"それは時として、壁となる"

発するものも、受け取るものも
全てを遮るものとして、立ちはだかり、
四方八方、あなたの身動きを封じ込む。

そこは、根源的な無知なる"無"の世界。
見渡す限り、形も無く、何の響きも無ければ、何一つとして言葉を持たず。

空間はまるで置かれた箱の中身のように乾ききり、
大地は息を引き取るかのように沈みこみ
風は不穏なる邪気のようにまとわりつき、
水は悲嘆の溜まりのように澱みゆく。

何一つ語られるものも、
何一つ映し出されるものもそこには無く、
あるべきはずの、本来的なものは、漆黒の炎に掻き消される。

辺り一面、たなびく灰煙。
吸い込む煙に、呼吸のリズムは乱され、遠のく意識と、霞んだ視界に、ありのままの心の姿を見失う。

生まれる破壊の衝動。
期待通りにならない気持ちの焦燥。

無理に破壊を求める程に、壁は更に厚みを増し、気持ちの焦りは、闇を更に深くする。

下へ下へと陥る無限の深みの世界は、やがて、破壊を求める気力も、どうにかならぬ焦りの感情さえも、全てを"怠惰"の渦へと呑み込んでいく。


"それは時として、扉となす"

怠惰に溺れ、厚みを増す壁の姿に気力を失うあなたは、いつしか、あるはず無い一つの扉を壁の中で幻想する。

そこにあるのは、あるはずない扉であるが故、あなたは扉の向こうの世界を、一切見た事ないにも関わらず、脳裏に浮かぶ浅はかな解釈に惑わされ、扉の向こうと、こちらという2つの世界が、今ここに在る事を判断する。

扉のこちらに、光が届かぬなら、
光はきっと扉の向こうを照らすはずであり、

扉のこちらが光を浴びていないのなら、
扉の向こうは、きっと光を浴びているはずであり、

扉を開ける事が出来た者は、扉を開ける事を許された者

扉を開ける事が出来なかった者は、扉を開ける事を拒否された者

そこには、優が有り、劣が有り
そこには、勝があり、敗が有り、

そこは隔たれ、分けられ、対なる明と暗を象徴するのだと。

あなたは、その隔てた2つの世界を、まるで壊れた定規のような歪な尺度で比較をし、そこから生まれる、妬み、嫉みに、心を激しく喧騒させる。

この扉があるから私に光は照らされず、
この扉が無ければ、私も光の世界に行ける。

誰かのせい、何かのせいと、あるはず無い、
開かずの扉を言い訳にして、自分で自分を守りたいが為に、まるで、本来的な役割からかけ離れたものを、使命であるかと錯覚させては、盲目的に深みに陥る惨めな自分の姿を、都合良く正当化する。


"それは時として、姿を持たぬ"

あるはず無い開かずの扉に、途方に暮れたあなたは、そこに倒れるように仰向けになり、不意に視線を上にあげる事となる。

視界に飛び込む、満点の青空、
空間を彩る、色めく紅葉。

肌を刺すかの如く冷たい高野の風と、風になびかれ、大地に散りゆく葉吹雪に、いつの間にかの秋の終わりと、冬の訪れを実感する。

麗かな冬の日差しが、次第と心を覆う靄を取り払い、そこには、雲一つ無ければ、分厚い壁や、開かずの扉の影もない。

あなたの心は、まるで波が収まるように、落ち着きを取り戻し、澄んだ心の水面に、この世に備わる自然の生命のリズムが共鳴する。

水のリズムは生命を循環させて、
火のリズムは生命の種火を燃えあがらせ
風のリズムが生命を言葉として運び、

大地のリズムは生命の母となり、
空のリズムは、そんな私達の生命そのものを見守っている。

各々奏でる生命のリズムは、一つの旋律の中に調和され、この宇宙という無限のホールの、地球という舞台で、それらは無心に、歌い、踊り、語り合う。

私達は皆同じ舞台に立ち、舞台は同じ陽の光に遍く照らされ、自然の循環、春夏秋冬、季節の巡り、私達は皆、同じ光の生命を源にしながら生きている。

その唯一無二の事実において、まるで泉が湧くかの如く、自然の理として解き放たれた、あるがままの光景は、遮るものも無ければ、全ては融け合うかのように、こちらや、向こうといった区別は無く、それを受け取るあなたの意識もまた、まるで環境に応じて、蒸気や氷と姿を変える水の性質のように、融通無碍に絶えず変化を繰り返す。

ある時には、壁になり
ある時には、扉となり
それぞれ翻弄しながら、
ある時には、ふと姿を消して純粋な姿に立ち戻り、ある時また、それは壁となって自分の前に立ちはだかる。

季節の移ろいの如く、そこには決して、抗い、逆らう事等出来ない、無常の原理が存在する。

その原理において、確信をもって断言できるものは何も無いのかもしれないけれど、それでも不確かな変化がそこにあるからこそ、同時に、初めから全ての可能性を閉ざすものも、また存在はしない。

まるで、さえずるような小さな鳥が、大きな羽根を広げて、優雅に空を舞うように、

まるで、1本の木が枝葉を自在に空へと伸ばし、幾多の花の姿を表現しているように、

あなたという一人が刻む、自由な意志と選択も、全ては一如に繋がり合う、この地球という大きな舞台の上で、かけがえない、唯一無二の"生命のリズム"として躍動する。

ある日突然、舞台の幕を降ろしてしまう判断はどこにも必要無いし、疑い深く澱んだ迷いの心も、いずれ素直で清らかなる洞察心へと展開し、湧き立つ焦りや、嫉妬の力も、やがて不安や恐れに勝る、旺盛なる興味関心へと移ろいゆくだろう。

例えあなたの今いる場所が、
遠く離れた陸の孤島や、暗くて狭い井戸の中であろうとも、

例え、あるはず無い扉があなたを錯覚させて、

例え、四方八方、大きな壁に身動きを封じこまれているように感じていたとしても、

私達はいつでも、その備わる躍動的な"生命のリズム"に乗って、自由自在、壮大なる"人生"という名の音色を、この宇宙という無限のホールに響かす事が出来るのだ。

まるで心の内を見透かされていたかの如く、あなたに突き付けられたその課題の山々は、少々痛みを伴う現実として、容赦する事無く、あなたを無明の世界へと引きずり込んでいく。

悪夢のような闇は、視界をたちまち狭窄し、そこでは何一つとして確信めいたものは存在せず、過去に辿った足跡も、未来を示す道標も、今この瞬間全てが同じ一つの闇として塗り潰される。

暗闇でおぼつかない足下、
クラクラするような目眩
いつまで経っても優れぬ気分、

いつ?
何で?
どうして?
どこから?

こんな闇なんか無ければいいのに、
こんな迷いも無ければいいのに・・

もっとこうして欲しいし
もっともっとこうありたいし、
もっともっともっともっと・・・

不気味に漂うその不快な気配の渦が、それを受け取るあなたの心を惑わし、次第とあなたの集中力は奪われながら、冷静に物事を考える為の洞察力も思考力も、歪な形に削がれていく。

あなたは、
本当は弱くて、
本当は後ろ向きで、
本当は心配性であるにも関わらず、

"何も焦っていないし、
何も心配してもいないし、
何とも比べていないし、
何も求めていない"と
心の中で取り繕ったように必死に言い聞かせる。

あなたは、
どんな時も優しくて、
どんな時も謙虚で、
どんな時でも他人を思いやり、
どんな時でも他人に心配を掛けたくないと、
どんな時でも笑顔を絶やさず、
どんな時でも強くあろうとするからこそ、
その暗い闇の世界に負けないようにと、至って平然を装い続ける。

本当は、無闇に抑えつけているだけではありませんか?
本当は、誤魔化し、偽っているだけではありませんか?
本当は、ただ先送りにしているだけではありませんか?

内心、闇にあわてふためきながら、薄々、思い知らされているのでは無いだろうか。

結局、自分の軸なんて何も確立出来てはいないのだと。

アスファルトに集めた落ち葉のように、ただコンパクトにそこに収めただけの、安易な解釈は、突然の風に吹かれては、あっという間にまた無残に散らばっていく。

ただ散っては集めを繰り返す、そんな漠然たる不安からの逃避が、いずれ判然たる恐怖として形を変え、またあなたの前に再び姿を顕してくる事を、あなたは何度もループするかの如く経験しているはずだ。

時間がかかってもていいし、
疎かなものがあってもいい。

集めた落ち葉を土へと還し、新たな肥やしとしていくように、まずは、凝り固まったその"否定的"を否定する観念をすて、己の心意を巡りめくそのあるがままへと委ねてみて欲しい。

地水火風空、森羅万象この世の全てのものが、何隔たりなく、妨げ合う事ない調和の中で、お互いが縁となり、お互いが生かしあいながら、創造、維持、破壊のサイクルを繰り返していくように、

私達人間、個々の内なる万象も、抱える弱さ、脆さ、醜さ、儚さ、愚かさ、湧き起こる
嫉妬、不安、焦り、悲しみ、怒り、それらが一つの調和された世界に共存して、初めて抑圧は打ち破られ、新たな光の世界が創られていく。

"真実"なるものは、誰かがあなたに対し、言葉をもって教えてくれるものでもなければ、
文字を通して、知識や情報として理解をしていくものでも無い。

それは、あなたの心の奥底、いつでも正直に湧き起こるものに対して、あなたから、あなたに語りかけられていく。

壁を隔てて、
無理に何かを隠そうとする必要もなければ、
無理に何かを言い聞かせ、
無理に何かの言葉をもって解釈しようとする事も無い。

あなたから、湧き起こるどんな迷いの感情も、そこから生まれれるどんな解釈も、その性質一つ一つが過程となり、その一つ一つが大切な要素となりながら、その一つ一つがまた、遍く照らす光の象徴として、唯一無二の根源へと繋がっていくのだから。

目の前の現実に、
例えとても哀れで、
例えとても見苦しく、
例えとても無様な姿を見透かされているように感じたとしても、

創造される光は、いつでも、
あなたの心を正しく顕し、
あなたの心をあるがままに照らし、
まるで透き通った水面のような、嘘偽りないあなたの透明なる心を輝かせながら、塗り潰された過去の足跡も、未来の標も、そして今この瞬間の立ち位置も、また全てを明らかに見極めていく。

