何処に行けば良いかと悩む事もない。
もう何をすれば良いかと迷う事も無い。
もう何かと比べる必要も無い。

視界を狭める自分という小さな囚われからは解放され、圧迫する現実の苦しみも、心を揺らす、あらゆる不安も恐怖も悲しみも抑圧も、広がる意識の中でそれら全ては散り去り、そしてそれらは全てまた形を変えて循環していくのだ。

それはまるで些細で微細な粒子となり、
その一粒が空(akasha)となり
その一粒が風(vayu)となり
その一粒が火(tejas)となり
その一粒が水(apas)となり
その一粒が地(prithivi)となりながら。

あなたはそれらに対し、無理にあなた自身の扉を閉ざし拒否する必要も無ければ、無理にあなた自身の扉を開き、不自然に受け入れようと構える必要も無い。

あなたは、ただそこで視線を定め、音を感じ、匂いを感じ、味を感じ、まるで泉の源泉のように湧き立つその生命の源を感じ取りながら、偽りなく正直に、大きく深く自然な呼吸を営めばそれで良いのである。

扉は自ずと優しく開かれていく。
粒子が鍵となり、そして一筋の光となりながら。

もしあなたがその光の輝きに戸惑う事をせず、
もしあなたがその光の進みに抗う事をせず、
もしあなたがその光を受け入れる覚悟を持てたのならば、

弛緩のレベルは一段深まり、あなたの一番奥の、最後の重くて厚い扉が、ほんの少し緊張から解かれて僅かに開かれるだろう。

ようやく開いた扉の影から差し込むその光は、まるで乾いた大地に雨水が染み込むかのように徐々に浸透し、あなたの奥でそれまで照らされる事なく眠り続けていた、"たった一つ"のものを照らし始めていく。

見えそうで見えなかったもの。
分かりそうで分からなかったもの。

その光に照らされながら、
少しづつ明らかになり、
少しずつ見極められていく。

本来の意味が。
本来の目的が。
本来の役割が。

あなたは気がつく事が出来るだろう。
全ては広がる意識の中で、あなたという要素から生まれた微細な粒子も、あなた以外から生まれたあらゆる微細な粒子も、あなた自身が架け橋となりながら、全ては共存し、全てはまた調和の中にあるのだという事を。

一つ一つの光はまるで、宝石のように眩ゆく高貴な光を放ち、全てが、新たな奇跡と創造へ向かう為の灯火となりながら、何一つ決してぶつかり合う事などせず、何一つ決して欠ける事なく輝いている。

そこには揺れも無ければ、惑いもない。
全ての表も裏も、全てが表裏一体繋がっている中、あなたが導かれる感情は、恐れではなく"慈しみ"だ。

感謝しよう。
目の前に起こる全ての事を。

信じよう。
"始まりの余韻"は今ここにあるという事を。

 あなたは今、大きなギャップに苦しんでいるのかもしれない。

理想として一生懸命手放したいと考えていたその感情が、今まさにどんどんと沸き起こってくるそのギャップに。

何年も、何年もかけて、崩れては整え、崩れては整えを繰り返し、自分が設定した節目に向かい、最後にようやく辿り着いたと思ったその先に、まさかこんな大きな揺れが待っているとは考えてもみなかったであろう。

あなたが学ぼうと思っていたものは、今一体あなたに何を教えようとしているのだろうか?

一体そこにはどんな意味があって、どんなメッセージがあるのだろうか?

やはり生きていく上での正解はそういう事だったのであろうか?

あなたが懸命にあがいて来た事の意味、
あなたが懸命に繋いで来たの事の意味、

考える事は苦しいかもしれないけれど、全てを放棄する前に、もう一度この機会によくそれらを考えてみよう。

もしかしたならば、あなたが手放したいと抗っていたその感情は、無理して手放す必要なんてなく、まさにそのものこそが、現実を生きていく上で、必要不可欠である事には変わりはなく、強引にでも、辛くなっても、苦しくなっても、それをそのままエネルギーにして、進み続ける事の方が正しかったのかもしれないし、また、そうかもしれないというその現実は、あなたの中で整えてきた色々なものを、次々になぎ倒しては、大胆に破壊をしていくかもしれない。

でも、そんな時こそ、あなたもよく知っているはずの、「AUMマントラ」を今一度思い出してみるといい。

この大胆な破壊が、AUMマントラの意味する「創造→維持→破壊」の流れに沿った適切なプロセスであり、ここから新たな創造に向かっていく為に、これら全てを含めたものを、神様があえてあなたに課題として与えているのだとしたならば、それこそあなたが、そこで学ぼうと思っていた事の本当の意味も、それは、きっとこれからの気付きと創造として、あなたの下に必ず降りてくる。

あなたは今回改めて感じたはずだ。
人の心の儚さ脆さを。

整えてきたつもりのものも、こんなにいとも簡単に崩れていくのだ。

あなたが誤った方向に向かってきたのか、あるいは進むべき道を正しく進んできたのか、何が幻想で、何が現実だったのかは、それは、今のあなたの目の前に広がるその景色が全てを物語っている。

その景色はあなたにとっての本意ですか?
不本意ですか?

この景色を見る為に、あなたは足掻いてもがいて、馬車の手綱を離さず旅を続けて来たんだと自信を持って言えますか?

沸き起こる感情はとても苦しいし、醜くいものかもしれないけれど、あなたは現実からただ目を背けて、それこそただ都合のいい幻想を作り上げていただけにしか、過ぎなかったのだ。

いい加減そろそろ認めよう。それがまたあなた自身であり、それがまたあなたの現実であるという事を。

まるで井の中の泥に埋もれているような今のあなたは、誰に何を話す事も出来なければ、
その姿も声も想いも誰に何も届かす事は出来ていない。

いや、むしろあなた自身が、ありのままを話し、届ける事をためらっている。それはあなた自身が今のあなたの醜さを、誰よりも一番自覚をしているから。誰だって自分の醜さを人に晒すのは辛いし、それで人が不快になる事だってあなたは良く理解をしている。

しかし、私はそんなあなたの全てを察し、全てを自分の事として理解をし、受け止めている。何故ならあなたは私であり、私はあなたでもあり、私とあなた、またはそれ以外の全てのものを隔てるものはどこにもないのだから。 

例えあなたの今いるその場所が、暗くて狭い井戸の中であったとしても、

例えその事が、愚かで、無知で、醜い事であったとしても、

例え声も姿も届かず、

例え誰に何も気付いてもらえず、

例え不安で、怖くて、寂しくて仕方がなかったとしても、

必死に鳴くあなたのその鳴き声は、

田んぼにいるどの蛙なんかよりも、力強い大きな声で、意志の宿るものとして、しっかりとこの私には届いている。

あなたの苦しみは、あなただけのものではないし、あなたが苦しみを抱えているのと同じように、どこかでまた同じ苦しみを抱えている人もいる。

だから、もしあなたが、いつかその暗くて狭い井戸の底から這い上がる事が出来たのならば、

今あなたを苦しめる、その心の大きな揺れは、今あなたと同じように、井戸の底で苦しんでいる人の気持ちに寄り添う為の、"慈悲なる心"の領域を広げ、今あなたと同じように苦しむ、目の前のその人を助ける為の、かけがえのない"智慧の力"を授けるだろう。

