掴んで、引いて、
手繰り寄せ。

何かが、そこについてくるのを、
期待していた訳でもないけど、

でも、結果として、
何もついてこない事には、

ちゃんと、
嫌気も残る。

一体何が、
正直な思いなのだろう。

見返り?

夢?
目標?

誰かの為に?
それを役割として?

変わりゆくものの中に、
変わらぬものもあり、

変わらぬものの中でも、
また変わってゆくものもあり、

行ったり来たり、 
夢中になって続ける内、

いつの間にか、
すっかりまた、

絡まり始めているのかもしれない。

勿論、続けるのも、
終わりにするのも、

自分の自由だと思う。

嫌だと思う気持ちがあるなら、
そのまま、腕を下ろしてしまえば簡単だ。

それは、いつでも出来る。

だけど、せっかくここまできて、

また、何もしていないや、
何も無いという事から、

何かが全く変わる事なく、
一つに収まっていくとするのなら、

まだまだ、
綱は離せないし

もっともっと、
強くも引き続けていきたい。

それは、要らないものを、
手放していく為に、

そして、時には強く"執着"をしていく位に。

例え、どんな迷いが、
形を変えて流れてきたとしても、

その源泉を辿ってみれば、

溢れるものは、
"たったの一つ"だ。

それは、決して絡まる事なく、
今なお、力強く湧き続けていくのである。




遠く、遠く、

小さな穴を覗き込んだような所にある、
向こう側。 

一体、ここにある何を、
どんな風に繋げて、

渡ろうとしているのだろう。

足りないものがある?
邪魔なものがある?

下から上にと、
はみ出す事なく、

綺麗なアーチを描いて、

そのまま、ストンと向こう側へと、
着地していく事が出来るのなら、

いつでも迷わず、
そうする事を選んでいきたいが、

でも、実際には、

その見通しさえも、
未だ不揃いなまま、

そこは、まだまだ隙間とも言えぬような、
大きな空間で隔たれている。

勿論、慌てて急ぐ必要はない。

だけど、原動力なんてものは、
何でも良い。

いざ、どうしようかと考えている間に、
視界はあっという間に、閉ざされていくのだから、

今は向こうが見えてる、
その僅かな間に、

とりあえず、
そこにある曲がったものも、

歪んだものも、

ずらして、
びっくり返し、
引っかけあって、

どんどん、
積極的に使っていってみよう。

辿り着き方は、
決して一つの理想的な並べられ方に、
限られたものではないし、

使い方次第で、
それはどんな形にでも、
紡がれていくもの。

時には、目の前から消えていきそうな、
儚い可能性だって、

賢く、器用に、
選び取ろうとする事よりも、

そうやって、不器用な形のまま、
"維持"されていくものなのだ。


置き忘れたものや、
取り残したもの。

ジタバタ、読み返していく度、
古びた埃が、巻き上げられていく。

綺麗な言葉で、
表紙を飾り立てていく事も、

思い通りに目次を立てて、
並べていく事も、

まだ器用には出来ないけれど、

それなら今は一枚、一枚、
大切にページをめくるように、

今日も少し、
明日も少しで、

そうやって、
新しく重ねていく事が出来ればいい。

例え目隠してでも
迷わないように、

この位で、ひとまず、

小さな栞でも
挟んでいきながら。

行ったり来たり、
慌ててページを、
探したりなんかしなくても、

いつでもまた、

そこから始めていく事だって、
出来るのだ。





本意なのか、
不本意なのか、

頬杖ついて、
少し斜めから眺めてみる事になる。

どうしてそれが、
そこにあって、

そんな風に巻き付いているのか、

分からないと言うより、
よく見た事もなかった。

何かのついでのように、
少し気になったのも、
たまたまかもしれないけれど、

でも、そこにあるのは、

吐き出されていく
溜息一つでさえ、

決して、気まぐれなストーリーなんかではない。

紡いできたからこそ、
そこにある。

たまたま頬杖したからこそ、
ここから見えた。

分かった事?
分かってしまった事?

また巻きつくように1つ、

新たなストーリーは、
紡がれていく。

振られて、揺れて、
動いたものもあるし、


避けていったものもあり、
変化も、停滞も同じようにある。


それは疲れとも言えるし、
充実とも言えるし、


それぞれ実感としてはあるのだけれど、
ただ、虚しさもある。


意味付けはいくらでも可能だ。


でも、最後に探している時点で、
意味なんて、どこにもなかったのかもしれない。


また、一つ場が暮れていく。
そして、新たな場が明けていく。


この、在りし来たりし日々よ。


次は一体、どこになびいていくのだろう。
どうしようかな?
やっぱりやめようかな?