アスファルトのように、固く覆った心の壁も、あなたのその、真実なる心の力をもってすれば、いつでも簡単に壊していく事も可能でもあるし、澄んだ水面のようなその心から、まるで豊潤な果実のように滴り落ちる甘露の雫は、あなたの疲れた身体と心を癒し、奥底深く蔓延る"煩"の力をなだめ、息を潜めて眠り続ける"明"の力を躍動させる。

次第と悪夢は醒め、眼は開かれ、視界は晴れ渡り、まるでトグロを巻くかの如く、天にも昇る、その内なる歓喜に目覚めたあなたは、"もっと、もっと"の外なる歓喜にも、決して心を惑わされぬ確固たる自分の軸を手に入れていくだろう。

何一つ、除かれる由縁となるもの一切無し。

痛みを伴う現実があるからこそ、
母胎の如く包みこむ、慈悲なる心が生まれるように、

山積された課題があるからこそ、それを乗り越えようと、ダイヤモンドの如く堅固な智慧と意思の力が生まれるように、

全ては一つの無碍なる世界の中で、芽生えるものではなく、初めから備わるものとして、
いつでもそこに"真実"として、繋がりあって共存しているのだ。


ヨガの発祥は、遡る事紀元前数千年。そこから時を進めながら、元々はバラモン教等から由縁とする、古代インドにおける密教的行法の一つとして、その体系を確立していったという背景があります。

なので、ヨガというと、イコールでインドをイメージする方も多く、本場で本格的にヨガを学びたいという方の多くは、真髄なる教えを求めては、先ずインドへと旅立ち、アシュラムと呼ばれる、ヨガの修練を積む場所に滞在をしながら、そこでヨガの知識や技術を体得していきます。

しかし、ヨガの歴史を遡り、先述した密教の行法という視点から、それがどういうものかを捉えてみるならば、日本国内においても、世界に誇れる素晴らしき聖地が存在する事を忘れてはいけません。

日本で密教と言えば、今からおよそ1200年前、遣唐使として唐に渡り密教を修行した空海(弘法大師)が、日本に帰国した後、その教えを広める為に開宗した、真言宗(真言密教)という宗派が有名で、和歌山県にある"高野山"にその総本山(金剛峯寺)を構えます。

ヨガ=高野山とイメージをする方は、あまりいないかもしれませんが、中国で"瑜伽(ユガ)"と名付けられていた、伝統的な宗教技法であるヨガの教えを、日本に最初に伝えたとされているのも、まさにこの空海(弘法大師)であると言われていて、真言宗の代表的な教義でもある、身(印を結び)、口(真言を唱え)、意(心を仏のように穏やかに)の3密行により、生きとし生ける全ての生命の根源、即ち宇宙の真理を象徴する大日如来と、我との合一を図るという考え方や、その根底に流れる思想は、まさに私が学んだ、大好きな"梵我一如"を含むヨガの世界観の象徴そのものでもあります。

「密教とは何か」という、言葉で簡単に説明できるものに関して言えば、ネット等でも沢山情報が出てくると思うのでここでは書きません(と言いますか、正直まだ詳しく書ける程の知識がありません・・)が、その教えの奥にある真髄というのは、こういった文章や言葉では簡単に表現出来ない、より難解な次元の中にあるとされていて、教義の伝承も、師から弟子への直接的な口頭伝承が基本となり、また秘伝としての儀式や行法の実践を通し、自らで体得をしながら学んでいくというのも特徴になります(密教が秘密の教えと呼ばれる所以です)。

なので、自分の日々の生活の中に、一つの思想としてその教えを活かしていく分には、テキストのようなものを見ながら、生涯学習のように楽しく学んでいく事も出来るのですが、教えを正しく深くありのままに会得し、ましてはそれで人を導くということになれば、どんなに自学自習を重ねたり、どんなに行法を体験のように重ねたとしても、決してそのレベルへと到達出来るものではありませんし、実際には深い帰依心を持ち、僧侶として相当な覚悟の下に学習と修行を重ね続け、阿闍梨(師範となる為の資格のようなもの)となる為に、伝法灌頂(師匠となる儀式のようなもの)と呼ばれる儀式を受け授かる必要もあります。

またこれはヨガも同じだと思うのですが、密教自体、歴史が非常に奥深く、古代のインドで生まれたものが、どの時代に、どんな人によって、どんなルートで、どんな風に伝わっていったのかで、中身の性質にも違いが生じるので(私もまだあまりよく分かりませんが・・)、一概に真言密教=密教の全てという事も当然ながらありません。物事の一側面を見てそれを全てだと錯覚する事の危うさは、何度でも申し上げておきたいと思います。

ヨガの密教的側面というのは、多くの一般レッスンでも、プラーナヤーマ(生命エネルギーの拡張)のような見えざる力への働きかけや、マントラ(真言と言われ、その響きはこの世の真理を象徴し、私達の意識を高い次元へと拡張させる)を詠唱したり、お香を焚いたり、シンギングボウルやティンシャベルのような法具を利用したり等、どこか儀礼的かつ神秘的な雰囲気を呈するものとして残り、それを各々の先生方が、現代的に工夫をした上で提供がされています。

人によっては、それがヨガを少し怪しいと感じて敬遠する理由にもなるのですが、同時にそれは、現代のヨガというものにも、間違いなく一種の"深み"のようなものをもたらす、大切な構成要素の一つとなっていて、その深みの幅の部分にこそ、簡単には理解出来ないからこそのヨガの面白さや、その魅力が凝縮されるように詰まっていると言っても過言ではありません。

"深み"という言葉も、これも表裏一体、良い面と、その反対の側面の双方を持っていて、"深みにはまる"という言葉も慣用句としてはありますが、例えば深みというものが、私達を陥れるものとして、はまってしまい抜けられない感覚の中に存在する時、それは、息が詰まるような、圧迫感として、大変に苦しいものとして姿を顕し、また繊細で脆く壊れやすい私達の心は、まるでその圧迫感に押し潰されるかのようにして、無残に壊れては散りばります。

しかし、ある時ふと何かをきっかけとして、頭の中の靄が覚醒的にパーッと晴れ渡っていくような、閃き(気付き)体験がそこに訪れると、今度はトゲトゲしく散りばったその心の欠片の一つ一つは、まるで新たな絵を創造するパズルのピースのように一つに繋がっていき、次第と自分をおとし入れるように下へ下へと沈みこませていた、"深み"という言葉の嫌な感覚は、闇に差した光がどこまでも続いて拡散していく、まるで宇宙のように広がり続ける"無限の深み"へと変容していきます。

それまでの閉ざされた視野には、この深みの感覚により、これまでの自分には無い新たな活路が見出され、破片のようなトゲトゲしさとは対象的な、その優しい流線模様のような開放的な景色の広がりは、受け取る人次第により、その世界観や、可能性を同じく無限の領域へと拡大をしていくのです。

今回の密教というキーワードに触れた話で言えば、私はヨガに関連した事をこうやって書いていながら、正直ヨガの本場インドには行った事はなく、本場における本場のヨガは全く体験した事がありません。

なので、幸いに日本に居ながらにして教えてもらった、伝統式ハタヨガというものから、きっとヨガとはこういうものなんだろうなという不確かな想像と、そこに自分なりの解釈を加えた中で学びを続けていて、実際にインドまで渡航して学ぶというのが、現実として難しい現状の中で、大変なもどかしさのようなものが自分の中にはありました。

その事に対して、毎度のお決まりのように卑屈になったり、劣等感を感じたり(これはもう人類の根本苦だと思います)、暫く頭の中でその渦がグルグルと巻いていたのですが、ふとヨガの学びや歴史を振り返る中で、密教というキーワードから、高野山という場所に結びつき、実際に滞在を続けながら、ヨガと真言密教の中のキーワードや世界観がいくつも連鎖するように繋がった時には、何とも言えないようなワクワクする感覚が広がって、まさに灯台下暗しな状態から、どこにいてもどんなものからでも、いくらでも学べるものがあるという、見失っていた当たり前の教えにも気づく事ができ、その事に嬉しさというか、喜びというか、自然と湧いてきた前向きな気持ちに対し、まるで心が穏やかな波のように広がっていく、とても安心した感覚を覚える事が出来ました。

今も、そしてこれからも、私には出家をしてお坊さんになる覚悟は全く持てませんが、例え、その真髄まで到達をする事が出来なくても、まずは日々の自分を助けるものとして、そして大好きなヨガの学びを深める為に(そしていつか誰か人の役に立つ事を願って・・)これからは、この密教に関わるキーワードについても、少しづつ関心のベクトルを向けていきたいと考えています。

そして、やっぱりいつかはインドにも行きたいし、他の聖地と呼ばれる所も色々巡礼したい気持ちはあるのですが、それは行かなくてはいけないものという訳ではないし、行かなくても、行けなかったとしても、それでもいいんだよという事は、自分の中の拠り所にしたいなと思っています。

その心は、決して自分の可能性を閉ざすような、ネガティブな意味での解釈では無く、どこに居ても、どんな状況で、どんな生活をしていても、学びや成長の機会は捻出できるんだという、むしろ、より自分の可能性を広げていく為のポジティブな思考からくる心の動きとしてです。

もしどうにもならなくなったら、それが潔く自分の寿命な訳ですから、どうにかなって今ここにいる限りは、1日0.1mmでもいいから、今この瞬間、今この場所で、少しでも芽を上へと伸ばす実感の中で、日々生きていく事を目指していきたいと考えているし、たとえ踏み出す一歩が弱気な一歩だとしても、その選択と決断は、自分に委ねられているのだという思いは、常にとは言いませんが心の中に存在します。

それこそ何度でも、何度でも、繰り返し想いを持って言い聞かせていけば、その響きはきっと、自分なりの"マントラ(真言)"として、パワフルなエネルギーを持ちながら、心の奥深くへと届き、自らの意識を変容へと導いていくのではないでしょうか。

早くここから出たいのに、
早く扉の向こうに飛び出したいのに、

鍵穴が錆びてて回らない
建てつけが悪くて、扉が開かない。
誰かが向こうで扉を抑えてる。

暗くて、狭い。
怖くて、不安。
寂しくて、涙が止まらない。
誰か助けて、何で自分だけ・・。

あなたは、扉の奥で必死に抗い、必死に抵抗する。

"本当は扉なんてそこに無いはずなのに・・。"


また、あいつが追ってきた。
逃げても逃げても、しつこく追ってくる。
隠れても、隠れても見つかってしまう。

胸が苦しい、息が出来ない。
もうこれ以上脚が動かない。

腕を振り、歯を食い縛り、
あなたは、あなたを追うものから、必死に逃げ惑う。

"本当は誰も追ってなんかきてはいないのに・・。"

あなたは、あるはずもない扉の奥で狼狽し、
いないはずの追っ手から、何故か逃げ惑う。

あなたは気付いているはずだ。

目の前のパラドクスの渦に、ひたすら混乱をしながらも、どこかそれら全てを俯瞰的に見ている自分がいる事に。

偽わらなくていい。
正直になっていい。
 
あなたは、そこから進めないのでは無く、
あなたがそこに留まっている。
 
あなたは追われているのではなく、
あなたが自ら向かっている。

あなたは恐怖を避けるため、自らそこにぶつかり、

あなたは安心したいが故に、不安を手放さず、

あなたは満たされていたいからこそ、満たそうとしない。

笑えないのではなく、
笑わないのであり、

あなたから涙が流れているのではなく、
あなたが涙を流しているのだ。

あなたの中の"制御"のベクトルは、正しくあなたに向かっていると言えますか?

