ポトン。ポトン。
ポトン。ポトン。

濁りに染まった雫が、天から滴り落ちる。

大地はぬかるみ、熱の力は泥に埋まり、

風に乗る、残った煙が、
厚いベールとなって、また空へと広がっていく。

最後に残存するのは、
結局いつもの、小さな浮遊物。

突き刺す根は居場所を失い、
色も無く、
声も無く、
香りも無く、

細く、短く、また衰退していく。

さて、ここから翔ぶのか、翔ばないのか。

まるで、渦巻くように曲がりくねった迷路で彷徨い続けるように、

あなたは、
何度も、何度も、暗雲漂う空を下から覗き、

その背負った翼を、
前から後ろへ、上下、左右と、

開いて、閉じて、
また、開いて、閉じて、

羽ばたき、そして、それを躊躇うように、
繰り返し動かし続けている。

まるで奥歯でじっくり、何かを噛みしめ、そしてその味を確かめるように・・。

それは、昇ったものも、思わず上から下へと崩れ落ちていくかのような、とてつもなく苦くて、しょっぱい味。

ぶつかるような、大きな音を立て、

堅い一つのものさえ、
向こうと、こちらに分断させていく。

裂けた傷から、漏れ出していくもの。
妨げられて、失われる輝き。

秩序?原理?

それは抗うもの?

それとも、そのまま流れていってしまうもの?

正しい理解の欠如と共に、
また、心が揺らされていき、

緊張なのか、弛緩なのかもよく分からぬ渦が、グルグル、グルグルまた回り出していく。

頭が痛い。
目眩がする。
ご飯が美味しくない・・。

あなたにとって、夜はちゃんと、眠る為の時間になっていますか?
   
季節は今、梅雨真っ只中。
外の世界も、
雨。雨。雨。
そしてまた、雨が降る。

過ぎ去るばかりの、お日様恋しい時間に、心の中に滴るものも、少し濁りの混ざった、苦くて、しょっぱい涙雨ばかりかもしれないけれど、

でも、天と地との間で、何かが巡り、流れていくというのは、ただ、ただ、そういう事であったりもする。

春夏秋冬、4つの季節の間に、12の"月"があり、その12の月の間に、365個の"日"があって、

365個の"日"の間にある、沢山の分や秒の集まりその一つ一つにも、ちゃんと季節の巡りのようなバイオリズムがあると捉えてみれば、

どんな要素もまた、まるで潮の満ち引きのように行ったり来たりを繰り返す、大きく波打つ"備わるリズム"を持っていたとしても、決しておかしい事ではない。

それこそ、上に行ったり、下に行ったり、
右に行ったり、左に行ったりもしていきながら。

もし、その動きに疲れて、それを痛みとして感じる程に、ぬかるみの中に陥ってしまうのであれば、

今は、動きを止めて、

甲(よろい)のように重たくなった羽根は一旦おろし、軸の力を手放し、ゆっくりと大地に還っていく、そんな時間があったとしても、

それもまた、私達が選び取る事の出来る、大切な自由の要素の一つとして、巡り巡って循環していくのではないだろうか。

膝を伸ばして、
フ〜っと肩の力を抜いて、
そのままゆっくり、大地へ身を預けてごらん。

そこにあるのは紛れもなく"母なる大地"。 

全ては認め、愛され、そして受け止められていく。

今度は、耳を澄まして聞いてごらん。

"シトシト"
"シトシト"。

雨音の余韻が、開いた指先から、あなたを労わるように浸透していく。

まるで"父なる空"が、
あなたと一緒に、泣いてくれているように。

・・・。
・・・。

何だか、少し瞼が重たくなってきて、
眉間の辺りに、トロ〜ンと温かいものが広がるような、不思議な感覚。

それは、両目の周りを、優しく包み、
やがて鼻の奥から、頬全体へと広がっていき、

口の中を通って、

ゆっくりと喉を潤しながら、

最後に、胸の奥の方へとスーッと溶けこんでいく。

・・・。
・・・。
ポツン・・。
ポツン・・・。
 
どこからともなく、また雫が落ちる。

"あ〜ここにあったんだ"
何となくそんな感覚も湧いてきて、

懐かしい気持ちや、安心した気持ちが、爽やかな風のように吹きこんでくる。

その雫は、甘くて、豊潤で、
心の中をたっぷりと満たしてくれるもの。

喉の奥から、その味覚が拡がって、今度は鼻の穴からフワ〜っと幸せな香りが抜けていくと、瞼の奥に、彩り豊かなお花畑が広がりゆく。

その中心にあるのは、赤い三角?黄色い四角?
花びらが1枚、2枚、3枚、4枚、どれもが楽しそうに踊っていて、

じっくり眺めているだけで、根っこの部分に、精気が戻ってくる。

新たに内から漲る力は、
まるで熱い太陽のように燃え上がり、
そして宝石のような眩い光で輝き続け、

決して滅する事なく、その場所を自分の"居場所"として宿り続けていく。

今は、厚い雲のベールに覆われ、それがどこに行ってしまったのか、探し見つける事が、難しい状況なのかもしれないけれど、

例え、降りしきる雨にお疲れ気味で、
例え、羽根を広げて羽ばたく事を、躊躇いがちになってしまったとしても、

まるで、雨のち晴れで、そこに綺麗な虹のアーチが架かっていくように、

幾多の出会いや別れ、過去のそんな出来事一つ一つが、やがて、ぶつかるように離れていった、内なる自分と繋がる(yuj)為の、

色鮮やかな"架け橋"となっていく。

曲がりくねった道の途中、
2つの思いは、必ずどこかでまた交わり合い、

時に傷つけ、傷つきあいながらも、
常に、補い、そして支えあいながら、

決して支配する事もなく、
また、支配される事もなく、

それは、やっぱり、

天と地との間の、
ただ、そういう事の一つとして、

これからも巡っていく事なのである。


行き届かぬ思いは滞り、

それが、あとから痛み(Dukkha)となって追いかけてくる。

留まるものは、そこから離れ、
支えとなる軸の力が、内から外へと散り去りながら、
 
抗う者の、風の流れは止まり、
逆らう者の、光が遮られていく。

迷いこんだ逃げ道のような、風も陽も何も当たらぬその場所は、

少し息苦しく、また少し窮屈でもあり、

内に潜んだ"種"が、

風の感触へと、また陽の温もりへと向かって、ごく自然な事として、芽を出していく。 

それは、まるで眩しい陽の光の世界に、まだ少し瞼の重い、閉じた自身の"眼"を馴染ます、ようやく前に踏み出す"弱気の一歩"。

長い長い時間をかけた割には、なんだかとても小さい範囲のようだし、

また、覚悟を持って気持ちを込めた割には、動きも遅いし力強くもないのだけれど、

後ろを見たり、周りを気にする事から離れた中で、内なる自分の思いの下、確かに前に進む事が出来たもの。

心の中で、その一歩を噛みしめ、そして、たっぷりと味わっていく。

時々、その僅かな合間の、かすかな余韻の中で、

そこから何かをしようと進み始めた、今の、あなたの足を引っ張りながら、

そこまで、何もしてこなかった自分自身が、心の隙間に付け入り、こう声を掛けてくる。

"やっぱり自分なんか"
"分かってるんだけど"

"でも、でも、でも・・"

それは、いつもいつも自信が無くて、
ついつい下を向いてしまいがちな、あなたにとっての、少し言い訳混じりに、枝葉のついた、心の叫びのようなもの。

頭の中では、これから自分がどんな風に進んでいこうか、遊び心を持って自在に枝葉を伸ばし、彩り豊かにそれを想像していく事も出来るのだけれど、

気づけば、踊るようになびく、周りの枝葉の動きにつられて、自分のバランス感覚を見失い、

そこに付いた、赤、白、黄色、鮮やかに映える花の姿に、すっかり色彩感覚を狂わしていく。

頭の中で描いた、未来の自分は、まるで色味の無い枯れ草姿・・。

あなたはそれを、不自由で物足りない想像だと考えますか?

なんてつまらないものなのだろうと、見極めてしまいますか?

始まっては終わり、また、進んでは帰っていく事を繰り返す、そんな不安定な私達の住むこの世界においては、

"これが正解である!"
と言われているものでさえ

まるで、名も無きものの名前や、姿無きものの形を探し続けるように、

幾度となく、いとも容易く流転していくもの。

巷に溢れる自由な言葉に、
これをやってみたい!!
あれもやってみたい!!と、
自分の気持ちが高ぶるように踊り出す事もあれば、

逆に、
何をしたらいいんだろう?
これはしたら駄目なのかな?と、
気持ちがグラグラ、踊らされてしまう事も沢山あって、

まるで、先行き見えない不安や、
尽きないストレスが抑えつけるように、

頭で描いた枝葉は、綺麗に真っ直ぐ伸ばす事も、それを器用に表現していくのも、また難しい事になる。

そこに居る人の数だけ、そこで営まれている生活の数だけ、そこにある思いの数々が、どんな形で生長し続け、そこにどんな蕾がつくのかなんて、決して分かる事ではないし、

時には厳しく、また時には冷い世間の風に、右へ左へ揺らされながら、

それらに抗う事や、逆らい続ける事に追われてしまう事も多いのだけれど、

でも、でも、でも!!