その時、きっとあなたの耳にも、私と同じように届いてくるはずだ。

幾多の井戸から聞こえてくる、その力強い"魂の鳴き声"が。

時間の経過と共に、そのまま全ての泥は置き去りにされ蓄積される。時間は万能に何でも解決してくれるわけではなく、時という乗り物に乗り、景色を変えながらただ一緒に移動してきただけで、まるまる何も変わっていない所か、山のように蓄積されては、更なる膨張を繰り返す。ボタン一つで、排水溝から水を流すように、泥の全てを一気に排出して終わりに出来たらどんなに楽かと思うけど、考えても考えてもどうにかならずここまで来ているのに、最後にちょっと足掻いたところでどうにかなる訳でもなく、そんな簡単にしつこく蔓延る濁りが綺麗サッパリ澄み渡っていく訳がない。

そして結局の所ヨガに限った話ではなかったりもするのだが、まるで亀を追うアキレスのように、私がどんなに追いかけても追いつかない所で、多くの人はずっと先に進んだ所て"生きる"という事を捉えていて、私がどんなに考えても、分からない事を、多くの人は備えたものとして持ち、常に一歩進んだ所から"どう生きるか"を深めているように感じてしまう。

もし蓄積して膨張する泥から上がり、綺麗に明るい所に花を咲かしたいと思うのであれば、やはりヨガであろうが何であろうがもう一つ太い覚悟が無いと、恐らく進めば進むほど苦しくなるだろうし、ただ襲ってくる感情の波に飲み込まれていくだけで、このままだと更に、ヨガをして手放したい、回避したいと思っていた側の方へと、逆にどんどんと進んでいってしまうだろう。

今は正直ヨガの事を考えれば考える程、色々な事が目に入ってきては心も乱され、ヨガなんてやらなければよかったと思う位の、心の中に大きな揺れもある。だから、あまり好ましくない事を承知しながらも、どうしてもこういう嫌な気が充満した卑屈じみた文章になってしまう。

それでもなお、何故ヨガというジャンルの中でこんな事を書いているかと言われれば、即ちそれは生きる事=ヨガという大きなテーマの中で、こういう心の揺れと向き合いながら、それを超えた所を真理として追求し、最終的には到達を目指していくという事が、ヨガの大きな目的として存在するからであり、人生にあがいているようなまさにその状態というのも、実は真理に向かいヨガを深めている、大切なプロセスそのものであったりするのだ。

人間誰だって、おおらかで、爽やかで、前向きで、波の無い穏やかな状態が望ましい事なんて分かっているし、愚痴ったり卑屈になる事の自分や周りへの悪影響だって知っている。それでも生きていればどうしたって下しか向く事が出来なかったり、目標なんて持てずに、泥の中であがいて、もがく事しか出来ない事も沢山あれば、人に蔑まれ、みじめな思いをし、泥面の向こうで咲く花を見て嫉妬に狂い劣等感に苛まれ、そんな自分に対し、自分で自分を軽蔑しては辟易とする事だってある。

その都度悔しい思いをしたり、自分で自分を責める事しか出来なくなれば、誰だって気持ちは行き場を失くして迷子になる事もあるけど、それでも無理にでも上を見上げて、前に進む事を求められる中で、悲しむ事も、迷う事も、泣く事も、全てが弱気だ、ネガティブだ、陰気だと思われているような気がして余計に苦しくなるのなら、だったらせめて、ヨガという時間に浸っている間位は、思う存分、安心して落ち込んで、抗って、比べて、嫉妬して、憎んで、悔やんで、後ろを向いて、下を向いて、沢山泣いたっていいはずだ。

世の中で認められたり、成功したり、人に喜ばれるのは、例えば前向きで、芯が通っていて、志があったり、行動力があったり、心身共に健やかであったり、逆境でも負けないとか、誰よりも努力をしているとか、そういう生きるエネルギーに溢れている人だったりするかもしれないけれど、でも人を傷つけないように留意した中、愚痴ってもいいというあえて設けたその為の時間と場所の中で、愚痴りたくなったらどんどん愚痴って、溜め込む毒や泥は吐き出し、沢山泣いてスッキリさせたら、例えそれが無知であろうとも、例えそれが愚かであろうとも、その隙間の影から穏やかで波の無い景色だって、その内見えてくる事もあるかもしれない。

ヨガ=清澄、寂静、解放、至福、慈愛・・等々、ヨガでよくあるそんなイメージも、それらは到達するものと考えれば、途中経過で無理して、爽やかに、清らかに、穏やかでいるイメージばかりを作り上げていく必要も無いと思うし、例えばヨガの代表的なアーサナである蓮華座にしても、あれだって本来なら咲いている蓮の花をイメージしているのかもしれないけれど、咲いている花や、咲かそうと芽を出しているものばかりが、花ではないのだから、咲かない苦しみや、咲かす事にエネルギーを注げない苦しみ、他の咲いている花の事が気になる心の苦しみ等を瞑想によって鎮めるという事を目標として、逆に咲いていない花のイメージから姿勢をとる事も一つのアプローチであると思う。

その過程で、なんで、どうしてと不満が募ったり、悔しさや嫉妬に潰されそうになったり、それが口から愚痴として排出されて、感情が溢れて泣いたって、闇があるから光があり、涙があるから笑顔があり、揺れがあるからニュートラルがあり、こういった原則の中で、たった一つの本質としての自分や、真理を見つけそれに向かっていくのがヨガと言えるのだから、例え愚痴であろうが何であろうが、それらもまた瞑想状態へと向かい、悟りに到達する一つのプロセスだと捉えていいはずだ。

結局グルリと遠回りしながら、また自分に都合よく、揺れる煩悩についての解釈をしているようだけど、あえてこれに現代式っぽく新しく名前を付けるとしたならば「愚痴ヨガ」とでも名付けてみようか。

愚痴る事も簡単な人には凄く簡単な事かもしれないけれど、適度な毒抜きとして上手く自分をコントロールする術として、器用にそれが出来る人と出来ない人とが実際にはいたりするし、無理に頑張ろうとしたり、無理に笑顔でいようとしたりする中で、人によっては何かに依存して、自分の健康を害する形でバランスを取っている人も沢山いる。だからそうなる前の段階として、最近あった嫌な事や、頭に来た事、嫉妬した事等何でもいいので、体と心に溜まった邪気や泥のようなものを払うように、書いてでも、口に出してでも、動いてでも何でもいいから、自分の意志と選択であえてそれらを外に出していくイメージでヨガをしてみたら、また違う観点から案外とスッキリした感覚を得られるかもしれない。

伝統式にも、現代式にも、ヨガのジャンルは山ほど現存すると思うけど、せっかくヨガ=生きる事という大きなテーマがあるのだから、自分が悩んでいたり、考えていたり、陥っていたりするものに、何でもいいからこうやって最後に「ヨガ」をつけて、"○○ヨガ"って名前をつけたら、それはもう立派なその人にとってのオンリーワンヨガだし、それこそ自分の名付けた○○ヨガを通して、人生に無駄な事は無いという事を、自らの実感として得られるのではないだろうか。