あなたが、あなた自身に、"正直(サティア)"の教えを背いてはいませんか?

あなたの中の"目的"は、あなたの真実に基づいたものだと言えますか?

あなたはその偽りを"言い訳"に利用していませんか?

あなたは見えているはずだ。
扉を抑えつける人影も、
あなたをしつこく追ってくる何者かも、
あなたを閉じ込め、圧迫し、追い詰めるもののその正体は、紛れもなく"あなた自身"そのものであるという事を。

本当はどうするべきか、
本当はどうしていきたいのか、
一生懸命言い聞かせるかのように何かを学び、頭でそれを分かったつもりになった所で、行為の伴わない"分かったつもり"の知識は、結局何も分かっていないのと同じ事である。

知行合一。
知識と行為も本来なら一つに繋がりあっていく中、言葉と思考と行動は、他者にも自分にも"正直"にそれらが一つに繋がって、心は初めて穏やかな状態へと向かっていく。それがまたサティア(正直)の教えでもあるはずだ。

あなたに今必要な事は、
偽る為に、隠す為に、防衛する為に、頭の中で言い聞かせるばかりに浪費する事ではなく、まずは自分に正直に、真実へ向かって、"行為"としてその一歩を前に踏み出していく事。

偽る事に慣れたあなたは、
偽りを手放し、真実へ向かう事に対して
大きな不安と恐怖を感じかるもしれない。

「失敗したくない」
「恥をかきたくない」
「傷付きたくない」と。

幾多の声がまたあなたの心を揺らし、
幾多の幻想がまたあなたの視界を惑わす。

人間の根本は簡単には変わらないかもしれない。それはあなたに染み込むように根付いたものであれば尚更のこと。

それでも私はあなたに、一貫してこう伝え続けていきたい。

「安心していいんだよ」と。

それは力強い勇気の一歩なんかじゃなくて
もいい。揺れた心に生じる、恐怖と不安を背負った消極的で弱気な、おぼつかない一歩になってもいいし、躓いて、失敗をしても、恥を感じても、それは決してあなたの傷になるものでもなければ、あなたの存在価値が否定されるものでもない。

何故なら、あなたが抱く偽りは、決してあなだだけの問題でもないし、あなたと同じく、多くの人がその偽りを抱え、誰もがその偽りの中に生き、誰もがその偽りにもがき苦しんでいるのだから。

人は決して敵でもなければ、
あなたを欺くものでもない。

共通の課題を持つ"仲間"としての繋がりがあり、だからこそ、人は支え合い、寄り添い合い、知恵を出し合い、力を合わせて、歴史を紡ぎながら、ここまで発展をしてくる事が出来たのではないか。

自分に正直に、他者に正直に、決して偽る事なく、その一歩をまずは踏み出して、仲間への貢献、仲間との繋がり、そこで感じる優しさ、思いやり、達成感。穏やかな心の中で、意識を広げて、視野を広げて、気がついて欲しい。

この広い広い宇宙の中で、あなたがそこに居てはいけない理由等どこにも無ければ、あなたがそこに居るからこそ、成立し得ているものがこの世の中には沢山あるという事を。

あなたは、これ以上偽りを重ねる事に必死になる事もないし、扉の奥で不安と孤独に駆られる事もない。

まるで重たい荷物を降ろしたかのように体の緊張は解かれ、まるで酸素を味わうかのように呼吸は深くなり、どんな苦しみも、どんな恐怖もまた、必ず受容へと向かっていくものなのだから。

あなたが本来向かうべき望ましい未来は、今踏み出す、目の前のその小さな一歩から広がっている。

そしてその一歩は、常にあなた自身に委ねられている。

あかの他人も
親密な仲間も、
遠い親戚も、
近い身内も関係ない。

背負った宿命も
生まれた時代も
属する社会も関係ない。

今この瞬間、あなたの意志と選択で、
その道はいつでも開かれていくのだ。

ヨガの聖者パタンジャリは、ヨガスートラ(2〜4世紀頃にによって編纂されたヨガの古典聖典)の冒頭にこう定義する。「ヨーガとは心の働きを制御することである」と。

108個と区切られる煩悩の数しかり、これは、いつもいつも私自身も感じる事として、人の心というのは、そのもの自体がガラスのように脆く儚く影響を受けやすく、常に翻弄しやすい性質を持つ。

いつまでも尽きる事のない欲への執着や貪り、他人と自分を比較しての慢心や嫉妬に、怒りや、恨みや、焦りや、不安に、寂しさ、孤独。どんなに自分で整えたと思ったところで、安易にただのループの一つの過程を、まるでそれが全ての事と錯覚しては、物事の本質全体を、ありのままに正しく観る事には誠に乏しく、直ぐに翻弄されては、直ぐに大きく崩れていく。

煩悩と呼ばれる心の揺れの中でも、代表する3つの根本を"心の3毒(貪・瞋・痴)"とも称するように、心に生じた小さな毒は、苦や楽、喜や憂など相対する2極のものに揺さぶられ、その間を何度もしつこく往復しながら、全身を蝕むように、揺れ幅を広げて蔓延し、頭の中では分かったつもりでいながら、どうしても同じ事を繰り返すように自らその毒の方に向かっては、何度も同じ苦しみに陥っていく。

心の制御を見失い、そのループに一旦はまったならば、"苦楽一如"そんな当たり前の原則すら、頭から抜け落ちたように分からなくなり、喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、全ては表裏一体、全ては繋がり何の区別もあるものではないのに、苦に偏れば、苦が自分の全てと錯覚しながら、全ての物事を悲観的にしか捉えられなくなる。

"全ての物事が"と書くと極端な感じに受け取る方もいるかもしれないが、いわゆる"鬱病"という言葉を思い出して頂くと分かりやすいように、実際この鬱状態の酷い時というのは、まさに"全ての物事"が悲観的な心の眼でしか物事を捉えられなくなってしまう。それは目に写るもの、耳に入るものに限った事ではなく、自分という存在に対してもそうであり、何か悪いことをした訳でもないのに、自分の存在がそこにあること自体に罪悪感を感じたり、誰かと自分を必要以上に比べては、自分はなんて駄目な人間だと卑屈になる。

また楽に偏り、喜びや楽しさ側が全てになれば、これもまた精神医学の中では躁状態と病名が尽くように、心の状態としては健全な状態ではないとされている。喜びが幸せに繋がり、楽しさがやる気や自信に繋がれど、これらもいきすぎると、いわゆる誇大妄想と呼ばれるような、自分は全知全能神のように何でも出来ると妄想したり、気持ちの高揚から、度を超えた形で多動多弁になったり、あるいは他者に対しての傲慢なる態度や言動を引き起こす事もある。また寝る間を惜しみ、自分のリミットを外しエネルギーを費やし続け、その後まるでバーンアウトするように、一気に反対側の鬱状態の方へと引きずり込まれてしまう事もあるのだから、これもやはりまた病理的であると言わざるを得ない。

こんな風に揺れては崩れる心を、パタンジャリはどう制御するというのだろうか?
心を落ち着かせる事や、心を知る事や、心を考える事を超えて、自らそれを制御させるなんて、そんな事が果たして本当に可能なのだろうか?それが実現したら、まさに怖いものなんて何も無い。何故なら怖いも不安も何も、制御出来てしまうのだから。

正直、心の揺れには散々翻弄されまくりの私には、どこかでまだ制御なんて簡単に出来る訳がないという気持ちもあるし、未だにそんな事出来るわけないと、疑いの気持ちが生まれる事もある。

それでもその事に疑いはありながらも、それがいい意味での知的好奇心をくすぐる形となったり、ヨガにはアーサナはじめ実践的なアプローチも沢山あるので、心の動きの事を抜きにしても、それ自体が技術の探求として夢中になれる要素もあり、一つ一つ実践を積み重ねていきながら進めていける事も、私にとっては魅力の一つとなっている。

また、パタンジャリが言う心の制御された状態というのは、決してヨガの行法中、常に制御が出来ていなければならないという意味合いで使われているものでもなく、ヨガの最終目標である悟りの要素の一つとして、到達を目指すものとして、そこに存在する。

なので実際の実践の中では、もし自分と向き合う過程の中で、心が揺れて乱れて苦しんだとしても、不安は不安として自分の内から湧くものとして受け取りながら、決してまたそれに囚われすぎる事もなく、どこか客観的な視点も持ち合わせながら、その心の動き自体を、悟りへ向かう歓迎すべき一つのプロセスとして捉える事も出来るし、まだ悟りに到達していない以上、むしろ制御が出来ていないと感じる事の方が、私達にとっては自然な心の状態であるとも考えられる。

ヨガの歴史はとても長く深い。
時を遡る事インダス文明の時代(約4000年前)、出土品にヨガの行法をらしきものを行う人物の姿が描かれていた事から、その時代が最も古いヨガの起源として推察されている。