まるで湧き起こる泉のような、
そんな思いも、そのまま受け止めながら、

自分の為に、また誰かの為にと、ありのままに、その枝葉を伸ばしていく事が出来たのなら、 

そこから響く、心の叫びは、 

例え、それが遠くの方から、微かに聞こえる小さな声であったとして、

例え、それが通りすがりに送る、ただの眼差しであったとしても、

自分にとって"大切な声"として、 
また、誰かにとっての"必要な眼差し"として、

二転三転しながらでも、やがて辿り着く場所へと辿り着いていく。

その固く握り締めた拳のように、あなたが、そこから流れまいと、頑なに執着し、掴み続けているものは何ですか?

震える身体、瞳から溢れ出るもの、

それは、心配だから?怖いから?心細いから?

まずは、鼻からゆっくりと息を吐きだし、
肩の力を抜いてみてごらん。

そして、深く呼吸を味わうように、握った拳を、優しく手放すように開いてみてごらん。

それは今この瞬間、何かが突然どうこうなる事もなく、

それは今この瞬間、自分の思いで簡単に制御(Nirodha)の出来る、

それは今この瞬間、とても安心(Sukha)できる事だから。

開いた手の平へと流れるものや、
そして隅々まで、辿り着いていくものが何なのか、

繊細な気持ちを持ったあなたなら、きっと分かるはず。

思う存分、それを解放(mukta)してみよう。
ありのままに、その風(pawan)に乗ってみよう。

厳しいだけじゃないもの。
冷たいだけじゃないもの。

曲がりくねった枝葉に、どんな蕾が成るのか、陽の光に慣れて、前より少し開いた、その"眼"でよく観てみよう。

どんな色?
どんな香り?
どんな形が観えてきますか?

離れたものは戻り、
根はまた少し深まりながら、

まるで囁くように描く、その優しい彩りは、

そこに至る、弱気な気持ちも、
そこに生じる、期待も不安も、喜びも悲しみも、

そして、湧き起こる、叫びのような、あなたの"心の声"も、

これからは、その一つ一つを"確かな一歩"としての、軸の力へと変えて、これからも、どこまでも、きっと繋がっていく(yuj)。

"抗うことなく、自分らしく"

伸ばした根の先、もう一つ深い所から、その意味を汲み取る事が出来たのならば、

あなたの痛み(Dukkha)も"暫く"は、
あなたを追ってくる事はしないだろう。


進んでいく者と、そこに縛られ続ける者。

左に見える明るいものが、抱えた弱さに溺れる、卑屈な自分の姿を明らかにし、

右に見える暗いものが、自分が自分として、そこに在る為に必要な、信じる力に陰りを与えていくかのように、

私達は時に、そのどちらを見ても、また、どちらも見ようとはしなくても、例えそれが光であろうが、闇であろうが関係はなく、そこにあるもの全てを、自分にとっての驚異として、不都合な解釈をしてしまう事がある。

それは、何も出来ない事が悔しくて、
また、何もしようとしない事が情けなくて仕方がない、その時の自分にとって、

常に、感謝の気持ちとして、その現実を受け入れ、また見極めたつもりなる、自分で自分を守る為に必要な、都合の良い心の働きなのかもしれないが、

それは、まるで氷山の一角のように、
ほんの少し、表に顔を出した部分を、自分の全てと思い、気持ちを装い続ける、少し冷めた自分自身と、

その奥底深く、漲る熱(tapas)を備えた、本来的な自分自身とが、激しく"衝突"するような、破滅的なエネルギーでもあり、

そこにはまた、まるで藪に眠る蛇を、わざわざ突き起こされるような、どこか噛み合わない違和感や、矛盾めいたものを抱える、納得しきれない自分の存在がある。

本当にこのままでいいのだと、心の奥底から、末端まで、隅々思う事は出来ていますか?

本当はもっと、胸を張って、自分らしく、そして力強く、そこに在りたいと思っているのではないですか?

もしあなたが今、繰り返される自問自答の中で、

土台となる肥やしを築く事や、柱となる根を伸ばす事、それら生長に必要な"地力(自力)"を蓄える事を疎かにしてまで、

周りの動きが気になり、
他と比べる事をやめられず、

いつまで経っても、掘った穴をまた埋め直すように、ただ痛めつけるだけの無意味な作業に、執われ続けていくのであれば、

例え今、平等に、かけがえなく誰もが受け取る事の出来る、豊かな"恵"がそこにあったとしても、

例え今、その恵から、唯一無二の、あなたという素敵な"芽"を出す可能性が、あったとしても、

まるで、土の中に取り残された、腐った一粒の小さな種のように、

あなたは、それに気付く事もなく、
そして、誰に気づかれる事もなく
 
遂には、まだ充分な可能性として残されているかもしれない、"本当の自由"を実らすことさえ、自らの意志と選択で、手放していく事になる。

自分の望む人生とは何なのか?
掴みたいものとは何なのか?
また、今掴めるもの、そして手放すものは何なのか?

私達が住むこのフィールドでは、極めて広大であるが故に、常に自分の意志で、どの道を選び、どう進んでいくのかを判断し、そして決断していく、その難しさが、"自由"の中に潜む"不自由"のように常に付き纏う。

時には、自分には本当に、自由な選択肢があるのか無いのか、それすら、分からなくなる事もあるし・・、

あるいは、自分は既に、選択するべき時を誤り、後戻り出来ないような状況にまで陥っているのではないのかと、不安で怖い気持ちに襲われる事もあるし・・

それは、まるで刈っても刈っても、しつこく生える雑草のように、整えて整えても、簡単に覆される、厄介なパターン化された癖(Samskara)のようなものでもあるので、

例えば、向きを変えたり、
回数を調整したり、

簡単に身体の動きを操るようにして、たやすく制御が出来るものではない。

それでも、同じ学びの中で、等しく説かれている事を追求すると、そこにはまた、"希望"を持って、一つ言える事も見えてくる。

宿命論?決定論?
頭の中で、また余計な渦を生み出しそうな、少し難しい話は、一旦手放して・・、

何を考える為に、何に気がつく為に、今の学びがあるのかを、原点に戻りながら、シンプルに、もう一度よく考え、もう一度それらをよく見つめ直してみよう。

今この瞬間の、不安や、恐れも、葛藤も、それら偽らず、ありのままを、その学びに変えて積み重ねる事が出来た先、

もし2極の対立したものに害されない、ある原則に沿った(アーサナ3原則より)中道としての、"この道"に辿り着いたとするならば、

そこでは、例え自らがどんな状況であったとしても、その厄介な癖を含めた、そこで感じる、喜びや憂い等の、表裏を行ったり来たりする葛藤や迷い、その全ての要素が、

"大地に根を張り力強く
見上げる空の如く、鮮やかに美しく"

まるで風に吹かれてなびく稲穂のように、砂塵を巻き上げ、吹きつける強風さえものともしない、願望、信念、愛情、情熱、希望に満ちた、噛めば噛む程に味わい深い、"生命の智"一粒一粒を、この広大なるフィールド溢れんばかりに展開していく事になる。

その"重々帝網"重なり合う、無数の繋がり(yuj=yoga)においては、

例え、その場に取り残されているような寂しさ、焦りに縛られていても、

例え、その場から後戻り出来ないような、後悔に執われていたとしても、

まるで、優しくて穏やかな、温かい感覚が(Shanti)、胸の中心から、身近なものへと、そして遥か彼方へと、少しずつ、少しずつ響き渡っていくように、

決して衝突をする事無く(anahata)
また、激しい音(nada)を立てるでもなく、

全ての響きは、生かし、分かち合う、一つの調和されたものとして、奏でられていく(anahata nada)。

それらは、あえて、自由の名のもと、さらけ出していく事ではないけれど、

あえて不自由に抑えつけようとする事でもなく、

それらは、時に苦しい事かもしれないけれど、

でもそれは、醍醐味や深みとして、表裏一体、大切な事とも繋がっていて、

それは、そう思えない矛盾を感じる事かもしれないけれど、

でもそう言い聞かせながら、少しずつ前向きに転換していってくれる、

何ものにも縛られる事のない、人生における、"究極なる自由の境地(samadhi)"と言えるのだ。


弱気の一歩も出せない、怠けた自分や、
向き合うべき事から、視線を背け続けた、その果ての望まざる結果としての、いくつもの貧しい自分

眼前散らばる、砕けた、幾多の"自分"という、あなたの欠片の数々も、仮に、少し離れた場所から、その道ごと眺めてみれば、

それはまるで、
道をなぞった、手元の地図を眺めるかのように、

ただ、あなたが自分で、それを拾い集めて、回収し、そこからまた、あなたがそのまま、歩みを進めていけば良いだけのような、ごく簡単な事として見通せる。

それは、ただ流れていたものが、流れなくなるような、そんなシンプルな事。

しかし、現実として、今この瞬間、その渦中において、その道を捉えてみようとすると、

まるで塗り潰された地図を片手に、見知らぬ道を彷徨うように、

東西南北、右も左も、どうにもならない程に見通す事は難しく、

頭の中は、グルグル、ゴロゴロ、グラン、ゴニョン、バチーンと、どうにも言葉にならない程の、大きな渦で一杯になっていく。

取り敢えずの気持ちを一つの頼り、全てを自分で選び、自分で決め続けてきた事が殆どである、あなたにとってのその道は、まさに今、あなたの望んだ通りのものとして、そこにあるはずなのに、

何故、
どうして、

あなたは、足跡一つ残らぬ、その泥濘だらけの道に、今更ながら"後悔"のような気持ちを、湧き立たせてしまうのだろうか。

抗わぬ事に、抗う為に?
隠しきれぬ事を、隠す為に?