人の数だけ人生があれば、きっと人の数だけヨガが存在する。私にとってのオンリーワンヨガだって必ずあるはずだし、誰にもそれはきっとある。そしていつか、人生に迷う目の前のその人にとっての唯一無二のオンリーワンヨガを、ヨガティーチャーとして導く事が出来たのなら、きっとYOGAを通したINCLUSIVEにも向かっていく事が出来るだろう。

なんだかんだヨガだからこそ、これが出来る無限の可能性を秘めていると思うし、だからこそ私はなんだかんだヨガについて考えるし、だからこそ私はなんだかんだヨガの魅力に惹かれてしまうのだ。


私のヨガに関わる学びや活動を総称するものとして、このHPのタイトルでもある、"YOGA INCLUSIVE"という言葉を使っています。

どんな願いを込めて何故この単語にしたかというのは、HPにも載せていたりもするのですが、そもそもこのINCLUSIVEという言葉は、ヨガ云々の前に、福祉や教育の世界で使われている"INCLUSIVE(又はINCLUSION)"の概念が元になっており、そこからの繋がりで持ってきた言葉でもあります。

福祉や教育関係の方はもちろん、そうでない方も、もしかしたらどこかで、「Social inclusion」とか「Inclusive教育」なんて言葉を聞いた事がある方もいらっしゃるかもしれません。

簡単にその2つの概念について書きますと、

まず「Social inclusion」とは・・
"全ての人々を排除する事なく、孤独や孤立から守りながら、同じ社会を生きる仲間として包み支え合っていく事"

そして「Inclusive教育」とは・・
"すべての子ども達が、障がい等の有無に関わらず、個々の教育的ニーズに応じた配慮を受けながら、共に学んでいく事が出来る"

というのが大まかな概念となり、この概念が先にあった上で、そこに私の中のヨガのイメージや、ヨガを通して目指したいもの、または目指せる可能性があるものが上手くマッチした時にこの"YOGA INCLUSIVE"というタイトルが生まれました。

更にそもそもを遡り、何故私の中に、福祉や教育で使われる「INCLUSIVE」の概念が頭にあったかというと、私自身がヨガの前に、教育と福祉の2つを学んだできたというのが第一にあります。

自分の事を少しだけ書くと、私は、大学では幼児教育を専門に学んでいました。卒業した後も保育士として仕事をしていたのですが、そこは保育園とは違い、24時間そこで子ども達が暮らす入所の施設だったので、一人一人の子ども達が施設で暮らしている背景にも、多様な社会問題が縮図のように詰まった形で、複雑な事情が沢山ありました。

将来的に子ども達への直接処遇にとどまらず、よりトータル的に幅を広げて支援していくには、大学で学んだものだけでは、やはり不十分だと感じていましたし、保育士の資格も福祉資格ですので、福祉についても全く勉強していなかった訳ではないのですが、一度改めてそこに特化をした上で、しっかり学びたいと考えていてました。そこで、仕事をしながら専門学校の通信課程に入って勉強を始めて、その時に学びを修めた一つの形として、社会福祉士という資格を取得したという経緯があります(ソーシャルワーカーとしてお仕事されている方が多い資格です)。

紆余曲折あり、今の自分は、福祉の分野でも、教育の分野でも、仕事をしているわけではないので、ここであまり福祉とは何か、教育とは何かと偉そうに論ずる事は出来ないのですが、せっかく志を持って、その時の自分が一生懸命学んだものになるので、どこかで、これら過去の学びに繋がる形で、新しいヨガという学びもそこに加えていきたいという気持ちが内側にはあります。

またヨガの実践には"カルマヨガ"と呼ばれる、結果への見返りに執着しない、福祉や奉仕の心を教えとして説いた実践もあれば、私がヨガを学んだ町田市にある"リシケシ ヨガシャラ"というスタジオも、インドのアシュラム(ヨガを学ぶ福祉施設)をコンセプトにしており、母体としてヒールジアースというNPO法人が運営しています。(法人が公式で運営しているものにはyoga societyという社会貢献活動を行うサークル団体もあるので、ご興味がある方は一度サイトを訪れてみて下さい。)

また、これは私が個人的に思う事として、ヨガの教えは子ども達にとっても、純粋に教材としての価値が凄くあるなと感じています。子ども達に馴染みのある生き物のアーサナ等から入って、遊び感覚を残した中で、ヨガの思想や哲学からの生きる上での大切な智慧等を、楽しく伝えていく事が工夫次第では可能だと思います。

私はよく、名前とか数字とかに何か意味を持たせたがるタイプの人間なので、何かのネーミング等を考える時も、安易にすんなりいつも決められなくて、考え込んでしまう事も多いのですが、これら要素を考えてみただけでも、まさにヨガそのものが、実は何も意味付けしなくても、そのまま福祉であり、そして教育であったりもして、自分の中でも何の違和感を感じる事なくヨガ×教育×福祉を結びつける事が出来、上手く3つのバランスが取れた中で、すんなりとINCLUSIVEという単語をYOGAの隣に収める事が出来ました。

そしてこの名前は、3つの学びを持つ自分だからこそ、説得力を持ってつけれる名前であると感じているし、他にこの名称で活動しているヨガティーチャーや、スタジオも無かったので、個人的には独自性もあって凄く気に入っている大切な名前です。

今後、どういう形でヨガを続けていくかは分かりませんが、この"INCLUSIVE"の精神や、社会貢献へ向かっていくベクトルは変わるものではありません。

こうやって書いていると、いかにも私自身が、ヨガを通して世の為人の為、福祉や教育で社会貢献を目指している、とても立派そうな人にうつるのですが、実際はそんなたいそうな理念を掲げられる程、人としての成熟はまだないし、自分の生活の為にお金を頂いて有償でのレッスンもするだろうし、欲やエゴや見栄など、あらゆる煩悩に心はいつも揺れているのが現状です。

また、ヨガと教育と福祉を3つ結びつけて考えたもう一つの理由は、世の為人の為も勿論ありますが、ヨガという学びに出会えた事で、過去の自分から、今の自分までの時間が上手く繋ぎ合わさって、これまで自分が過ごしできた過去の時間への否定的な感情に対し、少し寛容になる事が出来るのではないかという、自分の為という目的もあります。

よく皆さん"過去は変えられない!後ろを振り向かない!未来を見据えて!今出来る事に集中して!"と言いますが、私は過去は変えられると思っています。

今の自分に集中するしかない事は事実であるけれど、今の自分が過去をどう捉えられるかで、過去の嫌な思い出や、辛い事も、それはいかようにも変わっていきます。

例えば、よくスポーツ選手が怪我をして復活したあとのインタビューで、"あの怪我があったから更に成長出来た"と言いますが、怪我をしても復活すれば、怪我をしたというマイナスな過去の出来事も、プラスの過去の出来事に変わります。

だから私は、未来の為にというのも勿論ありますが、"過去の〜があったから今の良好な自分がある"というような、過去をプラスに捉えられるストーリーになるように、過去の自分の為にも今を生きるという感覚も常に持ち合わせています。

時間の流れは、過去→現在→未来の流れなわけですから、過去の捉え方が変われば、矢印の流れに沿って自ずと、未来まで繋がるというのが私の認識です。ただしあるべきポイントは常に中心である現在でなければなりません。未来も過去も同じように見据えながら、そこに揺れるのではなく、あくまでも、軸は今ここに置きます(これが一番大切です!)