時代を超え、場所が変わり、どんなに時が進み、どんなに科学が発展し、どんなに物質的な豊かさと、安全基準が確立されようとも、それがそのままイコールで人の心の豊かさ、落ち着き、余裕に繋がらないのは、経済先進国でもある、我が国日本の抱える社会病理の根深さや、高い推移を保つ自殺率のデータ等を見てもまさに一目瞭然でもあり、ヨガがこれだけの長い時間を経てもなお、"心の制御"を目的として、多くの人に求められ続ける背景は、それだけ人が心の揺れに迷い苦しみ、それに対して何とかしたいと葛藤をする事が、科学経済の発展とは関係なく、人類にとっての永遠不変な絶対的テーマとして、常にそこにあり続けているという事を如実に物語っている。

人生山あり谷あり、心に迷いを抱え、困難を乗り越えながら、力強く生きていくには、分かりやすい強さや、前向きさは絶対必要不可欠な事であり、強くないと、前を向かないと、笑顔でいないと、目標を持たないと生きていく事が困難なのが、世の中の現実とも言える。

だからこそ、それが望まれ、求められ、そして教え、教えられ、また自分自身も必死に強くあろうと気持ちを奮い立たす。しかし実際には、ヨガの長い歴史が物語るように、そういられない現実が永遠不変にそこにある中、そのギャップが逆に、更なる自分の感情の抑圧やストレスを引き起こし、またそこで新たな苦しみのループを続けてしまう事も招きかねない。

後退して停滞と感じられる時間には、スポットライトを浴び、活躍する人を横目に、自分の不甲斐なさや、嫉妬に胸が締め付けられる事も沢山ある。それでも、それを分かっていながら、どうにかならない葛藤の中で、足掻いて、もがいて皆んなが十分に頑張って生きていて、皆んながそこに美しく咲いているのだから、例えどんな心の状態で、どんな心の動きが生じようとも、本来ならもうそれで十分、それらは全て受容(inclusive)され、そこに判断も評価も選択だって存在はし得ないはずなのだ。

"動から静へ"と向かうヨガの原則は、それは心の動きもまた然りである。だからこそ、無理をしたり我慢をして、泰然自若、別に強くあろうとしなくてもいいし、後退したって、混乱したって、卑屈になったって問題無い。十分頑張っている自分として、ありのままの自分としてそこに存在し、自らの心の動き、即ち"心の動"に意識を委ね、圧迫するものを解放しながら"心の静"に向かっていく、これがまた私にとってのヨガの解釈の一つとも言える。

これは別に卑屈になって自分を卑下している訳ではないのだが、あくまでも客観的な視点から見ても、現状私自身に、まだその解釈までヨガを深められるだけの知識や技術も、学びの量も、器の広い人間性も兼ね備えられてはいない。

それはレッスンをするとなればなおさら、その理想から極めて遠く離れた所から、それこそ誇大妄想ばりに、頭の中の妄想を論じているにしか過ぎず、先の未来を誇大して妄想する前に、まずは足元見つめて、しっかり大地に根を張る事が必要先決で大切な事であると思う。

それでも書店に行けばヨガの本は、ズラリと並び、ネットで検索すれば情報も簡単に手に入り、スポーツジムでもヨガのスタジオだって駅の近くに沢山あって、公民館や、カルチャーセンター、至るとこでヨガは学べる中、その中で私という人間がヨガティーチャーとしての役割を、真の我からの声として確立していくならば、例え妄想の中の空論でも、一つ自分の目指すべき理想像として頭に描きながら、そこに向かうイメージ位は持ったとしても、それは決して欲でも見栄でもエゴでも無いはずだ。

人は、解釈の仕方が分からなかったり、あるいは分かってはいるけど、受け止めきれない自分の状態がそこにあった時、そこに生じる苦が大きければ大きいほど、色々な角度から答えを求め、翻弄しながら内発的な動機の中でよく学び、よく考えようとする。それは興味から来る内発ともまた違う、もっと深い所からくる生命力のようなエネルギーであり、力そのもの自体がとても大きく、浪費もかなり激しいのだが、そこからもたらされる学びの量も、深まる考えの幅もまた莫大なので、結果、翻弄したらした分その過程の全てが、自分の成長及び"広がる意識"を導いていく。

今の私には、まだヨガの世界は刺激が強すぎる事が沢山ありすぎて、その都度耐えられないほど重く、自分の未熟さ、愚かさ、醜さから来る心の揺れに直面する。でも、これから自分が更に生きていこうとするならば、この目の前の揺れと現実に向き合わない限り、ずっと何も変わらず、更に泥は深くなるばかりなのだから、全てを自分の学びと、広がる意識を導くものとして、認識から外さず正対し、例えそこからただ苦しさしか出てこなかったとしても、一切皆苦を知るではないが、それを知る事自体に意味があり、そこから解決策を見出しながら、それがまた新たな創造とスタートを生むきっかけになると思っている。

パタンジャリが言う、心の働きの制御には、まだまだ遠い現実はあるけれど、きっとこの感覚を改めて深い所で感じ、そして考える為に、私にとっては全てが必要不可欠な遠回りなっていると信じているし、今回の揺れも、紛れも無い素晴らしい恩恵と、素晴らしい学びである事に間違い無い。心から感謝の気持ちで一杯だ。

あっちの自分がこう言えば
こっちの自分がこう言い返す。

すべき事、あるべき事を分かっている自分。
素直にそれに従って行こうとしない自分。

それは不安?心配?怖い?
ここは夢なの?現実なの?
混在する意識の中で、色々な言葉で、色々な自分が自分を惑わしてくる。

頭の中で思考する自分も
心の中で感じる自分も
鏡に映る自分も

どれもが自分の筈なのに、そのどれもが自分ではないように感じたり、

または目の前の出来事全てが自分の事なのに、その全てが他人事のように感じたり、

それが全てではない筈の事を、まるでそれが全てのように感じて、必要以上にそれに囚われてしまったり、

必死に何かを繋ぎ留めながら、無理矢理何かをそこに形成し、些細な緩みや、些細なひびのような綻びからその全てが崩れて壊れ、全てがどこかに流れて、全てがどこかに飛んでいってしまうような、危うい感覚にばかり翻弄され、狭い感覚と意識の、偏った世界の中に自分を閉じ込め、壁の向こうの広い世界に気づかないふりをしては、あーでもない、こーでもないとしつこい位に自問自答を繰り返し、いつまで経っても前には進まず停滞し、気づけば何も変わっていないどころか、そっちを選べばそうなるよというのが目に見えていながら、本当は自分自身がそうなる事を望んでいるかのように、すすんで後退する。

まさに自滅の苦しみだ。

どうしてそっちを選び、どうしてそっちに向かうのか?

自分は一体誰と何の問答をしてたのだろうか?

ただ無駄な時間だけを浪費する、そんな問答に何の意味が今まであったのか?

誰か私に教えて欲しい。
私というものを。

誰か導いて欲しい。
迷いの無い世界に。

停滞する自分はただの臆病にしか過ぎないのかもしれないけれど、ヨガっぽく言えば、過去の経験?トラウマ?そんな風に色々なものが邪魔をするのか、どうしても最後に、真の"我"からの気付きを、慎重に確かめながらでないと、怖くて、不安で、心配で、その一歩さえ踏み出す事に躊躇ってしまう事が多々生じる。

私は何をしたいのか。
私はどうしたいのか。

何故私は今ここにいて、
何故私はそれをして、
何故私はそれを考え、
何故私はそれを思うのか。

仏教的に無我の境地なんて、現在地からしたら程遠く、結局中々手放せない"我"への執着。
 
それでもヨガの思想は教えてくれている。
"我"はみんなにあるんですよと。

万物は皆、同じルーツを根本原質として持ち、そこから派生をし、循環を繰り返していきながら、どこかで何かを共有し、どこかで何かが関わり合いながら存在をしている。

それは物質的な繋がりもあれば、プラーナと呼ばれるようなエネルギー的なものを通しての繋がりもあるし、あるいは遺伝のように科学的な視点や、過去世等のスピリチュアル的なもの、または大きく広く縁起や因果の法則といった思想の観点からも説明出来る。

だからこそ私達は自他同一の視点を根拠として持ちながら、他者を慈しみ、他者を憐れむ、慈悲なる心を養う事が大切であるのだが、ヨガの中ではそれと同時に、内なる自分と向き合い、本質としての我と繋がり、それを磨いていく事も大切な目的の一つとして据えられている。それは、我儘や我が強いといった、欲深いエネルギーを象徴するような低次元の"我"の概念としてではなく、花が花として咲くように、雲が雲として流れるように、自分が自分として生きる為の、本質としての我、即ち真我(アートマン)なる概念として。

我とは何か?
それはあるのか無いのか。 
無我?真我?アートマン?

そんな渦巻く思考に翻弄され、答えの無い永遠不変の大きなテーマを前に、時に何か極端に偏った思想に傾倒したり、時に勢いや衝動に駆られて、屈折した形でエネルギーを暴発させてしまったり、あるいは死後の世界に安楽を求めてなんて事もあるかもしれない。

でも、唯一無二、たった一つの真なる我がそこにあるのだとしたら、どれだけ幾多の我が、あらゆる言葉で自分を翻弄し、心を迷わせ、苦しめようとも、それらは結局、視界を曇らす闇の中に作り出されたいくつものマーヤ(幻想)にしか過ぎないのだから、それら錯覚としての''我"に、あれやこれやと翻弄される必要なんて本来どこにもないのだ。

もし論理的に理解しようと思えば思うほど、しつこく考え込み、何かに縋ろうと思えば思うほど、更なる不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費しながら自らを疲弊させてしまうのであれば、まずは思考を手放し、身体を整え、気の流れを拡張し、瞑想で心を穏やかに落ちつかせる事を先決すればいい。

アーサナやプラーナヤーマや瞑想法含め、その為の智慧や実践がヨガには沢山あるし、私達が無知の闇から解放されて、物事を正しく見る為の、土台やきっかけとなるものは、いつでも穏やかで落ち着き、調和の図れた心身の状態の上に存在する。

我思う故に我あり。
我思う我はそこにあるかもしれないけれど、その我をどこまでも追っていく事は、はっきり言ってキリがない事であるし、時には閃きや覚醒、そんな言葉を頼りにしながら、内から湧く"我からの気付き"を静かに待ってみるのもいいかと思う。