ダイヤのような確固たるものでもない、ガラスのように壊れやすいあなたの心は、

時々、物質とか、精神とか、有限とか、無限とか、そういう知的好奇心をくすぐられるような、少し小難しい言葉で書かれた標識に影響されて、

例えば、
足るを知る(サントーシャ)事が大切なのだと知れば、無理して、そこにあるように見える、ただ何も無いだけの、現実に感謝をしようとしたり、

例えば、
激しい痛みや、苦しみがあれば、タパス(苦行)という言葉の、単語の意味そのまま、浅はかに解釈してしまったり、

すぐに、その標識の指す方角へと、その動きを偏らせていく。

しかし、そもそも、知る力も、祈る力も、元々乏しい、更には学び始めの、今のあなたにとって、それら簡単には分かり得ぬ筈の、言葉の一つ一つは、

まるで小さな子どもが、新しく買い与えられた、おもちゃの鎧で、自分の身を飾り立てていくかのように、

自分を少し強く、
賢くなったような気にさせては、

逆に、回る渦の流れに、余計な加速を与え、
更なる迷いの道へと、自分自身を引きずり込ませてしまう、難しい要素を含むもの。

本当は、不自然な形で、自然な自分が、妨げ(dukka)られ、

本当はずっと、同じ不安の中に、居続けているのではありませんか?

もし、不安に思う自分の事まで、
怖れとして不安を重ね、

怖れを重ねる不安な自分の事まで、
あれや、これやと疑ってしまい、

そこから何が目覚めて、何がどこへと昇り、何が開いて、何と繋がる(yuj)かもよく分からぬまま、結局最後は、何も変わらぬいつもの自分に戻ってくるのであれば、

まずは、心を鎮めて
祈りを捧げる、
その少し難しい過程の前に、

今、あなた自身が、
正しく、この地に根づき、

一つ一つをもう一度拾い、
また集めるように、

鎧を降ろし、言葉を離れ、
もう一つ深い所で、"正直(サティア)"な自分自身へと潜ってみて欲しい。

地は地として、花となり咲く事はないかもしれないけれど、

地は地として、花を支える為に、
地としてそこにあり続け、

花は花として、咲く事が出来たのならば、
花は花として、散り去りながら、

花は花として、地の要素として蓄えられる。

また、地は地として自分の姿を、花は花として咲いた自分の姿を、ありのまま見る事は出来ないかもしれないけれど、

空が空として、無限の広がりの中で、それらをいつでも包み、見守っていて、

やがて空も陽となり、雨となり、風となり、
生命の種を、地へと運び、

それら全ては地球を舞台にした、
宇宙という名のもと、

地水火風空、あなたを含めた、遍く要素に、"生命のリズム"として備わりながら、循環していく。

あなたが、あなたとして、
偽らざるままに、そこに在る事もまた、

この舞台の上の、欠かす事の無い、大切な要素の一つになるのだとしたら、

例え、言葉にならぬ、大きな渦に溺れてしまう事があったとしても、

例え、重たい鎧を纏い、自分を飾ってしまう事があったとしても、

それ程、不自然に自分を疎かにしすぎる事も無いと思うし、

もっと、
あなたが、あなたとして、

その身のままに、
受けとり、そして与えていけば、

きっと、それがそのまま、
あなたの"Yoga is Life"として、今"この道"となっていくのではないだろうか。

それは、少し難しいようでありながら、
それは、何の言葉を当て嵌める必要も無い、容易な事でもあり、

それは天と地程の、間が空いた事のように思うかもしれないけれど、

それは、遠く空の方から、地となる自分を、ただ見下ろし眺めるように、

それは、今この瞬間、地に渦巻く、
後悔も、不安も、怖さも、寂しささえも、

ただ、それだけの事であると、気がつかせてくれるのだ。

もうそんな気持ちも、湧いてこないと俯く位に、果たして、どれだけ多くの時間が過ぎたと言えるのだろうか・・。

もうそんな気持ちも、忘れてしまったと嘆ける位に、そもそも、それ程に、自分を満たすものがあったと言えるのだろうか・・。

普段はそんな事も、特に考える必要もなく、
常に、何かが当たり前にそこにあるような感覚の中で、日々生活をしていると、

私達は、本来それが、常に生じては、はかなく滅するような、姿、形あって、姿、形ないようなものであるという、物事に備わった本当の意味での"当たり前"の事も、よく見通す事が出来なくなる。

それが、あなたの"癖(samskara)"なのか、どうなのか、

自ら備わる、そのかけがえない自由を放棄してまで、

そこに何の流れもないのに、
一体何に抗い、

そこに何の形もないのに
一体何と比べて、

あなたは、
一体、無理して何をそこに当て嵌め、
無理してそこで、何を見いだし、

あなたは一体、何に悔やんで、
何に不安を抱き、

あなたは一体、何に憂いて、
何を恐れていくのですか?

全ては、あなた自身の判断で、あなた自身が選びとってきた事でもあるが故に、

そのあるがままを、受け入れ、明らかに見極めたつもりになり、

それら、思うがままに味わい尽くしているつもりにならざるを得ない、

あなたにとっての、受け入れるべき現実がそこにはあるが、

実際、少し冷静になって、
周りと比べ、

過去を振り向き、
未来の自分を展望すると、

そもそも、そこには、味も匂いも、何の彩りさえも、どこにもなく、

ただ何も無いだけの、無駄な時間の流れの中で、何も無いものを、ただ一人で見送るような、

そんな切ない、哀れな気持ちが襲ってくる。

本当は、心の中に、苦しい気持ちが募り続けているのではないですか?

本当は、状況が圧迫され続けているのではないですか?

あなたは、それでもなお、それらを一つの過程と信じ歩み続ける中で、

とにかく何かが、色や形や自分の響きとなって、とにかく誰かに何かが届いて欲しいと、

まるで、自らそこで躓き、
まるで、自らそこで傷つき
まるで、自らそこに痛みを感じに向かっていくかのように、

自ら、そこに血や涙の跡を、残していこうとするのだけれど、

結局それでは、何が何の響きとなる事もなければ、あなたは、これまで整え続けた、その全ての事まで含めて、迷い、彷徨い、貧しさを抱える、いつもの"我"へと帰っていく。

もちろん、そこから、何かが始まり、何かが終わりに向かう過程も当然あるし

また、物質的にも、精神的にも貧しいあなたにとっては、何も無い事の不安や、どこに何も残っていない事の恐怖感は、常に付き纏うものでもあるが故に、

これもまた、当たり前のように、それらを払拭しようと、焦りに駆られる事も沢山あると思う。

それでもやはり、
自ら、大きく道を外して、偏り続け、

本来の、あなたと違う、あなたの姿を、

わざわざ無理して"痛み(Dukka)"に耐える事までして、

不自然かつ不本意に、
それを響かしていく必要は、今ここには無いはずだ。

もし、それらの事が、頭ではよく分かっていながらにして、考えれば、考える程、更なる不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費しながら自らを疲弊させてしまうのであれば、

まずは、頭の中で
ややこしく考える事は、一休みにして、

まずは、正しく自身の坐法を選びとり、
まずは、正しくそれらを大地に根付かせ、
まずは、正しく背筋をスッと上へと伸ばし、

よく耳を澄ませて、
よく心を開いて、

まずは、そこで、あなたに宿る"自然な呼吸(生命の源)"を見つめて欲しい。

それは、
誰に認められる事もなく、
誰に評価をされる事もなく、
誰に何も届かぬままの、

色も形も存在しない、無意味な響きのようなものかもしれないけれど、

それでも、自然な呼吸という、生きる上で当たり前だけど、決して当たり前ではない、そういう生き物に備わる、根源的な生命の営みを通し世界を見つめてみる事によって

例えば、飢えているなら、食物を、
寒さに震えているなら、衣服を施すように、

本来的な"生命"の在り方とはどういうものなのかを、痛みのない無形の形として考える、そのささやかなきっかけが私達に与えられる。

私達が本当に手放していく事は何なのか、
私達が本当に得ていくべきものは何なのか、

本当の豊かさ?
本当の価値?
本当の繋がり?
本当の平和?
本当の幸せ?