ヨガがクビキとなり、今の自分と、過去の自分の何かが一つでも繋がれば、更にそこからもっともっと遡っていき、バラバラと断片的で虚ろになっている自分の中の色々なものが、数珠繋ぎのように繋がってくるのではないかと淡い期待をしております。

今はまだ、名前負けしているような所があり、私がYOGAで目指す、INCLUSIVEには何も向かう事は出来ていなくて、レッスンも休止になっている状況なのですが、最後までロウソクの灯火だけは消さずに残しておきます。

もしこのHPを見た、教育や福祉関係者の方や、ヨガをしたいけどスタジオには行きづらい、若しくは何らかの事情で行けないというニーズをお持ちの方、それ以外にもヨガに興味のある方がいましたら、まずは相談としてでも、簡単な問い合わせでもいいので、私のメールアドレス(ysyoga0203@gmail.com)にご連絡下さって結構です。

ヨガを通し私に出来る事があれば、お力になっていきたいと考えていますし、例え私に出来なかったとしても、まるで"ヨガソーシャルワーカー"のようになって、リシケシヨガシャラ含め何かコミュニティの中でお役に立つ資源を、皆様にご紹介出来るかもしれません。



私の場合、心の部分はいつも、揺れて乱れて、そして迷いばかりなのですが、肉体面に関して言うならば、揺れや迷いは殆どなく、ある程度自分の中で確立とまでは行かないけれど、軸であったり、このまま進んで行けば良いんだなという道筋のようなものが見えているので、殆ど不安や焦りを感じる事がありません。今後、今自分の持っている感覚的な部分に、解剖学や生理学等の正しい根拠となる理論が上手くマッチングし、より客観的に自分の肉体を捉える技術が養われて、今現在の歪みの部分を少しずつ解消していく事が出来たのならば、それなりの所まで肉体は極められる感じがしています。

ただし私は、体操選手やバレリーナのように、身体を使う事のスペシャリストでもないし、そういったバックボーンもないので、本当に熟達して身体を操作出来る人と仮に比べたとしたら、現時点ではまだまだ低い次元にいることは間違いありません。

しかし、身体の部分に関しては、そういう何かと比べるような感覚も全くないし、純粋に自分基準で自分自身の事として向き合えている感じがします。

昔はとにかく身体的コンプレックスが強くて、それにかなり苦闘させられた苦い過去があるのですが、遠回りしながら一周してまた戻ってきて、今後どのような惑いがあるは分かりませんが、現時点においては、ようやく自分軸の様なものを持つ事が出来たと思っています。

現在、身体で痛みや不快感として感じている部分に関しても、その時のダメージによる部分もあるのですが、体組織に大きな取り返しのつかないような傷がなく、ただ歪みや、それによって引き起こされている筋肉の緊張であるならば、恐らくこれらも今後改善させていく事は出来るでしょう。年齢的にいうと、ここから身体能力は一般的に落ちてくるのかもしれませんが、今は全くそんな感じはしないし、正直良くなっていくイメージしかありません。もちろん、髪が抜けて、白髪がふえて、シワが増えてとか、細胞レベルでの老化は抗えない部分はあると思いますが、コントロール出来るものに関しては、しっかり手綱を取ってコントロールをしていけると感じています。現に養成コースに通っていた時に、私よりも年を重ねてきている先生方の身体の使いこなしや、その若々しさを見ていたら、年齢は全く言い訳になりません。

何年か後位に、身体能力に関してはより高い水準に届くと思います(あくまでも自分基準ですよ)。そこからは大きな怪我や病気が無ければ、緩やかに上昇するか、あるいは保っていく感じでガクッと崩れる事も恐らく無いと思うし、それも凄く苦しい事を続けながらという感じでもなく、犬や猫がウォーミングアップなんかしなくても、広場を颯爽と駆け回る事が出来るような、そういうナチュラルに良好な状態を常に維持していくイメージで、ごくありのまま、自分に備わったものとして保っていける感覚があります。アーサナで特に磨かれていく身体感覚も、こういう人間という一種の生き物としてのポテンシャルを最大限に引き出していく所にあると日頃から感じているし、実際アーサナ自体、野生の動物や植物を真似るように作られているものが非常に多くあります。

アーサナに関して言うと以前だったらパッと絵や写真を見て、こんなの出来る訳が無いと感じていたものも、今は時間はかかったとしても、少しずつ向上していきながら、十分に辿りつける感覚があります。浅い所でなく、己の状態をよく知り、自分の中で根拠を崩さずにその感覚さえイメージとしてしっかり持つ事が出来れば、以前に別の記事で書いた事もあるのですが、あとはひたすらイメージの繰り返しと、日常生活での身体意識を高めていけば、無理に練習しなくてもその内必ず出来るようになります(100m走を3秒で走るとか飛躍したイメージになると、それはどちらかというと、より高次な第6感やスピリチュアルティに働きかけるようなものになると思います)。私の実感としてもそうだし、イメージトレーニングという馴染みのある言葉も浸透しているように、それは科学でも立証されている事として、やはり人間のイメージする力は侮れないはずです。

正直まだ痛みや歪みのせいで、もどかしい部分はあるし、もっともっと動かせるイメージの中で動かせないという、そのギャップに葛藤する事もあるけれど、敵がはっきり見えている中で、そこにアプローチも出来ているし、少しずつどのように向かっていけばいいのかが、目の前にレールとして見えているので今は慌てる事もありません。

ただし、アーサナを指導するという事を考えれば、やはり私の場合は、自分の中で凄く感覚的に捉えてしまいがちな所もあるし、何でどうしてそれが出来るのかとか、どうしたらそれが出来るのかと言われたら、上手く言葉にしづらい所もあるので、これをしっかり理論と根拠に基づいて、丁寧に分かりやすく説明出来るようになるには、もっともっと学びは必要だなと感じています。

自分が一人で追求していく分には、感覚重視に偏っても、自分が楽しければそれで良いかもしれませんが、やはり人に伝えるのには、それでは不十分、不親切であるし、何よりも怪我のリスクをまず第一に考える必要もあります。そして、私自身が先生方に解放学的指導を受けて、そこから技術の向上を感じ取る事が出来たので、純粋にそれを智慧として伝達し、多くの人とシェアをする事が出来たらとても嬉しく思います。

私は、心の部分は一度踏み込むと迷宮から抜けられなくなって、どんどん渦が大きくなったり、沈んでいくばかりなので、一旦そこの部分は置いといて、アーサナを純粋に技術の探求とし、ひたすら集中しながら、そこに打ち込むような時間を取る事も必要なのかもしれません。八支則の流れを念頭に入れれば、ヨガ実践者として、呼吸や心の動きの前に、まずは高いレベルでアーサナを実践出来るというのは、やはり最低限の事であるし、そこに到達して、初めて自らの心の揺れにも正面から向き合えていけるのかなと思います。まずは身体感覚の統合が図れなければ、心身一如、更にその先の梵我一如は目指す上での準備不足は否めません。