正直、強く求めているとかでもないし、
自信も無いし、

少し怖い感じもあったのだけど、

それでも、気になって、
落ち着かなくて、

ふと、遠慮した気持ちの中で、
扉を開けてみたくなった。

でも、そんな時に限って、
扉が重い。

ミシ・・。
ミシ・・。

どこかに、何かが引っかかっているのだろうか?

ギシギシ・・。

押しても、引いても中々動かない。
鍵はいつも開けたままなのに。

いざ、力を加えて、
強引にこじ開けてみる。

するとそこには・・ 

ただ、
白い広がり・・

あっけなく、
何も無い・・。

身体は、まるで何かにおののくように、背中を丸め.

表情険しく、口をすぼめて、吐き出す呼吸は、まるで生気を自ら逃していくようである。

・・。

一体いつから、こんなに明らかになったのだろう。

こっちにいれば、あっちの事なんか気にする事がないと思っていたし、

こっちはこっち、
あっちはあっちで、

ちゃんと等しく積み重ねられるものだと思っていた。

でも、何かが違う。
やっぱり、同じではない。

あっちは進み、
こっちは停滞し、

目の前に一本線が引かれたみたいに、こっちと、あっちは、隔たれていく。

それは、積もりに積もって、遂に重さに耐え切れずに崩れ落ちてしまった、意味もなく、ただ無駄に重ねてきたかのような、自分の行いの数々。

その場その場では、それで自分を誤魔化すように、凌いできたものがあったのかもしれないけれど、それは確実に重くのしかかっていた。

確かに、振り返ってみれば、まず扉を閉めて、こっちに塞ぎこんでいたのは、自分の選択で間違いないと思う。

何故なら、一応そこには、少なからず自分の中で、護ろうとするものもあったから。

例えば、
傷つきたくない、
失敗したくない、
恥を書きたくない、
裏切られたくない、

みたいに、それなりに言葉を並べられる位には。

でも、正直その程度の事。

そこには何の覚悟も、
確かな根拠なんてものもなく、

あり続けていたのは、避けて、逃げ続けてきた事の延長として、今なおここにある、そんな今この瞬間ばかり。

決して何もしていなかった訳ではないが、でも実際、特に色づけ出来る程でもない、この扉の中の、この質素な思いの数々は、

結局、どんなものでさえも描かれ難く、ただ真っ白なもの以外には、見極めようがなかったのだ。

そう。
きっと、そういう事。

頭の中では、分かっているし、

また、扉を閉めて、鍵を閉め、同じように、閉じこめたらそれで良い。

・・。

だけど・・、
それって、やる気がないって思われる事?

それとも、つまらなくて、残念だと思われる事?