なすすべない嵐のような驚異的な出来事が、どうにもならない位に、吹き荒れ続ける今だからこそ、 

私も、あなたも、それ以外の沢山の人達皆が、隔たりなく、等しく、危い可能性を含んだ、儚い生命の中に暮らしているという、当たり前の事を見つめ直し、

出口が見えないなら、
また、入り口まで引き返していくように、

今自分にとって必要なものや、
大切なものを、

今あの人にとって必要なものや、
大切なものを、

もっと、もっと自然に、
もっと、もっとあるがままに、

そこに備わるものとして、
そこに溢れるものとして、

過去の歴史や、
未来の予測なんかではない、
紛れもない"今この瞬間"の現実として、

もっと、もっと、
それらを"賢く"見極めていって欲しい。

何も無いと感じる、今だからこそ見えるその"満たされた景色"は、きっと、今なお、何も見えないと思いこんでいる、その闇の中にだって灯っている。

きっとイライラする事もあるし、不安が募る事もあるし、容赦ない現実は、差し迫ってくるばかりかもしれないけれども、

それでも、
儚い要素は、まるで金剛の如く確固たるものへと転換し、

危うい要素は、まるで母胎の如く包み込むような安心感へと転換していく事、

それこそ、まさに、"YOGA is LIFE"の教えなのだから、

自分を励ます為に、他に寄り添う為に、

何も無いと感じる、
何も残っていないと感じる今だからこそ、

一人一人が、かけがえないこの繋がり(yuj=yoga)の中で、共に分かち、生かし合っていくような、そんな優しい自分の"言の葉"を紡いでいく時なのではないだろうか。


時々起こる、どうにもならない事や、どうにかしようとする、気力が追いついていかない事。

何となく焦りのような気持ちの中で、無理矢理にでも、何かを見出す事に、あがいているつもりではあるのだけれども、

結局なす術ないと感じてしまう力の前では、それらは儚く、脆く、また無力であり続けてしまう。

思いの波動は、虚しくかき消え、
祈りは全く形にならず、

行き場を失くした、行き届かぬものは、やがて、疑い、迷いの渦となり、あなたが縋る、遠くの方で、小さく揺らぐ灯火さえも、あっという間に、無残に消し去っていく。

これが、宿命というものなのであろうか?
抗う事は、全く出来ないのであろうか?

その本質的な意味も、まだあまりよく分かっていないにも関わらず、一丁前にそんな小難しい事ばかりを考えながら、いつになっても、"答えが見つからない"事から抜け出せない、あなたの学びは、

何か理性を超えた所で、結局Yoga is Lifeとは、全く逆の所へ、向かっているように感じてしまう。

東西南北、何処から来て、何処へと向かっているかも分からぬ、ただ暗くて狭いその空間で、

あなたは、心の中で、
離れ続け続けているものや、増し続けているものが、

それらが何で、何の意味があり、
そこから何を学び、どう活かしていくのか等、

未だ結局、根本的には、何一つとして、明らかにする事は出来ていない。

時には、もがき、あがき、ただその事に追われているだけの、あなたのその姿、あり方を見て、

何も考えていない、自由に欠けた、悲しい生き方をしている人だと、誠に浅はかな解釈の下に、少し見下すように、判断する人もいて、

例え、あなたが真摯に向き合い、
例え、あなたが必死になって考え続け、

例え、あなたに、力強く、大きく広く、深いものが含まれていたとしても、

かけがえない、あなたらしさが、本来のものとは違った形で捉えられてしまう事もある。

本当は、悔しい気持ちもあるのではないですか?

本当は、心の中に、認められたい、本来の自分らしさが潜んでいるのではないですか?

確かにあなたは、上手に器用に振る舞いながら、賢く生きていく事を苦手とし、弱気で、心配性で、人間的にも未熟な所も多く、意図せず、人に嫌な気持ちを与えてしまったり、迷惑をかけてしまう事もあるのだけれども、

それでも、今あなたが感じる、辛さや、不安や、寂しさや、恐怖、もどかしさといった、あなたが"苦しい"と感じる気持ちの数々は、

決して全て、"あなたが悪い"という事ばかりではなく、それはそれで、都合の良い浅はかな解釈なのかもしれないけれど、だからといって、断じてあなた自身が、根本的な深い所で、人としての大切な"豊かさ"を欠いているという事ではない。

自分に対し、どうしても自信が持てなくて、
申し訳無い気持ちが離れず、自分を責めてしまう事が続くのなら、

例え志を、高く掲げられなかったとしても、
例え夢や目標に、上手く向かう事が出来なかったとしても、

それなら、それで充分でもあって、

少しだけ、肩の力を抜いて、
少しだけ、素直な気持ちになって、
不安に思う事なく、少しだけ、人にも頼っていきながら、

今まさに、"あるがまま"に生きられていない自分の事を、どうか"ありのまま"に尊重し、今この瞬間、そのあるがままの時間を、"思うがまま"に味わい尽くして欲しい。

誰にとっても、
もっと自由に生きたい、
もっと成長したい、
もっと幸せになりたいと願う事は、

それは意図して意気込む事や、無理して言い聞かせる事をしなくても、人が生き物として本能的に"備えている"ものでもあり、

ありとあらゆる生き物、植物含め、生命あるものとして、この世に産まれたものが、自ら衰退する事を目的にして、自ら不幸になる事を目指し生きているとは、考にくい事と同様に、

例えあなたが、今どんな様子で、
どんな状況のもと、どんな生活をしていたとしても、

あなたが、あなたなりに、自由や、成長に向かう為の、足掻きや、もがきとして、懸命に"LIFE"を全うしようとしている事は、まだまだ、閉ざされ気味の私の眼にも、しっかり捉える事が出来ている。

もし、あなたが、その備わる"生命のリズム"に改めて気がつく事が出来、そこで、新たな自己の姿を捉え直していく事が出来たのなら、

そこにはまた、新たな炎の揺らぎが一つ、遠くの方で、小さく揺らぎ始める事であろう。

この前より少し近づいて、
この前より少し大きくて、

また、何かあったら、すぐ消えてしまいそうな、儚さではあるのだけれども、

何度も、何度も、
創造、維持、破壊のサイクルを繰り返す中、

その炎は、少しずつ大きく、
少しづつ明確になっていく。

やがて、あなたの過去、現在、未来を含めた道のり、その全体は、はっきりと照らし出されていき、

これまでも、今も、そしてこれからも、あなたが進むその道が、紛れもなく"Yoga is Life"であるという事が示されていく。

例え、暗くて行き先がよく分からなかったとしても、
例え、暗くて足元がよく見えなかったとしても、

思う存分迷い、思う存分躓く位の気持ちで良いので、

なすすべない、
今だからこそ、本当に学ぶべき大切なことを味わい尽くし、

どうにもならない、
今だからこそ、その学んだ知恵の一つ一つを、いざ智慧の力へ転換し、

あなたがあなたとして、自信が無い事にも、自信を持ちながら、安心して、その学びの道を、歩み続けていけば良いのである。

大したあてもなく、
その場凌ぎで、どこに辿り着く事もなく、

いつまでも、終わりが無い"無いもの探し"に漂流するあなたは、

まるで、
認めるべき事を遠ざけ、
見るべきものから視線を背け、
在るべき場所から退くように、

結局また陥るように、同じ深みの中へと沈んでいく。
 
それは、
必要以上に何かを欲する事とも、
必要以上に何かを貪る事とも、違うのだけれども、

何をしても嬉しくないし、何を見ても楽しくないし、

あれも恐くて、これも不安で、
自分なんか誰の役にも立たず、
自分なんか何をしても駄目なんだと、

大きな、重苦しい"貧しい気持ち"となって、あなたの視野を、際限なく偏らせていくもの。

本来なら、そこにも
楽しい事や、嬉しい事、

あるいは、あなたにとって、必要かつ大切で、あなたにとって、何よりもかけがえないものが、遍く広がっているにも関わらず、

 "貧しい"自分に溺れるあなたは、

右も左も、真ん中も、何千何万、細かい網目のような、そこにある限りに広がる経路を自ら堰き止め、

本来そこから流れ、そこへと巡る、正しく循環するべきものを停滞させて、輝く本来的な、その"満たされた景色"を、自らよく観ようとはしていかない。

吸い込む力は、細く短く、
呼び込む力は、惰性の如く。

主要な渦が力を失い、
風に躍る千の花びら達が、上から下へ、一枚、また一枚と、息を引きとるように枯れて散りゆくなか、

醜い自分に迷い、愚かな自分に溺れ、まるで腐りかけの流木のように、何を燃やす事なく漂流し続ける、あなたのその瞳の中には、

今この瞬間、そこに広がる大海原は、一体どんな景色として、写っているのであろうか?