因みに元々純粋な身体的な追い込みには、割とタフというか、そんなに嫌いではない気質なので、指導力が付いてきた先に、そういのがお好みの人で集まって、ひたすらストイックに肉体を追い込んで研ぎ澄ませていく事を、修行のように行なってみるのも楽しそうだなと思います。分かりやすく数だけに拘るなら、別にイベントでなくても、毎月でも毎週でも108回太陽礼拝やっても私個人としては平気だし、体力に自信が無い方でも、現代的に3つの原理(過負荷の原理、特異性の原理、可逆性の原理)と5つの原則(反復性の原則、個別性の原則、漸進性の原則、全面性の原則、意識性の原則)に沿ってマラソンの練習のように、少しずつ強度や回数をあげながら練習を重ねていけば、ただ数をこなすだけなら皆行えるようになると思います。最初は数回なんとかやれていたものが、段々とこなせる数が増えていくというのは、目に見える自分の成長として自信になりますよね。

ヨガの思想も哲学も精神性も一旦は横に置き、これだけやって、これだけ出来るようになるという、分かりやすい数字上の達成目標を作って、心の揺れを打ち消すように、たまには気合いと根性でひたすらそこに向かってアーサナに打ち込むのも、青春時代の部活動のようでいいのではないでしょうか。

もしかしたら、その没頭していく感覚こそに、アーサナの "動く瞑想" と呼ばれる所以の答えを見つけられるかもしれません。


「もしあなたが神様だとしたら」

この仮定の中では、神としてのあなたははどんな事も創造できる力を宿し、どんな困っている人も助けられます。

でも助けられる人は1人だけ。
例え同じように100人助けたいと思う人がいても、選べるのは一人のみです。
(神様という言葉も一例なので、こういうシチュエーションになったらというあくまでも仮定の話しです!)

あなたが選んだその一人は助かり、
残りの99人は助かりはしませんが、あなたが選ばなかった事を要因として、その99人の人生に、何か影響を与えるという事はなく、どういう選択をしても、誰に対して平等も不平等も無ければ、神としてのあなたの選択は正しいものとして尊重され、それに対して残りの99人があなたに対し何か恨みの感情を持つ事もありません。

皆同じように、何かしらの苦しみを持ち、皆そこで同じようにあがいています。

そして神様はその人の過去から現在に至るまでの全ての行いも、心の中の想念も、良いところも、悪い所も、全てを見通し、全てを知っています。

あなたは、一体何を決め手にその1人を選ぶでしょうか?

また、もしそんな神としてのあなたの前に、困った状況に窮する人間としてのあなたが目の前にいたら、あなたは自信と確信を持ってあなたを助けたいと思いますか?

神とか、救いとか書くと、何か宗教的な感じもするのですが、この話しは以前私が人から聞いた話しで、その方は自分が人生に迷った時に、こんな感じで問答をしながら、自分の進むべき道(どんな人の役に立ちたいか)や、あるべき姿を見つける事が出来、また日頃の自分の行いや、振る舞い等を見つめ直す事が出来たとお話ししてくれました。

人間、疲れやストレスが溜まって、悲しい気持ちになったり、自分を見失いがちになってくると、どうしても自分の考えや感情にも自信を持つ事が出来なくて、段々と全ての物事に対して否定的に捉えるようになりがちです。また、考える視野や思考の幅も狭くなり、大きく広い視野で物事を考える事自体が苦しく、自分には不相応な事だと罪悪感のように感じる事もあるかと思います。

でも、このお話を聞いて私が感じたのは、
「もし例えば」いう仮定の中であれば、あまり負担に思う事なく、神という大きな視点から自然と心のブロックを外し、自分の沸き起こる考えや感情を俯瞰的に捉えやすくなるなという事です。何故なら何を考えても、何を感じたとしても、それはあくまでも「もし例えば」の世界で自分が考えた、全て仮定の話しになるので別に気にする必要もありませんし、自分が考えた事だけど、自分が考えた事ではないと、割り切りや無責任でいられる感情も作りやすいと思います。

この方は、自己と向き合う過程の中で、たまたま「もし例えば」という言葉と「もし自分が神様だったら」という閃きに辿り着き、それがその時の自分の状態にたまたま上手いことマッチした事で、生き方や自分の在り方の方向性を、自分の内側からの気付きとして得る事が出来た訳ですが、こういうバラバラだったベクトルを同じ方向にむけ直す感覚を、どういったものから得られるかというのは、人によってまさにそれぞれです。

因みに神様というフレーズが出たから言いますと、私は正直、神様系の話の類はヨガの学びの中でもあまり得意な方ではなく、色々なものに神のような崇高な存在が宿っている感覚や、祈りの感覚や敬いや感謝の感覚は自然に持てるのですが、「〜神」みたいに名前がついたり、絵や像等で「これがその〜神です」みたいな形を見たりすると、す〜っと気持ちが引いてしまう所があります。
(未だに「シヴァ」や「シャクティ」というヨガではかなりメジャー所の神様の事を言われても、神様と言われているからそれを神様の名前としては認識するけど、それ以上でも、それ以下でも無いという感覚のままです)

なので内省をしていても、目に見えない力にすがろうとする事はあっても、漠然とした感じでしか、神様という存在を感じとる事が出来ないので、自在神の感覚も乏しいし、「〜の神様お助け下さい」と、具体的に神様の名前を出してお祈りする事も苦手です。人によっては、神様や精霊や守護神といった存在からのメッセージを、直接聞く事が出来るという方もいるとは思うのですが、私の場合はどちらかというと因果応報、カルマの法則やそれを含めた仏教的な思想から自分を見つめていく方が、自然と内側の自分と向き合う感覚は深まります。

またヨガのクラスの最後にはシャバアーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる、死を疑似体験する究極の瞑想法と呼ばれるアーサナを行います。内観と瞑想は、お互い目的や本質は近くて似てるようではありますが、私の中では若干違う感じがあり、内観が自分の内面を観察したり対話をしていく感じなのに対して、瞑想はより無に近い形でより深く潜在意識に向かっていく感じになります(語尾に〜な感じが多いですね・・)

このシャバアーサナと呼ばれる究極の瞑想法であっても、横になってリラクゼーションの延長からそのまま吸い込まれるように内に入っていく事が可能な方もいれば、人によってはそこから自然や宇宙のように、より高次な広い感覚から内側の小さな一点に向かう人もいるし、あるいは愛とか癒しとかの、何かに包まれているような安心感の感覚から、気持ちや思考の波が収束へと向かい、そこから内側へと入る人もいるだろうし、または、知の部分からあえて脳内で考える動の部分を作ってから、思考を手放すようにして、静なる状態に向かう人もいると思います。

この辺の動きも私は、自分では上手くコントロール出来ない所があるので、シャバアーサナでもずっと外側の意識をボーっと漂っているだけの事もあるし、結構な割合でそのまま寝てしまう事も多いです。上手く内に入っていけたとしても、何がきっかけでとかはその時によって全然違ったりするし、偶然的な要素もかなり多いです。ただ上手く集中してグーっと内側に入っていった時には、感情が溢れて泣いてしまう事もあるし、数日間割れるような激しい頭痛が続いた事もありました(初めてヨガ二ドラを受けた時がそうでした)。