それは、決してこちらから追わずもがな、向こうからやってきては、

無知なる心の影を照らし、
ありのままの姿を明らかにし、
自分の中の偏りも、 
盲信も、
そこに陥る自分が本当の自分ではない事も、

それら全て幻想のような灯火を、優しく吹き消していくのだから。


もっと揺れてもいい。
もっと乱れて惑って
もっと抗ってもいい。

思う存分感じ取ればいいのだ。
その心の迷いと、頭の靄を。

眉間に皺を寄せ、
奥歯を噛み締め、
呼吸は浅く早く、
より激しく。

大地を踏みしめ、思いを突き刺し、
そこに根を張り、耐えて忍んで下へ下へと根を伸ばしたら、堅固な意志の力は幾重の層をものともせずに、その根はきっといつか地球の深淵、核のマグマへ到達するだろう。

躍動する生命の鼓動。
沸き立つ灼熱の炎。

"根'はマグマの鼓動を身体に伝え、自身の脈のリズムはそこに共鳴し踊り出す。

"根"は灼熱の炎を吸い上げて、タパスの種に火を点け、力強く燃え上がらせる。

熱く激しく、炎はまるで何かを叫ぶように音を立て燃えたぎり、内なる力は漲り、蔓延る不純不浄なものは熱いタパスの火に燃やされていく。

時間は経ち、
煙は晴れ、
次第と頭の靄は消えていく。

心の迷いは澄み、
波は収まり、
やがて弛緩が訪れ緊張は解かれていく。

訪れる一瞬の静寂、
空間は優しく包まれていく。

そこにあるのは、何一つ濁りの無い純粋なる意識と、ただそれが広がりゆく感覚のみ。

乱れは統合される。
それは川の流れのように穏やかに。

意識の質は変容へと進む。
それは空より青く鮮やかであり、
それは雲より白く純粋である。

意識の幅は更に拡大する。
それは地よりも広く、それは海より深く、それは宇宙のように果てなく無限に、未来永劫いつまでも続いていきながら。

もう何処に行けば良いかと悩む事もない。
もう何をすれば良いかと迷う事も無い。
もう何かと比べる必要も無い。

視界を狭める自分という小さな囚われからは解放され、圧迫する現実の苦しみも、心を揺らす、あらゆる不安も恐怖も悲しみも抑圧も、広がる意識の中でそれら全ては散り去り、そしてそれらは全てまた形を変えて循環していくのだ。

それはまるで些細で微細な粒子となり、
その一粒が空(akasha)となり
その一粒が風(vayu)となり
その一粒が火(tejas)となり
その一粒が水(apas)となり
その一粒が地(prithivi)となりながら。

あなたはそれらに対し、無理にあなた自身の扉を閉ざし拒否する必要も無ければ、無理にあなた自身の扉を開き、不自然に受け入れようと構える必要も無い。

あなたは、ただそこで視線を定め、音を感じ、匂いを感じ、味を感じ、まるで泉の源泉のように湧き立つその生命の源を感じ取りながら、偽りなく正直に、大きく深く自然な呼吸を営めばそれで良いのである。

扉は自ずと優しく開かれていく。
粒子が鍵となり、そして一筋の光となりながら。

もしあなたがその光の輝きに戸惑う事をせず、
もしあなたがその光の進みに抗う事をせず、
もしあなたがその光を受け入れる覚悟を持てたのならば、

弛緩のレベルは一段深まり、あなたの一番奥の、最後の重くて厚い扉が、ほんの少し緊張から解かれて僅かに開かれるだろう。

ようやく開いた扉の影から差し込むその光は、まるで乾いた大地に雨水が染み込むかのように徐々に浸透し、あなたの奥でそれまで照らされる事なく眠り続けていた、"たった一つ"のものを照らし始めていく。

見えそうで見えなかったもの。
分かりそうで分からなかったもの。

その光に照らされながら、
少しづつ明らかになり、
少しずつ見極められていく。

本来の意味が。
本来の目的が。
本来の役割が。

あなたは気がつく事が出来るだろう。
全ては広がる意識の中で、あなたという要素から生まれた微細な粒子も、あなた以外から生まれたあらゆる微細な粒子も、あなた自身が架け橋となりながら、全ては共存し、全てはまた調和の中にあるのだという事を。

一つ一つの光はまるで、宝石のように眩ゆく高貴な光を放ち、全てが、新たな奇跡と創造へ向かう為の灯火となりながら、何一つ決してぶつかり合う事などせず、何一つ決して欠ける事なく輝いている。

そこには揺れも無ければ、惑いもない。
全ての表も裏も、全てが表裏一体繋がっている中、あなたが導かれる感情は、恐れではなく"慈しみ"だ。

感謝しよう。
目の前に起こる全ての事を。

信じよう。
"始まりの余韻"は今ここにあるという事を。

あなたは今、大きなギャップに苦しんでいるのかもしれない。

理想として一生懸命手放したいと考えていたその感情が、今まさにどんどんと沸き起こってくるそのギャップに。

何年も、何年もかけて、崩れては整え、崩れては整えを繰り返し、自分が設定した節目に向かい、最後にようやく辿り着いたと思ったその先に、まさかこんな大きな揺れが待っているとは考えてもみなかったであろう。

あなたが学ぼうと思っていたものは、今一体あなたに何を教えようとしているのだろうか?

一体そこにはどんな意味があって、どんなメッセージがあるのだろうか?

やはり生きていく上での正解はそういう事だったのであろうか?

あなたが懸命にあがいて来た事の意味、
あなたが懸命に繋いで来たの事の意味、

考える事は苦しいかもしれないけれど、全てを放棄する前に、もう一度この機会によくそれらを考えてみよう。

もしかしたならば、あなたが手放したいと抗っていたその感情は、無理して手放す必要なんてなく、まさにそのものこそが、現実を生きていく上で、必要不可欠である事には変わりはなく、強引にでも、辛くなっても、苦しくなっても、それをそのままエネルギーにして、進み続ける事の方が正しかったのかもしれないし、また、そうかもしれないというその現実は、あなたの中で整えてきた色々なものを、次々になぎ倒しては、大胆に破壊をしていくかもしれない。

でも、そんな時こそ、あなたもよく知っているはずの、「AUMマントラ」を今一度思い出してみるといい。

この大胆な破壊が、AUMマントラの意味する「創造→維持→破壊」の流れに沿った適切なプロセスであり、ここから新たな創造に向かっていく為に、これら全てを含めたものを、神様があえてあなたに課題として与えているのだとしたならば、それこそあなたが、そこで学ぼうと思っていた事の本当の意味も、それは、きっとこれからの気付きと創造として、あなたの下に必ず降りてくる。

あなたは今回改めて感じたはずだ。
人の心の儚さ脆さを。

整えてきたつもりのものも、こんなにいとも簡単に崩れていくのだ。

あなたが誤った方向に向かってきたのか、あるいは進むべき道を正しく進んできたのか、何が幻想で、何が現実だったのかは、それは、今のあなたの目の前に広がるその景色が全てを物語っている。

その景色はあなたにとっての本意ですか?
不本意ですか?

この景色を見る為に、あなたは足掻いてもがいて、馬車の手綱を離さず旅を続けて来たんだと自信を持って言えますか?

沸き起こる感情はとても苦しいし、醜くいものかもしれないけれど、あなたは現実からただ目を背けて、それこそただ都合のいい幻想を作り上げていただけにしか、過ぎなかったのだ。

いい加減そろそろ認めよう。それがまたあなた自身であり、それがまたあなたの現実であるという事を。

まるで井の中の泥に埋もれているような今のあなたは、誰に何を話す事も出来なければ、
その姿も声も想いも誰に何も届かす事は出来ていない。

いや、むしろあなた自身が、ありのままを話し、届ける事をためらっている。それはあなた自身が今のあなたの醜さを、誰よりも一番自覚をしているから。誰だって自分の醜さを人に晒すのは辛いし、それで人が不快になる事だってあなたは良く理解をしている。

しかし、私はそんなあなたの全てを察し、全てを自分の事として理解をし、受け止めている。何故ならあなたは私であり、私はあなたでもあり、私とあなた、またはそれ以外の全てのものを隔てるものはどこにもないのだから。 

例えあなたの今いるその場所が、暗くて狭い井戸の中であったとしても、

例えその事が、愚かで、無知で、醜い事であったとしても、

例え声も姿も届かず、

例え誰に何も気付いてもらえず、

例え不安で、怖くて、寂しくて仕方がなかったとしても、

必死に鳴くあなたのその鳴き声は、

田んぼにいるどの蛙なんかよりも、力強い大きな声で、意志の宿るものとして、しっかりとこの私には届いている。

あなたの苦しみは、あなただけのものではないし、あなたが苦しみを抱えているのと同じように、どこかでまた同じ苦しみを抱えている人もいる。

だから、もしあなたが、いつかその暗くて狭い井戸の底から這い上がる事が出来たのならば、

今あなたを苦しめる、その心の大きな揺れは、今あなたと同じように、井戸の底で苦しんでいる人の気持ちに寄り添う為の、"慈悲なる心"の領域を広げ、今あなたと同じように苦しむ、目の前のその人を助ける為の、かけがえのない"智慧の力"を授けるだろう。

その時、きっとあなたの耳にも、私と同じように届いてくるはずだ。

幾多の井戸から聞こえてくる、その力強い"魂の鳴き声"が。

時間の経過と共に、そのまま全ての泥は置き去りにされ蓄積される。時間は万能に何でも解決してくれるわけではなく、時という乗り物に乗り、景色を変えながらただ一緒に移動してきただけで、まるまる何も変わっていない所か、山のように蓄積されては、更なる膨張を繰り返す。ボタン一つで、排水溝から水を流すように、泥の全てを一気に排出して終わりに出来たらどんなに楽かと思うけど、考えても考えてもどうにかならずここまで来ているのに、最後にちょっと足掻いたところでどうにかなる訳でもなく、そんな簡単にしつこく蔓延る濁りが綺麗サッパリ澄み渡っていく訳がない。

そして結局の所ヨガに限った話ではなかったりもするのだが、まるで亀を追うアキレスのように、私がどんなに追いかけても追いつかない所で、多くの人はずっと先に進んだ所て"生きる"という事を捉えていて、私がどんなに考えても、分からない事を、多くの人は備えたものとして持ち、常に一歩進んだ所から"どう生きるか"を深めているように感じてしまう。