例えそれが、どんなに美しく純粋で、
例えそれが、どんなに私達を平等に照らしていくものであったとしても、

あなたが、
"金輪際こんな思いは二度としたくはない"
と、

これからも、いつまでも、卑屈で、貧しい気持ちに延々執着し続けていくのであれば、

そこには、味わい尽くせるだけの喜怒哀楽を見出す事や、

ダイヤのような、固い意志と決意を芽生えさせる事もなく、

一人誰もいない海原では、今抱えるその痛みを、誰かの為にと役立たせていく事も出来ないので、

それらは、ただ重くて、暗い、
"何も無い世界"として、

かけがえない、
大切な何かと繋がっていく(yuj)事も、やはり難しい事になる。

本当は、その重くて暗い世界に怯えているのではないですか?

本当は、何も無い世界に、寂しさが募っているのではないですか?

もし、あなたが今、陥る深みの世界の中で、緊急的に狭く圧迫されて、苦しんでいるというのであれば、

取り敢えず、
何かを深く考えようとせず、
どこかを無理に目指そうとせず、

穏やかな気持ちが、優しい波紋のように、自然と広がっていくのを、そこで静かに待ち続けてみる事も、長い目で見れば、間違いなく大切な時間になっていくとは思う。

それでも、何が縁や因となり、何が結果となっていくのかは、今この瞬間、あなたに顕現されているものだけには収まらない、過去、現在、未来を含めて潜在された、ありとあらゆる微細な要素が、複雑多様に関わり合う中での顕れであったりするもので、

何となく漂流しながら、
偶然何か潮の流れに乗って、
偶然何処かの岸辺に辿り着き、
偶然誰かに拾われ、

必然として誰かの役に立つ可能性があったとしても、

それは決して不思議な事ではない。

もし漂流を続ける過程の中で、我気づく故に、自然に無理なく、乱れた気持ちが落ち着き、少し冷静になって、物事を考える事が出来そうであるならば、

その限られた時間、
残された時間、
誰にとっても二度とは帰らぬ時間の中で、

時には、自ら陸へと上がり、多少の勇気を持ち、いつもより少し強気な気持ちで一歩を踏み出して、

今度こそ、次は必ず、絶対にと、
願いを込め、希望も込めて、

こうありたい自分、こうしたい自分のようなものに向かうつもりで、内なる意志と決意を旗上げしたとしても、

その程度の欲張り位なら、決して何かを必要以上に"貪る"事にはならないだろう。

そこにしかない、
貴重な経験、貴重な学び、
唯一無二のかけがえないものが、

いつ、どこに居て、どんな状況で、どんな生活をしていても、必ず見つけていく事が出来るというのは、 

決して、有限、無限、物質、精神、そういう、頭で学んだ単語に縛られていくものでは無い。

例えそれが、尽きる事がないものだとしても、
例えそれが、私達を悩ます種になるものであったとしても

そこから視線を背け、自らそこから遠のき、
いつまでも、何処までも、極端に受け入れ(inclusive)ようとしないのであれば、

それらは、決して満たされる事のない"貧しさ"として、

それらは、決して終わる事の無い"漂流"として

これからもあなたの事を、無限の深みの世界へと、沈み込ませていってしまう。

目の前に広がる、何も無いからこその"無限の充実"は、まだまだ、学び始めの未熟なあなたにとっては、

迷子になる程難しく、漂流する程広すぎる、
少し背伸びをした世界でもあり

例え、迷子の末に、
例え、漂流の末に、
例え、姿、形、限りある、物質的な豊かさに辿り着いたとしても、

それはそれで、今あなたにとっての、適切な学びの段階だと言えるのではないだろうか。

あなたが、
瞳の奥に隠し
瞳の奥に眠らし、
瞳の先で訴えかけようとしているもの、

それが何なのか、
それが何処にあるのか、
それでどうしていきたいのか、

通りすがりの私には、それが何か、まだ具体的に、はっきりと分からない事も多いのだけれども、

狭くて暗い箱の隅のような所で、今にも泣き出しそうな、あなたのその瞳を見ていると、

私達が考える当然の事以上に、
振り返りたくない事や、
思い出したくない事、

あなたにとって、あまり本意ではないと感じられた事が、まるで溢れる涙のように、その瞳の中の景色として、沢山存在してきたのだろうという事が、何となく想像させられる。

時に、人に呆れ、うんざりされて、
自分の視線が不意に誰かを嫌な気持ちにさせてしまったり、

また、相手の自分を見る眼差しが、何か心を突き刺さす痛みのように感じ、必要以上に相手の眼線を気にしすぎてしまったり、

そんな自分に対し、心の中が、悔しさや、情けなさ、申し訳無い気持ちで一杯になり、それが涙として溢れ、いつまでも、いつまでも、抑えきれずに止まらなくなってしまったり・・。

それらは、誰にでもよくある、ごくごく自然な事でもあって、気持ちが次第と塞いでくれば、なるべく一人でいられる、どこか暗くて、小さい箱の中身のような所の方が、自分にとって居心地良く、安心して過ごしやすいと感じる事も当然あるであろう。

しかし、まるでそれらを、必要以上の範囲で、自分のトラウマのように心に深く刻み込み、

もう何も見たくはないし、記憶ごと全て無かった事に・・と、極端に思考を偏らせ、

せっかく開いた自身の瞼を、わざわざ閉じてまで、記憶も新しい景色もない、暗黙の世界に居続けようとする事が、果たして、それがあなたにとって本当に自然な事と言えるのだろうか。

本当はもっともっと、その眼で見たいと思う事があるのではないですか?

本当はもっともっと、その眼で見てきた事として、伝えたい事があるのではないですか?

本当はそれが、不自然な事であると感じているのではないですか?

それは、あなたが意図したものでもなく、またあなた自身も、実は気がついていない事なのかもしれないけれど、

まるで、多種多様この世の生き物、植物達が、個に備わる唯一無二の生命のリズムを、"生きる"というその最も純粋な営みへと凝縮させて、言葉なき声、音なき響きに乗せて、縦横無尽に躍動させていくように、

あなたがそこで、どんなに塞ぎ込み、どんなに口をつぐみ、どんなに覆って、どんなに抑えこんでいようとも、

あなたが、その眼で見続けてきたであろう、人間の喜びや、楽しさ、嬉しさ、優しさ、

あるいは、楽しいや、嬉しいばかりでない、幾つもの、悲しみに、怒りに、寂しさに、矛盾や、不合理、不条理、怠けも、愚かも、誠実も、不誠実も含め、

四方八方、
それら、ありとあらゆる正しい事から、
ありとあらゆる正しくない事まで、あなたにとっての"生きる"という事に関わってきた営み、その要素の全てが、

今この瞬間、あなたのその、瞳の姿、在り方へと凝縮されて、まるで余韻として滲み出るかのように、遠くを見つめる眼差として顕されている。

それは、決して具体的で、
決してはっきりしたものではないけれど

時にそれは、音や文字や言葉や色や形で表現される事よりも、

より真っ直ぐ、より正直に、
深甚なるあなたの心模様を象徴し、

まるで色とりどり、艶やかに舞い踊る花弁の渦へと吸い込まれていくように、

あなたを見つめる者の心は、その中心へと、そして一つのものへと、融通無碍に融け合いながら惹きこまれていく。

あなたの瞳は、
決して大きな声で自分の名前を叫ぶ訳でもないし、決して自分の姿を必要以上に大きく見せようとしている訳でもなく、一見すれば、極めて受動的且つ、物足りなく、積極的でないように思わせるのだが、 

一方、何か広くて大きい永遠的な力で、遠くの方から、ありとあらゆるものを全て見通し、包みこむような、おおらかで優しい気品を兼ね備え、

それがまた、あなたの憐みや、慈しみ、即ち慈悲なる心としての、受容的要素へと転換されている。

あなたに、惹きつけられる者の多くが、あなたと同じように、どこか危うい、生き方、人生、不安や物寂しさを抱えている事が多いのも、

きっとあなたが、そのどこが受容的で、優しく包み込むような瞳の中に、自分の人生だけでなく、多くの人の辛さや悲しみを、

こぼすことなく、漏らす事なく、何の濁りもないまま純粋に、受け取り、映しとってくれているからなのであろう。

例えその眼差しが、虚空彷徨うような、虚ろなものであったとしても、

例えそこが今、思い出したくない事や、振り返りたくない事から、隠れようとしている小さな箱の隅であったとしても、

例え、その瞳の中に、溢れる涙を溜め混んでいたとしても・・、

あなたのその、珠玉の如く輝く、唯一無二の瞳の有り様は、決して誰かを真似して出来るものでもなければ、また、あなた以外の誰かが、見よう見真似で、絶対に真似をする事など出来ないのだ。