また、閉じた瞼の奥の闇の世界に、急に宇宙が広がったり、眉間やおヘソ辺りのチャクラはよくグルグル周ります(それ以外のチャクラは全く感じた事がありません)。チャクラはそれぞれ場所毎に色々な意味があるのですが、正直渦が回っている感覚だけで、そこから何か力が湧いてきたり、気付きが降りてきたりとかは無く、どうして今ここのチャクラが回るのだろうと、いつも疑問を残すのですが、それでも深く瞑想に向かえている証拠として悪い感覚は無く、覚醒後もやはり、スッキリした感じはあります。

色々と書きましたが、こんな風にどんな事でもいいので、何かの言葉や、環境、匂いやサウンド、考え方、スピリチュアル視点等、どういう所から自分が内側の潜在意識に入りやすいかという各々の感覚を、他人と共有していくのも、瞑想や内観を深める学びとして有意義なものになると思います。知恵として語り継がれるテクニック的な事でもいいし、自分の感覚やイメージの事でもいいし、哲学的に思考を深めながらでもいいし。

普段の生活だと「愛」とか「平和」とか「神」とか「エネルギー」とか「チャクラ」とか「宇宙」とか「〜教」とかそんな話しをすると、少し怪しい感じもして、周りの人もビックリしてしまうかもしれませんが、こういう事をためらわずに、感じた事や、浮かんだ事、考えた事、気づいた事、疑問に思った事を自由に話せる場があったとしてもいいと思います。何故なら、その中から得た気付きの価値は、どんなに沢山本を読んだり、インターネットで調べたとしても得られるものではないし、シェアの価値がとても高いものだからです。

頭の中で浮かんだ疑問の「?」は、どんなに些細な事でも、それは閃きと発見の大きな「!」に繋がります。実際小さな子供の成長なんかは毎日これの積み重ねです。ある程度ヨガのレッスンを受けて、技術や知識を習得したら、一度子どものように「何でこれは白いの?」「何でこれは丸いの?」といったシンプルな観点に戻りながら、習得した事に対する内なる声に耳を傾けていく事をおすすめします。「もし例えば」という小さな疑問から「自分が神様だったら」と子どものような想像を膨らませ、そこから人生の大きな気付きを得た前述のエピソードの方のように、思わぬ所から内観や瞑想が深まり、思わぬ気付きを得るなんて事も十分にあるし、自分の内側から得た気付きに優る学びはやっぱりありません。 

更にこの話しで言えば、ヨガの学びの段階八支側の二ヤマの中には、自在神祈念という言葉もありますし、また私達一人一人が宇宙の創造主なんだ、という考え方もあるので、「もし例えば」の仮定から入って、本当に自分の内側に神様を見いだしても、何ら大げさな事でもなく、もしその感覚が訪れたとするならば、それはヨガの目的の一つである梵我一如に向かう、凄く大きな飛躍だと思います。

何がきっかけになって、どこに飛躍するかなんて事は本当に分からないし、それは生きるという営み全てにおいて言える事です。根拠はなくても、こればかりは本当に予測がつかないので、だからどんな事も可能性を排除する事もないし、小さな気付きも無駄にする事もないし、今日何もなくても、明日偶然何かあるかもしれなくて、その何かを分岐点にして、人生が大きな飛躍へ向かっても全く不思議ではありません。智慧として獲得した、アーサナや呼吸法の技術も活用しながら、日々どんな状況でも偏りや歪みの少ない素直で純粋な状態を保ち、常にそれを自分のニュートラルとして保ち続ける事ができたならば、綺麗に整った部屋程小さなチリやホコリが目につくのと似た感じで、それこそ些細な気付きなんていくらでも見つけられると思うし(チリやホコリに例えると少し汚い感じがしますが・・)、それだけ人生を好転、飛躍させるきっかけも沢山あるという事に繋がります。

心身の不快感に気をとられて、そんな大切な気付きを逃してしまうのであれは、不安や寂しさも、悔しさも一旦は胸にしまい内に秘め、その瞬間出来る事は、兎にも角にもまずはやはりマットを敷いて実践を重ね、心身のバランスの調和を図るのみなのかなと思います。ダラダラと書いて、無理矢理な感じもありますが、結局最後は凄くシンプルな所に着地した感じがします。それだけ色々な揺れが自分の中にあるという事なのかもしれません。

結局は孤島で過ごす夜が一番居心地が良いのかもしれない。

心の中が、
0から100ではなく、
−500か、+200か位で揺れる感覚。

突然やってきては、
色々なものをなぎ倒していく、

今もまだ残る。

周りまで翻弄させて、迷惑かけては絶対に駄目だし、本当に救いが無いのは分かっているけど、でも、抑えきれないように色々な気持ちが湧いてきた。

以前の自分と変わらず同じように。

それは愚かで、とても醜いもの。
ふつふつと内側から感じているものはあったけど、ずっと気づかない振りを無意識にしていたのかもしれない。

潜在的に自分を麻痺させていたか、
それこそ幻想を抱いていたのだろうか。
ヨガという名前の力だけで、勝手にこの世の全ての波は収まり、無条件に全てはニュートラルに向かうのだと。

当たり前だけど、そんな事がこの世の中にあるわけがない。

違いも、揺れも、乱れも、迷いも、不均衡はあるのだ。それをまずこの世の前提として、認め受け入れなければならない。
ニュートラルであるという事、あるいはそれぞれがそれぞれの花を咲かすというのはそういう事なのだから。

頭の中では色々分かったようになったつもりでいたが、必死に言い聞かせていただけで、結局心の中では何も分かってなんかいなかったのだ。

手放したいと、無理に蓋をして、一生懸命誤魔化そうとしていただけで、まるっきり以前の自分と同じだ。

そしてこの気持ちに対して、
今はどうする事も出来ない。

悔しい。

まさに悔しいと感じる、この心の動きこそ、自分の愚かさの全てを象徴している。自分本位。何も成長をしていない自分の姿そのもの。

振りかえれば根本で全部繋がってくる。昔からの嫌な感覚の一つとして。
大きなエネルギーになる事もあるかもしれないけれど、最後はいつも苦しくなっていく。

自分に対しやっぱりそうかと残念に思うのか、改めて気づく事が出来たと肯定的に受け止めていくのか、馬車を放棄するにせよ、そうでないにしろ、手遅れでも、何であっても、やっぱり向き合わないと。

泣いてるだけじゃ花は咲かないし、
委ねているだけでは辿り着かない。
もっと根っこの部分から覆らないと。
全てをひっくり返す位に。
どこで何を学んで、何を与えられたとしても、肝心の受け取る自分自身がこれじゃ、ただ同じ事を繰り返してしまうだけだから。

とりあえず現実を見据えて、
まずはもう一度呼吸を整えて、
足元安定させて。

潔くこのまま泥水に沈むか、
それとも、もがいてあがいて沈むのか、
結局沈むしかないかもしれないけれど、
ポンコツでも、弱くても、愚かでも、醜くくても、都合が良くても、図々しくても、
泥水に沈んで埋もれながら、濁りと共に芽を出す蓮の花もあるかもしれない。

誰かと比べず、
そして誰かの為に、

明らかに見極めながらも、
少しずつ。
少しずつ。

それしか無いと思う。

(後記)
こんな独り言のようなことも、文章にして書いていると、内に向かう感覚と、外に向ける感覚の2極の中で、不思議と深呼吸を繰り返すように少しずつ揺れ幅を落ち着かせていく。