肌をさす、冷たく厳しい風は、僅かな扉の隙間を逃す事なく、こちらに吹き付けてくる。

それは、まるで手の先、足の先へと巡り、そして全身隅々、身体の芯まで、とことん追いかけくるように。

ところで、この凍えるように、かじかむ指先で、今度は一体何を掴み、そして何を手放していく事が出来るのだろうか。
  
器用になんか動かせるわけがない。

きっと、ここに至るまでの自分の在り方を、そのまま省みてみれば、

"これで良いんだ"と、

全てをそう、受け入れていく事が、妥当な判断にはなるし、

それに、真っ白だって、見方によっては、とても鮮やかで美しいものになる。

だけどそれは、やっぱり充分に、暖かく自分を護るものがあってこそのもの。

そんなものは何もなかったはずだし、この寒さや、白さは、それとは全く質が違う。

今は、ただ虚しいだけなのだ。

本当は、引きずっているものが沢山あるし、
本当は、悔しくて覆したいものも沢山ある。

だからこそ、扉の鍵も閉める事が出来ずにいたし、ずっと、ずっとそこで凌ぐように、重ねてきたものもあったはず。

時には突然、支え切れない重さとなって、雪崩のように崩れ落ちてきてしまう事もあるし、

また、心の中には埋められない隙間のようなものを、虚しく感じる事もあるのかもしれない。

だけど、そろそろ、じっとその寒さに耐え忍んでいくばかりの時間は終わりにして、

今度は、自ら動く事によって、それを打破していく為の、新たな熱の力(tapas)を生み出していこう。 

今、枯渇しているもの、
今、歪んでいる所、

そして、今必要な事は何なのか。

まだまだ、確信を抱くには、分からない事が沢山あるかもしれないけれど、

でも、もし分からないからと言って、そのまま塞いで、閉じこめてしまう事でしか、自分を護っていく事が出来ないのならば、

きっとそれもまた、自分の中で省みるべき1つの偏りとなる。

何故なら、受け入れる事も、抗う事も、
また、押してみる事も、引いてみる事も、

その、あれも、これもは、
皆んな等しいバランスの中で、調和を保って存在しているのだから。

必要以上に、おののく事はないし、
時には、根拠や覚悟なんかなくても別に良い。

だから、今度はもう少し素直に、
そして正直な思いの中で、

自分を"信じる力"のようなものも、大切にしてみてほしい。

それは、決して無理に力を加えるような事でもないし、強引にこじ開けるようなものでもない。

もっと、もっと自然な力の一つとして、
みんなが等しく、積み重ねてきているもの。

もう遠慮はいらないし、
もう迷いもない。

思いの波動を力に変えて、
いざ再び、扉を開けてみる。

そこには、こっちもあっちも、隔てるようなものは何もないのだから。

どこを、どこから見たって、もうすっかり色は移ろい始めているし、また、それらが彩りよく、映えても見えてくる。

何周したって、いつもいつも同じ事。

どうして、分かる人は、
分かる事が出来るのだろう?

どうして、見つけられる人は、
見つける事が出来るのだろう?

そして、どうしたら受け入れる事って出来るのだろうか?

そんな迷いの中で、視界に入る、あれやこれやの扉は、確かに、どれもキラキラ輝いてはいるけれども、

でもその分、ついつい横に並べて、
比べてしまう事もあり、

"自分らしく"
"誰かと比べず"

そんな優しい言葉の一つ一つでさえも、少々ピリリとした刺激として、知覚してしまう事がある。

それは、結局いつも不平不満ばかりで、足ることを知ろうとしない、卑屈な自分。

まるで、腐った幹のような
中身の無い自分の軸は、

少し過敏な位に、
捻れて、倒れて、ひっくり返り、

その度、その度、
また更に大きな歪みを加えて、
姿、形を偏らせていく。

勿論、心の中では、当たり前のように、前を見据えて、1から順に、要領よく重ねていく事を望んでいて、

そして、そうある為に、加えようとしている事も、そこにはちゃんとある。

だけど、数字が苦手?
いや、多分集中して数えられていないだけ。

あるいは、変幻自在?
いや、それも形を変えて誤魔化しているだけ。

そこには、不器用に器用を装い、こんなつもりじゃなかったなんて、覆い隠そうとしている、明らかなる自分の姿があるが、

でも、まるで庭一面に広がる落ち葉のように、

それらは決して、隠し切れる事なく、全てが四方一杯にと、隙間を埋めて散りばめられていくのだ。

さて、果たしてそれは、
どちらが上で、どちらが下か、
はたまた、どちらが右か左か、表か裏なのか。

隅から隅まで視線を移し、まるで大きく円を描くように、グルリと一周、後を追って確かめてはみるが、

正直、横を見たり、上や下を見たり、何が、何段目の、何周目のものとか、そういう事も、今はもう、どっちでも良い事なのかもしれない。

まるで、明日というごく当たり前の未来の事さえ、未だ曽て、どうなるのか誰もはっきりとは、分かる事が出来ていないように、

きっと、どこから何が、どこに向かって、どう収まっているのかなんて、

考えれば考える程に、
モヤモヤして見通すのは難しい事。

時には、その曖昧なる不透明さの中で、
"何も重なっていない"と感じてしまう、

悔しい、悔しい"今この瞬間"ばかりが、はっきりと写し出されてしまう事もあるけれども、

でも本来、四方に遍くものの中の、
その小さな、たった一つの要素は、

例え、どこから、どんな刺激として、届いてくるものであったとしても、

例え、それに対し、少し過敏な程に、反応してしまう事があったとしても、

決して、それが、それ以外の要素を巻き込みながら、全てを丸ごと塗り潰していってしまう、そんな大きな迷いの渦になるものではないし、

ましてや、慌てて、焦って、全てを手放してしまう程に、大きな不安となって、募っていくものばかりでもない。

もし、横に並べてしまうものや、
前を進むものの姿が、

どうしても、自分の中で気になってしまうのであれば、

そういう時は、上でも下でも、前でも横でも、あまりどこかを、よく見ようとかする事なく、

まるで、ただ虚な視線で、ボーっと遙か遠くの空を眺めるように、

そんな気持ちの一つを一つを
一旦、どこか適当な所へと解放してみよう。

同じ場所から、ふと見上げる上には、
今度は、また違う色が広がっている。

それは、時々黒く覆われたり、また渦巻くように荒れ狂う事もあり、

決して羨むような、キラキラしているものではないかもしれないけれど、

でも、その向こう側の景色へと、
思いを馳せて、

"もし、これがこのまま、ずっと続いていってくれるのだとしたら"

"もし、この果て無く広いものへと、自由に翔び立つ事が出来るのだとしたら"

そんな風に、穏やかな想像を働かせてみるだけでも、気持ちも少し安心する。

・・・。

ピリ・・。 ピリリ・・。

でも、それってつまらない事?