あなただから、見る事が出来たもの、
あなただから、見通していく事が出来るもの

そこから生まれる、瞳に宿る思いの波動は、

だからこそ響き
だからこそ届き
だからこそ躍動するものとして、

小さな箱の向こうの、通りすがりの人間なんか優に超え、

"虚ろな眼差し"として、どこまでも、どこまでも、遙かなる無限の範囲へと、力強く響き渡っていくのである。


もし、あなたが今いるその場所で、

誰かと比べた方が、上手く循環しそうな事さえ、そういうものだと都合よく解釈し、

原理に反するような、抗わなければならない事さえ無理して受け止めて、

必要最低限、そこにあってもいい欲まで欲張りだとして抑えこみながら、

目の前に広がるその光景に対し、自分がそれを望み、求め、自由の中で決断した事なのだと、胸を張って言い切る事が出来るのなら、

あなたは、
思う存分そのままずっとそこで俯き、
思う存分そこで、泣いていてもいいだろう。

無理して顔をあげる必要や
無理して笑顔を作る必要もないし、

涙を流し続けて、そのまま干からびるように蒸発しようが、俯向くあなたが大地に沈んでいくかのように消滅しても、

それら皆、あなた自身の問題にしか過ぎないのだから、正直、誰が困る訳でも、誰が迷惑するわけでも、そこで誰に恨まれ、誰に妬まれる事もないはずだ。

それは、ある意味では安心で、
それは、ある意味ではあなたにとって充実なのかもしれないけれど、

しかし、それと同時に、
恐らくそこでは、誰かに喜んでもらう事もなければ、誰かの役に立つ事もなく、誰かに悲しんでもらうという事もない。

本当は、寂しい気持ちを感じているのではありませんか?

本当は、心残りとして、何か悔やまれる事があるのでは無いですか?

あなたが、そこで繋がろうとしているもの、
あなたが、そこで果たそうとしている役割、

あなたはそれが、本当に"今ここ"にあるものだと、考える事が出来ていますか?

実際には、そんなに寂しい事はないかもしれないし、あなたの事を、心配、必要とする人も沢山いたり、あなたがいるからこそ、今この瞬間成立しているものが溢れていたりもするのだが、

俯く事や、顔をあげる事、
喜ぶ事や、悲しむ事、
笑う事、泣く事、怒る事、

それら、どちらが善で、どちらが悪とか、自由な思考のもとに、そんな事ばかりを考え、下を向いて俯く事を、これもまた自由の一つとして選びとり続けていくのなら、

あなたはいつまで経っても、本来そこで自由がもたらすはずの、本当の姿を捉える事は出来ないのである。

進む事も、停滞する事も、退く事も、確かにそのどれもがあなたにとって、自由な事であるには間違いないし、あなたがそれで納得した理由を作ろうと、わざわざ狭く圧迫された、不自由な自分を選びとっていく事も、これもまた、あなたの自由なのかもしれないけれど、それでも自由とはまた、決して誰にとっても"偏り"に向かっていく為に、存在をしている訳ではない。

もっともっと、そこに生まれているものも、滅したものも、あるいはこれから生まれるかもしれない、潜在された、思い、意識、それらありのままの全てを含め、物事を包括的に広げた意識で、自由自在に観ていこうとする事の方が、そこに"純粋なる歓喜"へ繋がる(yuj)、本来的な自由の意味する由縁なるものはあると思うし、

もしかしたら、常に余裕の無いこの現代のフィールドにおいて、思うがままに自由の羽を広げる事は、決して容易い事ではないのかもしれないけれど、それでもそれが、あなたが顔をあげてはいけないとか、楽しく笑ってはいけないとか、喜んではいけないとか、本来の意味での自由をためらったり、偏ったり、抑圧したり等、自分自身を束縛しても良いという理由にも決してならない。

もし、あなたが自分の今いる場所を、暗くて狭い井戸の中だと錯覚しているのだとしたら、それなら、それでも良いだろう。

視線なんて遥か彼方、自由に彷徨いながら、どこに置こうが、暗い井戸の中で、結局何かが見える事もなければ、足下だっていつもグチャグチャ、大地に根を張ろうと意気込む必要もない。

時に、泥にまみれ、埃にまみれた自分の事を、沈んだ塵や埃のような、駄目な人間なんだと罪悪感に苛まれてしまう事もあるし、

時に、寂しくなって、一人大きな声で叫んでみたら、何でこんな事をと少し恥ずかしい気持ちや、やっぱり自分なんかと、恐縮した気持ちが湧いてくる事もあるかもしれない。

それでも、あなたが思う存分、"本当の自由"として、笑えるなら笑い、泣けるなら泣き、単純な事を、そのまま単純に捉える位の感覚で、もっと、自然に、シンプルに、俯いたり、泣いたり、笑ったり、楽しんだりを謳歌する事が出来たのならば、

例えあなたが泥でも、塵でも、埃でも、
例え弱気や、陰気や、ネガティブでも、

そこであるがままに舞い上がり、舞って、舞って、舞い切った先に、塵や埃も積もって不動なる山のようなあなたの"象徴"が、きっと威風堂々そこにそびえ立つ。

どこで何が何の響きとなって、誰に届くかなんて分かる事では無いし、これはきっとタパスなんだと、あえて無理な解釈で受け入れ続け、疲れた身体と、乱れた心で、磨かれるべき、かけがえない大切なものをそのまま雲らせておくのなら、

多少他人と比べて
抗って、
少しばかり欲張る事があったとしても、

それもまた、あなたの"自由"な意志と選択に基づく決断の一つとして、何も心配なく、尊重される。

あなたの自由は、
あなたの重荷になったり、
あなたに苦しみを与える為のものではない。

あなただからこそ、 
その自由を本来的に全うする事が出来、

あなただからこそ、
それを表裏一体、善も悪も、良いも悪いも、喜も憂も全面的に味わい尽くし、

慈悲なる心が備わる、あなただからこそ、
それを人の為にと、役立たせていく事が出来るのだ。



私達は、誰よりも学ぼうとするし。
私達は、誰よりも努力しようとする。

それでも、
私達は、それをどんなに学んだとしても、
私達は、そこでどんなに努力を重ねたとしても、

私達には、絶対に満たされないものがある。

私達が、その閉じられた瞼の奥で懸命に見ようとしているもの、

私達がその覆われた視界の中で、見えていると思い込んでいるもの、

私達は一体何を見ようとして、何が見えていると思い込み、何に満足をしたと言っているのだろうか?

刻みこまれた行き場の無い思いを源とし、熱く、熱く、燃えたぎらせて、決して燃え尽きる事なく、残存した黒く焦げた塊のようなものを、

それを私達は支えとし
それを一つの解釈として
それを今の私達にとっての象徴としているのかもしれないが、

紛れもなく、それが"今の"私達にとって、自らの偏りを、何よりも定着させているものなのではなかろうか。

あなたは今、人間の湧き立つものの根本が、何処から由来し、どこに帰結していくのかを、繰り返される経験を一つの根拠としながら、おおかた理解したのだと思い込んでいるだろう。

それは、どんな仮説をもって、覆そうと思った所で、容易に覆す事などできなくて、

どんな、偉い学者が書いた論文や、
どんな、最新科学技術で裏打ちされたデータなんかも、遥か彼方へと超えていく、

あなたにとって、何よりも説得力のある、絶対的な根拠のように感じているかもしれない。

あなたは、
それを、うんざりだと感じていますか?
やっぱり、そういうものなんだと思いますか?