もう最後にして閉鎖するつもりで書いていたけれど、このまま残しておいてもいいかもしれない。

ここ最近は、日曜日の朝のレッスンに加えて、指導者養成コースの復習に、何度か参加させて頂く機会がありました。

あやふやで色々と分散しながらインプットされていたものが、少しずつクビキで繋がれるように一つになってきたり、あの時よく分からなかった事が、今改めて分かるようになってきたり、でもやっぱりよく分からない事はよく分からなかったり・・

復習であるので、同じ内容に近い事を同じように勉強しているはずなのに、必ずと言っていいほど、毎回違う視点からの新しい気づきが沢山あり、自分の中のグルグル渦巻くものに一滴何かが加わるだけで、渦の色や形や勢いが、あっという間に変化をしていくようで、一つ一つの学びが凄くまた新鮮なものに感じられます。

また、この渦は時に優しい穏やかな風を運んでくれたりもするのですが、時に雨風激しい、嵐のようにやってきては、あっという間に色々なものをなぎ倒し、あっという間に去っていくなんて事もあるので、大抵は渦のどこか遠くの方に避難をするか、あるいは渦の外側近く、または渦の中で大地に根を張りグッとバランスを取り耐え忍ぶ!!なんて事もしばしばあります。

でも、その渦の中心にはそれこそ台風の"目"のようなものがいつもそこにあって、それは近いようで、凄く遠い存在に感じるのですが、渦の外や中からでも、そこに純粋なる状態として、澄み切った青空が広がっている様子がチラチラとですが垣間見れる時があります。

雨風無い晴れたその内側の世界から、もしこの渦を俯瞰するように見る事が出来たのなら、その渦はただの渦であって、それ以外の何者でもないという事に、自分の中の気付きとして得る事が出来るのかなと、今はまだ想像の段階ですが、そんな事も最近はよく考えます。

養成コースは、今太陽礼拝や月礼拝を勉強されていて、中盤の一つ大変な段階を迎えているようで、養成生の方はインターンのレッスンを控えている事もあり、それぞれの事情の中で色々なものを抱えながら、呼吸の状態も少し浅くなっていたり、あるいは、吐く息深く溜め息が多く出るような状態になられているのかなと感じました(呼吸法の練習で解剖学の先生が、肋骨の動きの事をお話しされていたので)。

自分自身に置きかえて、あの時を振り返ってみれば、やはりインターンの時は、緊張や不安で、勉強して練習してきた事が全て飛んで、全く声が出なくなって、全く体も動かなくなって、来て下さった方に残念な思いを抱かせてしまったらどうしようかと、色々な不安や心配があったのを思い出します。
しかし、今思う事としては、インターンで得た学びの多くは、実はその感情があったからこそという前提事項がつくものが多く、それを考えれば、その感情に"気づく"事が出来たという事自体が、実は自分にとっての既に一番の大きな学びであったのかなと、そんな風に感じています。

後になって気づいたり、分かったりする事はあったとしても、「その時その場その瞬間」の緊張や不安は、やはり「その時その場その瞬間」の緊張や不安であるし、同じように重ね合わせてみながらも、どうしてもそこからはみ出た所が気になり、それとの向き合い方や解釈のしていき方で悩むというのは、これはもういくら沢山引き出しを作ったとしても、結局ずっと続くのものなのかもしれません。

いい意味でそこを開き直りに繋げて、そういった渦のような気持ちの揺れや迷いに惑わされる事なく、今この瞬間に集中出来るようになれば良いのですが、そこはまだまだ私自身も課題となる所であるなと感じています。

太陽に祈り、月に祈り、沢山泣いたり、笑ったり、色々なものが詰まったとても素晴らしい学びの時間となりました。

最後になってはしまいますが、日曜日のレッスンも毎週開催中(8:30〜9:40)です。
お時間、ご都合合うようでしたら、是非お気軽にご参加下さい。


あなたは、大きく上に伸ばした幹が象徴する"自信"以上に、少し疲れたように頭を垂らし、私達の目には見えぬ所で、土の下へと沈むように根を張る"謙虚"を併せ持つ。

そんなあなたの姿に内省を促され、何度も繰り返される自問自答の中、自信という言葉に謙虚さを見失い、また謙虚という言葉に逃げて、自信を持って幹を伸ばす事を恐れてばかりいる自分に嫌気が生まれ、音が静まり視界がボヤけた闇の中で、おぼつかない私の足元は更にバランス感覚を失い、心はそこに生まれる揺れと迷いに戸惑い、呼吸は乱れ、次第と全体としての統合を失っていく。

私はそんな自分を落ち着かせようと一つ息を吐き、地に足をつけ、虚ろな視線を前方一点に定め集中しようと試みる。

視線の先に映るあなたの姿は、一見するととても力強くありながら、目に入るその姿は、お世辞にも真っ直ぐ綺麗に一直線という訳ではなく、見た目に大きな歪みもあれば、痛みもあり、時折聞こえる、葉を擦るように奏でる音には切なさが内包する。

それはこの世の万物の中にあり、バランスと調和を象徴し力強い者とされるあなたでさえも、吹き付ける順風ばかりでない風を、その枝葉で必死に受け止め、根を張り、食い縛りながら懸命に生きてきた事を、隠し切れない雰囲気として醸し出している。

例えどんなに不器用に上に伸び、例えどんなに不揃いに曲がりくねり、例えどんな恐風に吹かれていようとも、変わらぬ姿勢でそこに在り続けようとする、あなたのその芯の強さに触れた私の心は、一つの気付きを得たようにそこで安心し、気持ちの迷いは収まり、身体の揺れも、呼吸の乱れも、一つの調和された状態へと向けて落ち着いていく。

また、あなたはいつも、肩を並べて視線を合わせるように寄り添いながらも、まるでもう一つのあなたが、少し高い場所から俯瞰するように全てを見渡している。

故にあなたは何でも知り、何でも見通し、例え道に迷う事があったとしてもそこに地図を広げる迄もなく、何処に何があり、そこに向かうにはどうしたら良いのか、私達に行き先までの案内を、気付きやインスピレーションとして届けるてくれる。

しかし、そんなあなたがどうしても教えてくれない事が一つある。どんなに私がその答えを導き出す事に苦闘しようとも、どんなに私がすがるように、それを尋ねようとも、あなたは決して"答え"としてそれを与える事は無い。

それはあなたから私への"厳しさ"でありながら、またそれこそが、私への最大の"愛"であると受け止めている。

普段は特に気に留める事もなく見過ごし続け、こんな時ばかり都合よく保護を求めに行くのも、はっきり言って御都合主義もいいところだが、それでも取り残される私を決して見捨てる事なく、あなたはいつもそこに居てくれる。 

側に立ち、鼻から入る匂いはどこか懐かしく、手の平から伝わる感触は、私の郷愁を心の奥深くで揺れ動かし、忘れかけていた私の生まれや育ち、ルーツの記憶を想起させ、私は安心した気持ちで、自分の事を語り掛ける。 

"人"見知りの私が、そうやって緊張する事なく語り掛ける事が出来るのは、そこに居て顔色、動き一つ変えずに、話しを受け止めるあなた自身の包容力であると同時に、きっとあなたが"人"ではないという事実がそこにあるからだろう。