もし蓄積して膨張する泥から上がり、綺麗に明るい所に花を咲かしたいと思うのであれば、やはりヨガであろうが何であろうがもう一つ太い覚悟が無いと、恐らく進めば進むほど苦しくなるだろうし、ただ襲ってくる感情の波に飲み込まれていくだけで、このままだと更に、ヨガをして手放したい、回避したいと思っていた側の方へと、逆にどんどんと進んでいってしまうだろう。

今は考えれば考える程、色々な事が目に入ってきては心も乱され、渦の幅も更に拡大していく。だから、あまり好ましくない事を承知しながらも、どうしてもこういう嫌な気が充満した卑屈じみた文章になってしまう。

それでもなお、何故ヨガというジャンルの中でこんな事を書いているかと言われれば、即ちそれは生きる事=ヨガという大きなテーマの中で、こういう心の揺れと向き合いながら、それを超えた所を真理として追求し、最終的には到達を目指していくという事が、ヨガの大きな目的として存在するからであり、人生にあがいているようなまさにその状態というのも、実は真理に向かいヨガを深めている、大切なプロセスそのものであったりするのだ。

人間誰だって、おおらかで、爽やかで、前向きで、波の無い穏やかな状態が望ましい事なんて分かっているし、愚痴ったり卑屈になる事の自分や周りへの悪影響だって知っている。それでも生きていればどうしたって下しか向く事が出来なかったり、目標なんて持てずに、泥の中であがいて、もがく事しか出来ない事も沢山あれば、人に蔑まれ、みじめな思いをし、泥面の向こうで咲く花を見て嫉妬に狂い劣等感に苛まれ、そんな自分に対し、自分で自分を軽蔑しては辟易とする事だってある。

その都度悔しい思いをしたり、自分で自分を責める事しか出来なくなれば、誰だって気持ちは行き場を失くして迷子になる事もあるけれど、それでも無理にでも上を見上げて、前に進む事を求められる中で、悲しむ事も、迷う事も、泣く事も、全てが弱気だ、ネガティブだ、陰気だと思われているような気がして余計に苦しくなるのなら、だったらせめて、ヨガという時間に浸っている間位は、思う存分、安心して落ち込んで、抗って、比べて、嫉妬して、憎んで、悔やんで、後ろを向いて、下を向いて、沢山泣いたっていいはずだ。

世の中で認められたり、成功したり、人に喜ばれるのは、例えば前向きで、芯が通っていて、志があったり、行動力があったり、心身共に健やかであったり、逆境でも負けないとか、誰よりも努力をしているとか、そういう生きるエネルギーに溢れている人だったりするかもしれないけれど、でも人を傷つけないように留意した中、愚痴ってもいいというあえて設けたその為の時間と場所の中で、愚痴りたくなったらどんどん愚痴って、溜め込む毒や泥は吐き出し、沢山泣いてスッキリさせたら、例えそれが無知であろうとも、例えそれが愚かであろうとも、その隙間の影から穏やかで波の無い景色だって、その内見えてくる事もあるかもしれない。

ヨガ=清澄、寂静、解放、至福、慈愛・・等々、ヨガでよくあるそんなイメージも、それらは到達するものと考えれば、途中経過で無理して、爽やかに、清らかに、穏やかでいるイメージばかりを作り上げていく必要も無いと思うし、例えばヨガの代表的なアーサナである蓮華座にしても、あれだって本来なら咲いている蓮の花をイメージしているのかもしれないけれど、咲いている花や、咲かそうと芽を出しているものばかりが、花ではないのだから、咲かない苦しみや、咲かす事にエネルギーを注げない苦しみ、他の咲いている花の事が気になる心の苦しみ等を瞑想によって鎮めるという事を目標として、逆に咲いていない花のイメージから姿勢をとる事も一つのアプローチであると思う。

その過程で、なんで、どうしてと不満が募ったり、悔しさや嫉妬に潰されそうになったり、それが口から愚痴として排出されて、感情が溢れて泣いたって、闇があるから光があり、涙があるから笑顔があり、揺れがあるからニュートラルがあり、こういった原則の中で、たった一つの本質としての自分や、真理を見つけそれに向かっていくのがヨガと言えるのだから、例え愚痴であろうが何であろうが、それらもまた瞑想状態へと向かい、悟りに到達する一つのプロセスだと捉えていいはずだ。

結局グルリと遠回りしながら、また自分に都合よく、揺れる煩悩についての解釈をしているようだけど、あえてこれに現代式っぽく新しく名前を付けるとしたならば「愚痴ヨガ」とでも名付けてみようか。

愚痴る事も簡単な人には凄く簡単な事かもしれないけれど、適度な毒抜きとして上手く自分をコントロールする術として、器用にそれが出来る人と出来ない人とが実際にはいたりするし、無理に頑張ろうとしたり、無理に笑顔でいようとしたりする中で、人によっては何かに依存して、自分の健康を害する形でバランスを取っている人も沢山いる。だからそうなる前の段階として、最近あった嫌な事や、頭に来た事、嫉妬した事等何でもいいので、体と心に溜まった邪気や泥のようなものを払うように、書いてでも、口に出してでも、動いてでも何でもいいから、自分の意志と選択であえてそれらを外に出していくイメージでヨガをしてみたら、また違う観点から案外とスッキリした感覚を得られるかもしれない。

伝統式にも、現代式にも、ヨガのジャンルは山ほど現存すると思うけど、せっかくヨガ=生きる事という大きなテーマがあるのだから、自分が悩んでいたり、考えていたり、陥っていたりするものに、何でもいいからこうやって最後に「ヨガ」をつけて、"○○ヨガ"って名前をつけたら、それはもう立派なその人にとってのオンリーワンヨガだし、それこそ自分の名付けた○○ヨガを通して、人生に無駄な事は無いという事を、自らの実感として得られるのではないだろうか。

人の数だけ人生があれば、きっと人の数だけヨガが存在する。私にとってのオンリーワンヨガだって必ずあるはずだし、誰にもそれはきっとある。そしていつか、人生に迷う目の前のその人にとっての唯一無二のオンリーワンヨガを、ヨガティーチャーとして導く事が出来たのなら、きっとYOGAを通したINCLUSIVEにも向かっていく事が出来るだろう。

なんだかんだヨガだからこそ、これが出来る無限の可能性を秘めていると思うし、だからこそ私はなんだかんだヨガについて考えるし、だからこそ私はなんだかんだヨガの魅力に惹かれてしまうのだ。


私のヨガに関わる学びや活動を総称するものとして、このHPのタイトルでもある、"YOGA INCLUSIVE"という言葉を使っています。

どんな願いを込めて何故この単語にしたかというのは、HPにも載せていたりもするのですが、そもそもこのINCLUSIVEという言葉は、ヨガ云々の前に、福祉や教育の世界で使われている"INCLUSIVE(又はINCLUSION)"の概念が元になっており、そこからの繋がりで持ってきた言葉でもあります。

福祉や教育関係の方はもちろん、そうでない方も、もしかしたらどこかで、「Social inclusion」とか「Inclusive教育」なんて言葉を聞いた事がある方もいらっしゃるかもしれません。

簡単にその2つの概念について書きますと、

まず「Social inclusion」とは・・
"全ての人々を排除する事なく、孤独や孤立から守りながら、同じ社会を生きる仲間として包み支え合っていく事"

そして「Inclusive教育」とは・・
"すべての子ども達が、障がい等の有無に関わらず、個々の教育的ニーズに応じた配慮を受けながら、共に学んでいく事が出来る"

というのが大まかな概念となり、この概念が先にあった上で、そこに私の中のヨガのイメージや、ヨガを通して目指したいもの、または目指せる可能性があるものが上手くマッチした時にこの"YOGA INCLUSIVE"というタイトルが生まれました。

更にそもそもを遡り、何故私の中に、福祉や教育で使われる「INCLUSIVE」の概念が頭にあったかというと、私自身がヨガの前に、教育と福祉の2つを学んだできたというのが第一にあります。

自分の事を少しだけ書くと、私は、大学では幼児教育を専門に学んでいました。卒業した後も保育士として仕事をしていたのですが、そこは保育園とは違い、24時間そこで子ども達が暮らす入所の施設だったので、一人一人の子ども達が施設で暮らしている背景にも、多様な社会問題が縮図のように詰まった形で、複雑な事情が沢山ありました。

将来的に子ども達への直接処遇にとどまらず、よりトータル的に幅を広げて支援していくには、大学で学んだものだけでは、やはり不十分だと感じていましたし、保育士の資格も福祉資格ですので、福祉についても全く勉強していなかった訳ではないのですが、一度改めてそこに特化をした上で、しっかり学びたいと考えていました。そこで、仕事をしながら専門学校の通信課程に入って勉強を始めて、その時に学びを修めた一つの形として、社会福祉士という資格を取得したという経緯があります(ソーシャルワーカーとしてお仕事されている方が多い資格です)。

紆余曲折あり、今の自分は、福祉の分野でも、教育の分野でも、仕事をしているわけではないので、ここであまり福祉とは何か、教育とは何かと詳しく論ずる事は出来ないのですが、せっかく志を持って、その時の自分が一生懸命学んだものになるので、どこかで、これら過去の学びに繋がる形で、新しいヨガという学びもそこに加えていきたいという気持ちが内側にはあります。

またヨガの実践には"カルマヨガ"と呼ばれる、結果への見返りに執着しない、福祉や奉仕の心を教えとして説いた実践もあれば、私がヨガを学んだ町田市にある"リシケシ ヨガシャラ"というスタジオも、インドのアシュラム(ヨガを学ぶ福祉施設)をコンセプトにしており、母体としてヒールジアースというNPO法人が運営しています。(法人が公式で運営しているものにはyoga societyというサークル団体もあるので、ご興味がある方は一度サイトを訪れてみて下さい。)

また、これは私が個人的に思う事として、ヨガの教えは子ども達にとっても、純粋に教材としての価値が凄くあるなと感じています。子ども達に馴染みのある生き物のアーサナ等から入って、遊び感覚を残した中で、ヨガの思想や哲学からの生きる上での大切な智慧等を、分かりやすく楽しく伝えていく事が工夫次第では可能だと思います。

私はよく、名前とか数字とかに何か意味を持たせたがるタイプの人間なので、何かのネーミング等を考える時も、安易にすんなりいつも決められなくて、考え込んでしまう事も多いのですが、これら要素を考えてみただけでも、まさにヨガそのものが、実は何も意味付けしなくても、そのまま福祉であり、そして教育であったりもして、自分の中でも何の違和感を感じる事なくヨガ×教育×福祉を結びつける事が出来、上手く3つのバランスが取れた中で、すんなりとINCLUSIVEという単語をYOGAの隣に収める事が出来ました。