否定しても良いんだよと、肯定する気持ちを、無理に否定して抑えこんでしまったり、

抗ってもいいんだよと、抗わない事に、無理に抗ってみたり、

都合のよい言葉を当て嵌めて、仕方ないものだと明らかにしたつもりなって、

まるで、広い、広い大海原の景色をその眼で見てきたかのように、もしあなたが、そう見極めたと断言するのであれば、

もはやそれさえもまた、あなたを深みに陥らせている要因、そのものの一つになっていると、言わざるをえないだろう。

揺れを認めるんだという、揺れに翻弄され、ようやく行き着いたと思いんこんでいる先に広がる、幻想(マーヤー)の世界。

彷徨い込むあなたが、そこで、見る事、聞く事、触れる事、感じとる事ができるものは、

例え、それがどんなに価値があるものだとしても、

例え、それがどんなにかけがえのないものであったとしても、

例え、あなたがそれをどんなに大好きで

例え、そこにどんなに手放したくないと思えるものがあったとしても、

結局、その全てはまた、あなたの下からは離れていってしまう。

それは、
うんざりでもなければ、
やっぱりでもなんでもない。

時には、自分にとって不都合だったと極端に嘆いてみたり、逆に、無理をしてでも、そこに感謝の気持ちを抱いてみたり、自分で自分を納得させたいと、色々と試みているつもりなのかもしれないけれど、

そこで生じる、何度も繰り返さると感じているものや、または、いつもしつこく蔓延るように、付き纏ってくると感じているものも、
それは不確かな憶測なんかではなく、実際そこでは何も起こっていなかったり、何も存在すらしていない事もある。

あるいは、そこで起きている事の全てが、あなたにとって、何よりも今必要な事だったするにも関わらず、

もしあなたが、
ただそこで瞼を閉じて、
ただ佇む事を続けているのであれば、

いつまで経っても、そこに生じている、若しくは、生じていないかもしれない"本当の姿"を捉える事は出来ないだろう。

あなたは、あなたの意志で、その瞼を閉じ、あなたは、あなたの意志で、その瞼を開ける事を手放してきたのではありませんか?

もう随分そこに居続けているからこそ、自分ではすっかり忘れてしまったのだと言うかもしれないが、でも本当は、それを理由に"忘れた振り"をしているだけなのではありませんか?

今あなたが、永遠の中の過程として、一つのサイクルの中にいる事や、また、開いた瞼の向こうの世界に、素晴らしい一如の世界が広がっているなんていう事は、散々これまでにも学んできた筈だ。

あなたが本当に手放さなければいけないもの、
あなたが本当にしなければならない事、

わざわざ言葉になんかするまでもなく、あなは心の奥底では、きっとそれが何で、それがどういうものなのかも、その学びの中で、全てを分かっている筈である。

それをただ知恵としてそこに留めておくのか、あるいはそれを"智慧"の力として昇華させ、新たな根拠として転換していく事が出来るのか、

それらの答えは、
どんなに頭で色々な事を考えようとも、
どんなに言葉で色々な事を覚えようとも、

その次元の中で、どうこう出来るものではないし、与えられたクビキ(yuj)を最終的に繋ぐ意志と決断は、誰かが代わりにしてくれるものでもなければ、偶然見つけるものでもなんでもない。

本当の智とは何なのか、
本当の慧とは何なのか、

あなた自身も既に気がついている事、
あなた自身も既に知っている事、

備わるものとして、
"今ここ"にあるものとして、

あなたが、その重い瞼を自らの力で持ち上げる事が出来た時、

あなたはそこに始めて、黒く焦げた燃えカスなんかじゃない、眼前、遍く光に照らされた、輝く本来的な"満たされた景色"を目にする事が出来るのだ。

今なおそこに輝く生命の煌めきは、
あなたをどこまでも優しく、暖かい気持ちへと受容していきながら、

それは、どんな時も、あなたの傍から決して離れる事はなく、

それは、いつまでも、全てを包み込んでいくかのように、

それは、ずっとずっと、果てなく無限の領域へと広がり続けていくのである。


"それは時として、壁となる"

発するものも、受け取るものも、全てを遮るものとして、立ちはだかり、四方八方、あなたの身動きを封じ込む。

そこにあるのは、根源的な無知なる"無"の世界。

見渡す限り、音も形も言葉もなければ、何一つ語られるものも、何一つ映し出されるものもそこには無く、何一つとしての響きも存在しない。

空間はまるで置かれた箱の中身のように乾ききり、
大地は息を引き取るかのように沈みこみ
風は不穏なる邪気のようにまとわりつき、
水は悲嘆の溜まりのように澱みゆく。

あるべきはずの、本来的なものは、漆黒の炎に掻き消され、吸い込む煙に咳込むあなたは、呼吸のリズムを乱され、遠のく意識と、霞んだ視界に、ありのままの心の姿を見失う。

生まれる壁への破壊の衝動。
期待通りにならぬ気持ちの焦りは、壁を更に分厚くし、無理に破壊を求める程に、闇は更に深くなる。

下へ下へと陥るような、分厚い無限の深みの世界は、やがて破壊を求める気力も、どうにかならぬ焦りの感情さえも、全てを飲みこみながら、あなたを"怠惰"の渦へと引き込んでいく。

"それは時として、扉となす"

怠惰に溺れ、厚みを増す壁の姿に気力を失うあなたは、いつしか、あるはず無い一つの扉を壁の中で幻想する。

そこにあるのは、あるはずない扉であるが故、あなたは扉の向こうの世界を、一切見た事ないにも関わらず、脳裏に浮かぶ浅はかな解釈に惑わされ、扉の向こうと、こちらという2つの世界が、今ここに在る事を判断する。

扉のこちらに、光が届かぬなら、
光はきっと扉の向こうを照らすはずであり、

扉のこちらが光を浴びていないのなら、
扉の向こう側は、きっと光を浴びているはずであり、

扉を開ける事が出来た者は、扉を開ける事を許された者

扉を開ける事が出来なかった者は、扉を開ける事を拒否された者、

そこには、優が有り、劣が有り
そこには、勝があり、敗が有り、

そこは隔たれ、分けられ、対なる明と暗を象徴するのだと。

その隔てた2つの世界は、まるで壊れた定規のような歪な尺度で比較をされ、そこから生まれる、妬み、嫉みが、心を激しく喧騒させていく。

誰かのせい、何かのせいと、あるはず無い、開かずの扉は言い訳となり、自分で自分を守りたいが為の、本来的な役割からかけ離れたものが、やがて自らの使命であるかのように錯覚させられていくのだ。


"それは時として、姿を持たぬ"

あるはず無い開かずの扉に、途方に暮れたあなたは、そこに倒れるように仰向けになり、不意に視線を上にあげる事となる。

視界に飛び込む、満点の青空、
空間を彩る、色めく紅葉。

肌を刺すかの如く冷たい高野の風と、風になびかれ、大地に散りゆく葉吹雪に、いつの間にかの秋の終わりと、冬の訪れを実感する。

麗かな冬の日差しが、次第と心を覆う靄を取り払い、そこには、雲一つ無ければ、分厚い壁や、開かずの扉の影もない。

あなたの心は、まるで波が収まるように、落ち着きを取り戻し、澄んだ心の水面には、この世に備わる自然の生命のリズムが共鳴する。

まるで、
水のリズムが生命を循環させて、
火のリズムが生命の種火を燃えあがらせ
風のリズムが生命を言葉として運び、

大地のリズムが生命の母となり、
空のリズムが、そんな私達の生命そのものを見守りながら。

各々奏でる生命のリズムが、無心に、歌い、踊り、語り合い、この宇宙という無限のホールの、地球という舞台の上で、一つの旋律として調和をしていくように、私達は皆、同じ舞台の上で、同じ陽の光に遍く照らされ生きている。

そんな唯一無二の事実において、まるで泉が湧くかの如く、自然の理として解き放たれた、そのあるがままの光景は、遮るものも無ければ、全ては融け合うかのように、こちらや、向こうといった区別は無く、

それを受け取るあなたの意識もまた、まるで環境に応じて、蒸気や氷と姿を変える水の性質の如く、融通無碍に絶えず変化を繰り返していく。

ある時には、壁になり
ある時には、扉となり
それぞれ翻弄しながら、

ある時には、ふと姿を消して純粋な姿に立ち戻り、ある時また、それが壁となって自分の前に立ちはだかっていきながら。

自然の循環、春夏秋冬、季節の巡りの如く、そこには決して、抗い、逆らう事等出来ない、無常といえる原理が存在し、その原理において、確信をもって断言できるものは何も無いのかもしれないけれど、それでも不確かな変化がそこにあるからこそ、同時に、初めから全ての可能性を閉ざすものも、また存在はしない。

まるで、さえずるような小さな鳥が、大きな羽根を広げて、優雅に空を舞うように、

まるで、1本の木が枝葉を自在に空へと伸ばし、幾多の花の姿を表現しているように、

あなたという一人が刻む、自由な意志と選択も、全ては一如に繋がり合う、この地球という大きな舞台の上で、かけがえない、唯一無二の"生命のリズム"として躍動していく。

ある日突然、舞台の幕を降ろしてしまう判断はどこにも必要無いし、

疑い深く澱んだ迷いの心も、いずれ素直で清らかなる洞察心へと展開し、

湧き立つ焦りや、嫉妬の力も、やがて不安や恐れに勝る、旺盛なる興味関心へと移ろいゆくだろう。

例えあなたの今いる場所が、
遠く離れた陸の孤島や、暗くて狭い井戸の中であろうとも、

例え、あるはず無い扉があなたを錯覚させて、

例え、四方八方、大きな壁に身動きを封じこまれているように感じていたとしても、

私達はいつでも、その備わる躍動的な"生命のリズム"に乗って、

自由自在、壮大なる"人生"という名の音色を、この宇宙という無限のホールに響かす事が出来るのだ。


ヨガの発祥は、遡る事紀元前数千年。そこから時を進めながら、元々はバラモン教等から由縁とする、古代インドにおける密教的行法の一つとして、その体系を確立していったという背景があります。