もしこんな私であったとしても、
あなたのような芯の強さを得られる事が出来

もしこんな私であったとしても、
あなたのような優しさと、愛の力を備える事が出来、

もしこんな私であったとしても、
あなたのようにそこに実をつけ、花を咲かす事が出来るのなら

いつか屍として あなた の下で眠りにつき、いつか人ではない あなた として生まれ変わるのも良いかもしれない。

from YOGA INCLUSIVE

例え今一人取り残されたその場所が、遥か彼方離れた所にある陸の孤島であったとしも

孤島にも風は吹き、雨が降り、草が生え、花が咲き、星は輝き、陽はまた昇る。

例えそこで、深い孤立に苛まれ、息をするのも苦しい程の切迫感に追い詰められていたとしても

木々はあなたと共に語り
花はあなたと共に踊り
鳥はあなたと共に歌い
陽はあなたと共に笑い

雷があなたの代わりに怒り
雨はあなたの代わりに泣き
風はあなたの代わりに迷い

月はあなたの憂いを癒し
星はあなたの憂いを照らし
宇宙の景色はあなたの憂いを一時忘却させる。

それらは皆、呼吸をし、感情を持ち、各々が意思を持ちながら、まるであなたが今何を感じ、何を考えているのか全て分かっているかのように傍にやってきては、優しく寄り添う。

もし、苦しみの最中にいるあなたが今、目の前の出来事全てが他人事のように感じ、自分が今ここに生きているという"現実"そのものを失っていたとしても

目に映る花の彩り
耳で聞こえる風の音
鼻で感じる土の匂い
皮膚で受け取る陽の温もり

五感を通し伝わる、その自然界の愛と受容のエネルギーは、決して夢でも幻でも頭の中の空想ではなく、心の奥で受け取る癒しや安らぎも、心の奥から自然と沸き起こる自然界への畏怖や畏敬の念も、それら強烈に揺さぶられる心の動き全て、覚醒された意識の中の"現実"である。

精霊?八百万?
孤島での生活に疲れ果てたあなたは、無理してそこに神や魂を見いだす必要もなければ、何かを無理矢理祈ろうとする必要もない。

自然と共に生き
自然に生かされ
支え見守られている事

ただ五感でそれを感じ、そしてただ受け取ればそれでいいのである。

それはゆっくりと私達に、
今この瞬間を"生きている"という確かな"現実'を戻していく。

「母なる大地 父なる空」
そこがどんな遥か彼方陸の孤島であろうとも、そこに"地"があり"空"がある限り、私達はいつでも支え見守れ、そしていつでもそこに"帰っていく"事が出来るのだ。

from YOGA INCLUSIVE
今日はリシケシヨガシャラでのレッスン後、そのままスタジオに居残り、今行われている指導者養成コースの講義にそのまま参加をしてきた。

復習も兼ねてというと、凄く勉強熱心のように聞こえるのだが、本当は、レッスンが終わった後の手放したく無い"感謝"と"幸せ"の余韻に、もう少しだけゆっくり浸っていたかったのと、復習という言葉を、都合よく自分の強がりの言葉にして、ただそこに"居たかっただけ"というのが正直なところである。

途中で少し疲れて最後までは居られなかったのだか、最後までずっと居たいと、自然とそう思える安心感に満たされて、それを咎める人も、邪険に扱う人もいなければ、同じテーマの下で学びを共にする仲間達、そして全てを見守る師がそこにいて、あれやこれやと挙げればキリが無い程、私にとってはまさにその時間、その瞬間こそが"シャンティマントラ"の響きが根源として意味する"平和"であり"愛"そのものであると感じる事ができた。
(因みに今日は、授業の中で"シャンティマントラ"から"平和"の意味を考えるという内容があったのです!)

ヨガの勉強をしていると、それこそ"愛"とか"平和"とか壮大なるテーマが沢山ありすぎて、正直考える事に疲弊もする。疲れた脳に鞭を打ち、少し背伸びをした難しい切り口から、無理矢理答えを導き出そうとして、時にその壮大さに丸ごと飲み込まれてしまいそうな、自分自身のちっぽけさに焦燥感を感じる事もあれば、またそれがヨガを学ぶ事への不安へと発展していく事もある。

しかし、平和や愛を祈念する"シャンティ"3回の響きが、自分自身から派生して、身近なものへと広がり、この世の全てへと、その余韻を広げていくのと同じように、その逆をそのまま辿っていけば、壮大なる全体としての愛も平和も、全ては私達の身近な所に縮図として存在している事、そしてまた、私達自身がその全体の中の縮図であって、私達の存在そのものが、愛であり、そして平和を象徴する"壮大なる存在"であるという事に気がつく事が出来る。

はじめは、ただそこに居たいという、なんの目的もない状態でありながら、とりあえず復習という体裁でそこにいながらにして、しっかりと新しい気付きと学びも受け取れた、大変有意義な時間となった。
先生方や、16期の受講生の方達にも心から感謝の気持ちである。

さて!
自分の気付きのまとめが一区切りついた所で、ここからは雰囲気も変えて、レッスンを少し振り返りたいと思います!

今日は皆様肩凝りを気にされている方がとても多くいらっしゃいました。

私達の生活習慣には、肩凝りを誘発しやすいものが沢山溢れていて、特に生活必需品であるスマホやパソコン等の長時間使用は、姿勢の崩れや、眼精疲労、自力神経の乱れを引き起こし、それらは全て肩凝り症状の要因となります。 

特に仕事でPCを使われる方は、肩凝りがきついからデスクワークをしない!という訳にはいかないでしょうし、どうしても付き合いを続けていかなければならない事情がおありだと思います。

そこでお勧めしたいのが、パワンムクタアサナで行なったスカンダチャクラ(肩に指先を乗せて、肘で円を描くようにして行う、肩周りの気の解放を促すアーサナ)になります。

スカンダチャクラは、身体的な面で言うと、肩関節や肩甲骨の可動領域を網羅し、周辺筋肉のバランスを整え血流を改善するので、肩凝りの改善予防にも、大変効果的です。

行い方を簡単に振り返ると、
まず、肩に指先を乗せた所からスタートし、吐く息で肘を胸の前へと近づけ、肩甲骨は背骨から引き離すように外側に広げます。

吸う息で腕が耳の横を通っていくように、肘を後ろへと回し、(この時肩甲骨を背骨の方に引き寄せるように後ろに回しましょう)肘が自分の身体から1番遠くの方まで行ったら、 

吐く息で、両肘が身体の横を通りながら再び身体の前へと戻ってきます。

姿勢を正し、呼吸のリズムに合わせて繰り返し行い、きりの良い所で逆回転で同じように行います。肩甲骨や肩関節の動き、その周辺の筋肉の動きに意識を集中させて、小さな円を描く所から始め、少しずつ円の大きさを広げていくようなイメージで、肩周りの可動範囲を広げていきましょう。

スカンダチャクラはレッスンの時には必ず行うアーサナで、その効果と気持ち良さの実感から、私自身も時間を区切らずにずっと続けていたいと感じるアーサナです。

最後になりましたが、本日もレッスンにお越し下さり、ありがとうございました!
心から感謝を申し上げます。

from YOGA INCLUSIVE