そしてこの名前は、3つの学びを持つ自分にもマッチした名前であると思うし、他にこの名称で活動しているヨガティーチャーや、スタジオも無かったので、個人的には独自性もあって凄く気に入っている名前です。

今後、どういう形でヨガを続けていくかは分かりませんが、この"INCLUSIVE"の精神や、社会貢献へ向かっていくベクトルは変わるものではありません。

こうやって書いていると、いかにも私自身が、ヨガを通して世の為人の為、福祉や教育で社会貢献を目指している、とても立派そうな人にうつるのですが、実際はそんなたいそうな理念を掲げられる程、人としての成熟はまだないし、欲やエゴや見栄など、あらゆる煩悩に心はいつも揺れているのが現状です。

また、ヨガと教育と福祉を3つ結びつけて考えたもう一つの理由は、世の為人の為も勿論ありますが、ヨガという学びに出会えた事で、過去の自分から、今の自分までの時間が上手く繋ぎ合わさって、これまで自分が過ごしできた過去の時間への否定的な感情に対し、少し寛容になる事が出来るのではないかという、自分の為という目的もあります。

よく皆さん"過去は変えられない!後ろを振り向かない!未来を見据えて!今出来る事に集中して!"と言いますが、私は過去は変えられると思っています。

今の自分に集中するしかない事は事実であるけれど、今の自分が過去をどう捉えられるかで、過去の嫌な思い出や、辛い事も、それはいかようにも変わっていきます。

例えば、よくスポーツ選手が怪我をして復活したあとのインタビューで、"あの怪我があったから更に成長出来た"と言いますが、怪我をしても復活すれば、怪我をしたというマイナスな過去の出来事も、プラスの過去の出来事に変わります。

だから私は、未来の為にというのも勿論ありますが、"過去の〜があったから今の良好な自分がある"というような、過去をプラスに捉えられるストーリーになるように、過去の自分の為にも今を生きるという感覚も常に持ち合わせています。

時間の流れは、過去→現在→未来の流れなわけですから、過去の捉え方が変われば、矢印の流れに沿って自ずと、未来まで繋がるというのが私の認識です。ただしあるべきポイントは常に中心である現在でなければなりません。未来も過去も同じように見据えながら、そこに揺れるのではなく、あくまでも、軸は今ここに置きます(これが一番大切です!)

ヨガがクビキとなり、今の自分と、過去の自分の何かが一つでも繋がれば、更にそこからもっともっと遡っていき、バラバラと断片的で虚ろになっている自分の中の色々なものが、数珠繋ぎのように繋がってくるのではないかと淡い期待をしております。

今はまだ、名前負けしているような所があり、私がYOGAで目指す、INCLUSIVEには何も向かう事は出来ていなくて、レッスンも休止になっている状況なのですが、最後までロウソクの灯火だけは消さずに残しておきます。

もしこのHPを見た、教育や福祉関係者の方や、ヨガをしたいけどスタジオには行きづらい、若しくは何らかの事情で行けないというニーズをお持ちの方、それ以外にもヨガに興味のある方がいましたら、まずは相談としてでも、簡単な問い合わせでもいいので、私のメールアドレス(ysyoga0203@gmail.com)にご連絡下さって結構です。

ヨガを通し私に出来る事があれば、お力になっていきたいと考えていますし、例え私に出来なかったとしても、まるで"ヨガソーシャルワーカー"のようになって、リシケシヨガシャラ含め何かコミュニティの中でお役に立つ資源を、皆様にご紹介出来るかもしれません。



私の場合、心の部分はいつも、揺れて乱れて、そして迷いばかりなのですが、肉体面に関して言うならば、揺れや迷いは殆どなく、ある程度自分の中で確立とまでは行かないけれど、軸であったり、このまま進んで行けば良いんだなという道筋のようなものが見えているので、殆ど不安や焦りを感じる事がありません。今後、今自分の持っている感覚的な部分に、解剖学や生理学等の正しい根拠となる理論が上手くマッチングし、より客観的に自分の肉体を捉える技術が養われて、今現在の歪みの部分を少しずつ解消していく事が出来たのならば、それなりの所まで肉体は極められる感じがしています。

ただし私は、体操選手やバレリーナのように、身体を使う事のスペシャリストでもないし、そういったバックボーンもないので、本当に熟達して身体を操作出来る人と仮に比べたとしたら、現時点ではまだまだ低い次元にいることは間違いありません。

しかし、身体の部分に関しては、そういう何かと比べるような感覚も全くないし、純粋に自分基準で自分自身の事として向き合えている感じがします。

昔はとにかく身体的コンプレックスが強くて、それにかなり苦闘させられた苦い過去があるのですが、遠回りしながら一周してまた戻ってきて、今後どのような惑いがあるは分かりませんが、現時点においては、ようやく自分軸の様なものを持つ事が出来たと思っています。

現在、身体で痛みや不快感として感じている部分に関しても、その時のダメージによる部分もあるのですが、体組織に大きな取り返しのつかないような傷がなく、ただ歪みや、それによって引き起こされている筋肉の緊張であるならば、恐らくこれらも今後改善させていく事は出来るでしょう。年齢的にいうと、ここから身体能力は一般的に落ちてくるのかもしれませんが、今は全くそんな感じはしないし、正直良くなっていくイメージしかありません。もちろん、髪が抜けて、白髪がふえて、シワが増えてとか、細胞レベルでの老化は抗えない部分はあると思いますが、コントロール出来るものに関しては、しっかり手綱を取ってコントロールをしていけると感じています。現に養成コースに通っていた時に、私よりも年を重ねてきている先生方の身体の使いこなしや、その若々しさを見ていたら、年齢は全く言い訳になりません。

何年か後位に、身体能力に関してはより高い水準に届くと思います(あくまでも自分基準ですよ)。そこからは大きな怪我や病気が無ければ、緩やかに上昇するか、あるいは保っていく感じでガクッと崩れる事も恐らく無いと思うし、それも凄く苦しい事を続けながらという感じでもなく、犬や猫がウォーミングアップなんかしなくても、広場を颯爽と駆け回る事が出来るような、そういうナチュラルに良好な状態を常に維持していくイメージで、ごくありのまま、自分に備わったものとして保っていける感覚があります。アーサナで特に磨かれていく身体感覚も、こういう人間という一種の生き物としてのポテンシャルを最大限に引き出していく所にあると日頃から感じているし、実際アーサナ自体、野生の動物や植物を真似るように作られているものが非常に多くあります。

アーサナに関して言うと以前だったらパッと絵や写真を見て、こんなの出来る訳が無いと感じていたものも、今は時間はかかったとしても、少しずつ向上していきながら、十分に辿りつける感覚があります。浅い所でなく、己の状態をよく知り、自分の中で根拠を崩さずにその感覚さえイメージとしてしっかり持つ事が出来れば、以前に別の記事で書いた事もあるのですが、あとはひたすらイメージの繰り返しと、日常生活での身体意識を高めていけば、無理に練習しなくてもその内必ず出来るようになります(100m走を3秒で走るとか飛躍したイメージになると、それはどちらかというと、より高次な第6感やスピリチュアルティに働きかけるようなものになると思います)。私の実感としてもそうだし、イメージトレーニングという馴染みのある言葉も浸透しているように、それは科学でも立証されている事として、やはり人間のイメージする力は侮れないはずです。

正直まだ痛みや歪みのせいで、もどかしい部分はあるし、もっともっと動かせるイメージの中で動かせないという、そのギャップに葛藤する事もあるけれど、敵がはっきり見えている中で、そこにアプローチも出来ているし、少しずつどのように向かっていけばいいのかが、目の前にレールとして見えているので今は慌てる事もありません。

ただし、アーサナを指導するという事を考えれば、やはり私の場合は、自分の中で凄く感覚的に捉えてしまいがちな所もあるし、何でどうしてそれが出来るのかとか、どうしたらそれが出来るのかと言われたら、上手く言葉にしづらい所もあるので、これをしっかり理論と根拠に基づいて、丁寧に分かりやすく説明出来るようになるには、もっともっと学びは必要だなと感じています。

自分が一人で追求していく分には、感覚重視に偏っても、自分が楽しければそれで良いかもしれませんが、やはり人に伝えるのには、それでは不十分、不親切であるし、何よりも怪我のリスクをまず第一に考える必要もあります。そして、私自身が先生方に解放学的指導を受けて、そこから技術の向上を感じ取る事が出来たので、純粋にそれを智慧として伝達し、多くの人とシェアをする事が出来たらとても嬉しく思います。

私は、心の部分は一度踏み込むと迷宮から抜けられなくなって、どんどん渦が大きくなったり、沈んでいくばかりなので、一旦そこの部分は置いといて、アーサナを純粋に技術の探求とし、ひたすら集中しながら、そこに打ち込むような時間を取る事も必要なのかもしれません。八支則の流れを念頭に入れれば、ヨガ実践者として、呼吸や心の動きの前に、まずは高いレベルでアーサナを実践出来るというのは、やはり必要な事であるし、そこに到達して、初めて自らの心の揺れにも正面から向き合えていけるのかなと思います。まずは身体感覚の統合が図れなければ、心身一如、更にその先の梵我一如は目指す上での準備不足は否めません。

因みに元々純粋な身体的な追い込みには、割とタフというか、そんなに嫌いではない気質なので、指導力が付いてきた先に、そういのがお好みの人で集まって、ひたすらストイックに肉体を追い込んで研ぎ澄ませていく事を、修行のように行なってみるのも楽しそうだなと思います。分かりやすく数だけに拘るなら、別にイベントでなくても、毎月でも毎週でも108回太陽礼拝やっても私個人としては平気だし、体力に自信が無い方でも、現代的に3つの原理(過負荷の原理、特異性の原理、可逆性の原理)と5つの原則(反復性の原則、個別性の原則、漸進性の原則、全面性の原則、意識性の原則)に沿ってマラソンの練習のように、少しずつ強度や回数をあげながら練習を重ねていけば、ただ数をこなすだけなら皆行えるようになると思います。最初は数回なんとかやれていたものが、段々とこなせる数が増えていくというのは、目に見える自分の成長として自信になりますよね。

ヨガの思想も哲学も精神性も一旦は横に置き、これだけやって、これだけ出来るようになるという、分かりやすい数字上の達成目標を作って、心の揺れを打ち消すように、たまには気合いと根性でひたすらそこに向かってアーサナに打ち込むのも、青春時代の部活動のようでいいのではないでしょうか。

もしかしたら、その没頭していく感覚こそに、アーサナの "動く瞑想" と呼ばれる所以の答えを見つけられるかもしれません。


「もしあなたが神様だとしたら」

この仮定の中では、神としてのあなたははどんな事も創造できる力を宿し、どんな困っている人も助けられます。

でも助けられる人は1人だけ。
例え同じように100人助けたいと思う人がいても、選べるのは一人のみです。
(神様という言葉も一例なので、こういうシチュエーションになったらというあくまでも仮定の話しです!)