グラグラグラ・・。

こんな事が、維持されていくだけ?

自由?不自由?
義務?運命?

本当の幸せ・・?。
・・。

まだ少し、詰まりを感じているものがある。

まだ、深い所で何かが引っかかっている感じもするし、やっぱり、溜息混じりに、グルリと俯いてもしまう。

でも、そこにある、表に広がる鮮やかな思いも、また、表に出来ない、少し濁った裏側に隠しておきたい思いも、

皆んな、あれも、どれもが、自分にとって大切な"ありのまま"の一つ一つ。

そのどれもが、互いに影響し合い、
そのどれもが、無限に組み合わさりながら、

そのどれもが、どちらの側へも、等しく転換し合っていく可能性を持っているからこそ、

"だからこそ"

私達は、それを課題として向き合い、
また、そこから学び続けていく事で、

そのどちらもを、自由に見極め、選び、
そして、味わい尽くしていく為の、

かけがえない"智慧"の力を養っていく事が出来る。

それは、もはや、他の誰や、何かとも比べようがないものとして、

それは、簡単には崩れ無い、
自らの"軸"になるものとして、

それは、きっと!

いや・・、
多分かな?。

まだ、あまり自信は無いし、
まだ、よく分かってはいないけど、

でも、それでも大丈夫!

そんなグラグラ、ユラユラ、
あれも、どれも、これもが、

"だからこそ"

ちゃんと"確かな一歩"となって、
今ここに、積み重ねられているのだから。

薄く閉ざした視線の先、覗き込んだ隙間の奥に漂うのは、上手く言葉にならない"始まりの余韻"めいたもの。

覗けば覗く程に、近づく感覚はあるけど、
捉えようと思えば思う程に、心の中を見透かされていくような怖い感じもあり、

ボンヤリ、グルグル渦巻くものには、ほんの一滴、雫が加わるだけでも、その色や形や勢いは、瞬く間に変化をする。

恐らく、このままだと繋がらなくなるし、もっともっと濁った色になって、混ざってもいくのだろう。

赤に白を足したらピンク色。
青と黄色を混ぜたら緑色で、
ピンクと緑を混ぜたら・・

今度は何色になる??

例え、導き、導かれ、
そして手繰り寄せ、

ある程度、探し求めるものの、近い所までは迫る事が出来たとしても、

まるで、その場凌ぎの偽りを重ねるかのように、

次から次へと手元の色を継ぎ足しながら、結局その開きかけた視界を、自ら余計な理由や理屈で、グチャグチャ塗り潰してしまう事が続くのならば、

実際その始まりの余韻から、何かは中々始まらないし、そして展開していく事も難しい事になる。

別に怠けているわけでも、
避けているわけでもないが、

今、苦し紛れに誤魔化そうとしているものは何なのか?

手放せない怖さに、
自己都合な焦り、

あるいは予見できてしまう未来や、
それとも、やっぱり何か思い出してしまうもの?

ひとまずなんとか形にして、またその形を頼りにし、実は何も無くないで、救われてきた気持ちも、そこには沢山あるけど、

でも、今はどちらかと言えば、とにかく形を絞り出さなきゃに執われはじめ、心の動きもひとまず所か、大きく、捻って捻ってばかりの方に、偏り過ぎているのかもしれない。

因みに、そんな傾き続ける自分の軸となり、また土台となっていくのは、いつでも、"緊張"やその裏側にある"弛緩"とのバランス感覚の中で、段階的に積み重ねられ、そして規則的に保たれていくもの。

もし、捻って、捻って、吐き出して、まるで一瞬の束の間以上に、いつまでも、いつまでも息が止まる程の、苦しい"嫌な緊張感"が続いていくのであれば、

捻って捻ってばかりに陥る、そんな今だからこそ、

今度は、どうその捻りを解いて、解放していくのか、その反対側の部分を、次の新たな段階の学びとして、もう一つ積み重ねてみよう。

その気づきとなる転換点は、
喜怒哀楽、何らかの感情なのかもしれないし、

または、痛み(dukka)のような感覚として突然訪れるのかもしれないし、 

奥には、大切な思いが、繊細に繊細に折り重なっているからこそ、

それは、自分にとって、望ましいものや、望ましくないもの、または見上げる上や、俯く下等、いつ、どこから、どんな形や響きで訪れるのかも、要領よく簡単には分かってこない。