なので、ヨガというと、イコールでインドをイメージする方も多く、本場で本格的にヨガを学びたいという方の多くは、真髄なる教えを求めては、先ずインドへと旅立ち、アシュラムと呼ばれる、ヨガの修練を積む場所に滞在をしながら、そこでヨガの知識や技術を体得していきます。

しかし、ヨガの歴史を遡り、先述した密教の行法という視点から、それがどういうものかを捉えてみるならば、日本国内においても、世界に誇れる素晴らしき聖地が存在する事を忘れてはいけません。

日本で密教と言えば、今からおよそ1200年前、遣唐使として唐に渡り密教を修行した空海(弘法大師)が、日本に帰国した後、その教えを広める為に開宗した、真言宗(真言密教)という宗派が有名で、和歌山県にある"高野山"にその総本山(金剛峯寺)を構えます。

ヨガ=高野山とイメージをする方は、あまりいないかもしれませんが、中国で"瑜伽(ユガ)"と名付けられていた、伝統的な宗教技法であるヨガの教えを、日本に最初に伝えたとされているのも、まさにこの空海(弘法大師)であると言われていて、真言宗の代表的な教義でもある、身(印を結び)、口(真言を唱え)、意(心を仏のように穏やかに)の3密行により、生きとし生ける全ての生命の根源、即ち宇宙の真理を象徴する大日如来と、我との合一を図るという考え方や、その根底に流れる思想の数々は、まさに私が学んだ、大好きな"梵我一如"を含むヨガの世界観の象徴そのものでもあります。

「密教とは何か」という、言葉で簡単に説明できるものに関して言えば、ネット等でも沢山情報が出てくると思うのでここでは書きません(と言いますか、正直まだ詳しく書ける程の知識がありません・・)が、その教えの奥にある真髄というのは、こういった文章や言葉では簡単に表現出来ない、より難解な次元の中にあるとされていて、教義の伝承も、師から弟子への直接的な口頭伝承が基本となり、また秘伝としての儀式や行法の実践を通し、自らで体得をしながら学んでいくというのも特徴になります(密教が秘密の教えと呼ばれる所以です)。

なので、自分の日々の生活の中に、一つの思想としてその教えを活かしていく分には、テキストのようなものを見ながら、生涯学習のように楽しく学んでいく事も出来るのですが、教えを正しく深くありのままに会得し、ましてはそれで人を導くということになれば、どんなに自学自習を重ねたり、どんなに行法を体験のように重ねたとしても、決してそのレベルへと到達出来るものではなく、実際には深い帰依心を持ち、僧侶として相当な覚悟の下に学習と修行を重ね続け、阿闍梨(師範となる為の資格のようなもの)となる為に、伝法灌頂(師匠となる儀式のようなもの)と呼ばれる儀式を受け授かる必要もあります。

またこれはヨガも同じだと思うのですが、密教自体、歴史が非常に奥深く、古代のインドで生まれたものが、どの時代に、どんな人によって、どんなルートで、どんな風に伝わっていったのかで、中身の性質にも違いが生じるので(私もまだあまりよく分かりませんが・・)、一概に真言密教=密教の全てという事も当然ながらありません。

物事の一側面を見てそれを全てだと錯覚する事の危うさは、何度でも申し上げておきたいと思います。

ヨガの密教的側面というのは、多くの一般レッスンでも、プラーナヤーマ(生命エネルギーの拡張)のような見えざる力への働きかけや、マントラ(真言と言われ、その響きはこの世の真理を象徴し、私達の意識を高い次元へと拡張させる)を詠唱したり、お香を焚いたり、シンギングボウルやティンシャベルのような法具を利用したり等、どこか儀礼的かつ神秘的な雰囲気を呈するものとして残り、それを各々の先生方が、現代的に工夫をした上で提供がされています。

人によっては、それがヨガを少し怪しいと感じて敬遠する理由にもなるのですが、同時にそれは、現代のヨガというものにも、間違いなく一種の"深み"のようなものをもたらす、大切な構成要素の一つとなっていて、その深みの幅の部分にこそ、簡単には理解出来ないからこそのヨガの面白さや、その魅力が凝縮されるように詰まっていると言っても過言ではありません。

因みに、"深み"という言葉も、これも表裏一体、良い面と、その反対の側面の双方を持っていて、"深みにはまる"という言葉も慣用句としてはありますが、例えば深みというものが、私達を陥れるものとして、はまってしまい抜けられない感覚の中に存在する時、それは、息が詰まるような、圧迫感として、大変に苦しいものとして姿を顕し、また繊細で脆く壊れやすい私達の心は、まるでその圧迫感に押し潰されるかのようにして、無残に壊れては散りばります。

しかし、ある時ふと何かをきっかけとして、頭の中の靄が覚醒的にパーッと晴れ渡っていくような、閃き(気付き)体験がそこに訪れると、今度はトゲトゲしく散りばったその心の欠片の一つ一つは、まるで新たな絵を創造するパズルのピースのように一つに繋がっていき、次第と自分をおとし入れるように下へ下へと沈みこませていた、"深み"という言葉の嫌な感覚は、闇に差した光がどこまでも続いて拡散していく、まるで宇宙のように広がり続ける"無限の深み"へと変容していきます。

それまでの閉ざされた視野には、この深みの感覚により、これまでの自分には無い新たな活路が見出され、破片のようなトゲトゲしさとは対象的な、その優しい流線模様のような開放的な景色の広がりは、受け取る人次第により、その世界観や、可能性を同じく無限の領域へと拡大をしていくのです。

今回の密教というキーワードに触れた話で言えば、私はヨガに関連した事をこうやって書いていながら、正直ヨガの本場インドには行った事はなく、本場における本場のヨガは全く体験した事がありません。

なので、幸いに日本に居ながらにして教えてもらった、伝統式ハタヨガというものから、きっとヨガとはこういうものなんだろうなという不確かな想像と、そこに自分なりの解釈を加えた中で学びを続けていて、実際にインドまで渡航して学ぶというのが難しい現状の中で、それなりのもどかしさのようなものが自分の中にはありました。

その事に対して、毎度のお決まりのように少し卑屈になったり、劣等感を感じたり(これはもう人類の根本苦だと思います)、暫く頭の中でその渦がグルグルと巻いていたのですが、ふとヨガの学びや歴史を振り返る中で、密教というキーワードから、高野山という場所に結びつき、実際に滞在を続けながら、ヨガと真言密教の中のキーワードや世界観がいくつも連鎖するように繋がった時には、何とも言えないようなワクワクする感覚が広がって、まさに灯台下暗しな状態から、どこにいてもどんなものからでも、いくらでも学べるものがあるという、見失っていた当たり前の教えにも気づく事ができ、その事に嬉しさというか、喜びというか、自然と湧いてきた前向きな気持ちに対し、まるで心が穏やかな波のように広がっていく、とても安心した感覚を覚える事が出来ました。

今も、そしてこれからも、私には出家をしてお坊さんになる覚悟は全く持てませんが、例え、その真髄まで到達をする事が出来なくても、まずは日々の自分を助けるものとして、そして大好きなヨガの学びを深める為に(そしていつか誰か人の役に立つ事を願って・・)これからは、この密教に関わるキーワードについても、少しづつ関心のベクトルを向けていきたいと考えています。

そして、やっぱりいつかはインドにも行きたいし、他の聖地と呼ばれる所も色々巡礼したい気持ちはあるのですが、それは行かなくてはいけないものという訳ではないし、行かなくても、行けなかったとしても、それでもいいんだよという事は、自分の中の拠り所にしたいなと思っています。

その心は、決して自分の可能性を閉ざすような、ネガティブな意味での解釈では無く、どこに居ても、どんな状況で、どんな生活をしていても、学びや成長の機会は捻出できるんだという、むしろ、より自分の可能性を広げていく為のポジティブな思考からくる心の動きとしてです。

もし、どうにもならない事があったとしても、それが潔く自分の運命や宿命のようなものな訳ですから、どうにかなって今ここにいる限りは、1日0.1mmでもいいから、今この瞬間、今この場所で、少しでも芽を上へと伸ばす実感の中で、日々生きていく事を目指していきたいと考えているし、たとえ踏み出す一歩が、小さな弱気な一歩だとしても、その選択と決断が、自分に委ねられているのだという思いは、常にとは言いませんが心の中に存在します。

それこそ何度でも、何度でも、繰り返し想いを持って言い聞かせていけば、その響きはきっと、自分なりの"マントラ(真言)"として、パワフルなエネルギーを持ちながら、心の奥深くへと届き、自らの意識を変容へと導いていくのではないでしょうか。