あなたが選んだその一人は助かり、
残りの99人は助かりはしませんが、あなたが選ばなかった事を要因として、その99人の人生に、何か影響を与えるという事はなく、どういう選択をしても、誰に対して平等も不平等も無ければ、神としてのあなたの選択は正しいものとして尊重され、それに対して残りの99人があなたに対し何か恨みの感情を持つ事もありません。

皆同じように、何かしらの苦しみを持ち、皆そこで同じようにあがいています。

そして神様はその人の過去から現在に至るまでの全ての行いも、心の中の想念も、良いところも、悪い所も、全てを見通し、全てを知っています。

あなたは、一体何を決め手にその1人を選ぶでしょうか?

また、もしそんな神としてのあなたの前に、困った状況に窮する人間としてのあなたが目の前にいたら、あなたは自信と確信を持ってあなたを助けたいと思いますか?

神とか、救いとか書くと、何か宗教的な感じもするのですが、この話しは以前私が人から聞いた話しで、その方は自分が人生に迷った時に、こんな感じで問答をしながら、自分の進むべき道(どんな人の役に立ちたいか)や、あるべき姿を見つける事が出来、また日頃の自分の行いや、振る舞い等を見つめ直す事が出来たとお話ししてくれました。

人間、疲れやストレスが溜まって、悲しい気持ちになったり、自分を見失いがちになってくると、どうしても自分の考えや感情にも自信を持つ事が出来なくて、段々と全ての物事に対して否定的に捉えるようになりがちです。また、考える視野や思考の幅も狭くなり、大きく広い視野で物事を考える事自体が苦しく、自分には不相応な事だと罪悪感のように感じる事もあるかと思います。

でも、このお話を聞いて私が感じたのは、
「もし例えば」いう仮定の中であれば、あまり負担に思う事なく、神という大きな視点から自然と心のブロックを外し、自分の沸き起こる考えや感情を俯瞰的に捉えやすくなるなという事です。何故なら何を考えても、何を感じたとしても、それはあくまでも「もし例えば」の世界で自分が考えた、全て仮定の話しになるので別に気にする必要もありませんし、自分が考えた事だけど、自分が考えた事ではないと、割り切りや無責任でいられる感情も作りやすいと思います。

この方は、自己と向き合う過程の中で、たまたま「もし例えば」という言葉と「もし自分が神様だったら」という閃きに辿り着き、それがその時の自分の状態にたまたま上手いことマッチした事で、生き方や自分の在り方の方向性を、自分の内側からの気付きとして得る事が出来た訳ですが、こういうバラバラだったベクトルを同じ方向にむけ直す感覚を、どういったものから得られるかというのは、人によってまさにそれぞれです。

因みに神様というフレーズが出たから言いますと、私は正直、神様系の話の類はヨガの学びの中でもあまり得意な方ではなく、色々なものに神のような崇高な存在が宿っている感覚や、祈りの感覚や敬いや感謝の感覚は自然に持てるのですが、「〜神」みたいに名前がついたり、絵や像等で「これがその〜神です」みたいな形を見たりすると、す〜っと気持ちが引いてしまう所があります。
(未だに「シヴァ」や「シャクティ」というヨガではかなりメジャー所の神様の事を言われても、神様と言われているからそれを神様の名前としては認識するけど、それ以上でも、それ以下でも無いという感覚のままです)

なので内省をしていても、目に見えない力にすがろうとする事はあっても、漠然とした感じでしか、神様という存在を感じとる事が出来ないので、自在神の感覚も乏しいし、「〜の神様お助け下さい」と、具体的に神様の名前を出してお祈りする事も苦手です。人によっては、神様や精霊や守護神といった存在からのメッセージを、直接聞く事が出来るという方もいるとは思うのですが、私の場合はどちらかというと因果応報、カルマの法則やそれを含めた仏教的な思想から自分を見つめていく方が、自然と内側の自分と向き合う感覚は深まります。

またヨガのクラスの最後にはシャバアーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる、死を疑似体験する究極の瞑想法と呼ばれるアーサナを行います。内観と瞑想は、お互い目的や本質は近くて似てるようではありますが、私の中では若干違う感じがあり、内観が自分の内面を観察したり対話をしていく感じなのに対して、瞑想はより無に近い形でより深く潜在意識に向かっていく感じになります(語尾に〜な感じが多いですね・・)

このシャバアーサナと呼ばれる究極の瞑想法であっても、横になってリラクゼーションの延長からそのまま吸い込まれるように内に入っていく事が可能な方もいれば、人によってはそこから自然や宇宙のように、より高次な広い感覚から内側の小さな一点に向かう人もいるし、あるいは愛とか癒しとかの、何かに包まれているような安心感の感覚から、気持ちや思考の波が収束へと向かい、そこから内側へと入る人もいるだろうし、または、知の部分からあえて脳内で考える動の部分を作ってから、思考を手放すようにして、静なる状態に向かう人もいると思います。

この辺の動きも私は、自分では上手くコントロール出来ない所があるので、シャバアーサナでもずっと外側の意識をボーっと漂っているだけの事もあるし、結構な割合でそのまま寝てしまう事も多いです。上手く内に入っていけたとしても、何がきっかけでとかはその時によって全然違ったりするし、偶然的な要素もかなり多いです。

また、閉じた瞼の奥の闇の世界に、急に宇宙が広がったり、眉間やおヘソ辺りのチャクラはよくグルグル周ります(それ以外のチャクラは全く感じた事がありません)。チャクラはそれぞれ場所毎に色々な意味があるのですが、正直渦が回っている感覚だけで、そこから何か力が湧いてきたり、気付きが降りてきたりとかは無く、どうして今ここのチャクラが回るのだろうと、いつも疑問を残すのですが、それでも深く瞑想に向かえている証拠として悪い感覚は無く、覚醒後もやはり、スッキリした感じはあります。

色々と書きましたが、こんな風にどんな事でもいいので、何かの言葉や、環境、匂いやサウンド、考え方、スピリチュアル視点等、どういう所から自分が内側の潜在意識に入りやすいかという各々の感覚を、他人と共有していくのも、瞑想や内観を深める学びとして有意義なものになると思います。知恵として語り継がれるテクニック的な事でもいいし、自分の感覚やイメージの事でもいいし、哲学的に思考を深めながらでもいいし。

普段の生活だと「愛」とか「平和」とか「神」とか「エネルギー」とか「チャクラ」とか「宇宙」とか「〜教」とかそんな話しをすると、少し怪しい感じもして、周りの人もビックリしてしまうかもしれませんが、こういう事をためらわずに、感じた事や、浮かんだ事、考えた事、気づいた事、疑問に思った事を自由に話せる場があったとしてもいいと思います。何故なら、その中から得た気付きの価値は、どんなに沢山本を読んだり、インターネットで調べたとしても得られるものではないし、シェアの価値がとても高いものだからです。

頭の中で浮かんだ疑問の「?」は、どんなに些細な事でも、それは閃きと発見の大きな「!」に繋がります。実際小さな子供の成長なんかは毎日これの積み重ねです。ある程度ヨガのレッスンを受けて、技術や知識を習得したら、一度子どものように「何でこれは白いの?」「何でこれは丸いの?」といったシンプルな観点に戻りながら、習得した事に対する内なる声に耳を傾けていく事をおすすめします。「もし例えば」という小さな疑問から「自分が神様だったら」と子どものような想像を膨らませ、そこから人生の大きな気付きを得た前述のエピソードの方のように、思わぬ所から内観や瞑想が深まり、思わぬ気付きを得るなんて事も十分にあるし、自分の内側から得た気付きに優る学びはやっぱりありません。 

更にこの話しで言えば、ヨガの学びの段階八支側の二ヤマの中には、自在神祈念という言葉もありますし、また私達一人一人が宇宙の創造主なんだ、という考え方もあるので、「もし例えば」の仮定から入って、本当に自分の内側に神様を見いだしても、何ら大げさな事でもなく、もしその感覚が訪れたとするならば、それはヨガの目的の一つである梵我一如に向かう、凄く大きな飛躍だと思います。

何がきっかけになって、どこに飛躍するかなんて事は本当に分からないし、それは生きるという営み全てにおいて言える事です。根拠はなくても、こればかりは本当に予測がつかないので、だからどんな事も可能性を排除する事もないし、小さな気付きも無駄にする事もないし、今日何もなくても、明日偶然何かあるかもしれなくて、その何かを分岐点にして、人生が大きな飛躍へ向かっても全く不思議ではありません。智慧として獲得した、アーサナや呼吸法の技術も活用しながら、日々どんな状況でも偏りや歪みの少ない素直で純粋な状態を保ち、常にそれを自分のニュートラルとして保ち続ける事ができたならば、綺麗に整った部屋程小さなチリやホコリが目につくのと似た感じで、それこそ些細な気付きなんていくらでも見つけられると思うし(チリやホコリに例えると少し汚い感じがしますが・・)、それだけ人生を好転、飛躍させるきっかけも沢山あるという事に繋がります。

心身の不快感に気をとられて、そんな大切な気付きを逃してしまうのであれは、不安や寂しさも、悔しさも一旦は胸にしまい内に秘め、その瞬間出来る事は、兎にも角にもまずはやはりマットを敷いて実践を重ね、心身のバランスの調和を図るのみなのかなと思います。ダラダラと書いて、無理矢理な感じもありますが、結局最後は凄くシンプルな所に着地した感じがします。それだけ色々な揺れが自分の中にあるという事なのかもしれません。