でも、まるで吸って吐いての呼吸が、ただ自然と繰り返されていくように、

お互いがお互いを呼び込む流れの中で、一つに繋がっている(yuj)ような意識を持ち、これからも正直に(Satya)、そして自らの役割として、その目の前の課題と向き合い続けていく事が出来るのならば、

それらは、
決して恐れたり、焦る必要の無い事として、

また、あれでもない、これでもないと、
翻弄されてしまう事もなければ、

何もしないとか、
何も分からないに逃げそうになる事もなく、

必ず、自分の意志に基づき、どこかでちゃんと"転換点"を見極められるようになっている。

例え、言葉にならない不確実に対する不安が、止めどなく無秩序に絡まりあっていくようであったとしても、

例え、どんなに自信や実感を伴いずらい、難しいものが、そこにあったとしても、

巡り巡った、色々な状況、心の動き、様々なものが重なり因となり、どうそこに至るのかまで含めた、かけがえない"ありのまま"の自分の心髄は、

今はまだ、深〜い所で、その形にならない大切な思いをたっぷりと凝縮させて、

いずれ、どこからともなくキラリと滴り落ちる、

そんな繊細なタイミングを、今でもずっと、静かに待ち続けているのだ。

"さて!!"
本当は分かったような、分からないような!?

でもこれが今回一番の、隠し秘めたる思いが詰まった部分!

それを次の動きを呼び込む、
気づきとして、
きっかけとして、
転換点として、

最後の最後は、やっぱり誤魔化さず、そして無理に当て嵌める事なく、

迫る中での、そこに備わるものや、湧いてくるものを、素直に滲み出るままに受けとってみよう。

鼻から大きく息を吸い込んで、
そして、背骨一つ一つに隙間を作るように。

執われている捻りは、自然と復元し、
軸を圧迫する力は解放され、

全身隅々に向かって、生命の鼓動が瑞々しく伝達していく。

・・形?響き?
何となくそこにはあるような気配・・。

・・a?u?m?
その僅かな気配が、更にまた別の気配を纏っている・・。

そろそろかな?
まだまだかな?

・・・。

"ドンドン!!"
"ドンドン!!"

時には、激しく打ち付ける太鼓のように

"ゴ〜ン・・"
"ゴ〜ン・・"

あるいは、遠くの方から聞こえる、厳かなる鐘の音のように、

それは、その時、その場所、その状況、人によっても、聞こえ方は千差万別。

残って拡がる余韻は、

近くも遠くも、
見上げる上も、俯く下も、

また、無秩序で、乱雑にかけ離れてるような、あれも、これも、どれも、それもを、

まるで、予め決まった場所へと、そのまま規則的に配置していくかのように、

最もシンプル、かつ根拠に満ちた、ありのままの本質として、いつでもその場の中に、優しく収めていってくれるのだ。

広がる景色は、鮮やかだけど、
でも包むものがなく、

視界は自由だけど、でも定まる所がなく、

最近、いつも聞こえてくるのは、耳障りで不快な音ばかり。

"ガチャガチャ、ガチャガチャ"
心のギアが、全く上手く切り替わらず、

"ギクシャク、ギクシャク"
踏み込むペダルも、どこかぎこちない。

やっぱり何か、おかしいのかな?
もしかしたら壊れてる?

実際には、それ程疲れている感じもないし、ここであえて止まるつもりもなく、

急な坂が続いていたり、大きな壁が立ちはだかっている事も、見渡せる限りにおいては一切無い。

それでも、漕いでも、漕いでも、中々得られぬものが、進むという実感と、そしてその確信。

考えても、考えても、出てくる面はどういう訳か、裏、裏、裏の連続ばかりであるし、本来なら表と裏で、ピタリと重なりあう小さな歯車達も、不安定に推移する歪なリズムに影響されて、上手く噛み合う事をしていかない。

それは、漕ぐ力が無いと言うより、どう漕いだらいいのかが、少し混乱してくるような感覚のもの。

右、左、右、左、ペダルを漕ぐ度、溢れてくる2つのものも、まるで錆びつくように、こびりついては、

"もう自分なんかこれでいいんだ・・"
"いや!まだまだこれでは駄目なんだ!"
とせめぎ合い、

いつまで経っても
転換する事なく、また始まる事もせず、

あげくの果てには、まだ残されている、かけがえないものまでを、いたずらに擦り減らして、そこから全く展開もしていかない。

最後に残っていくのは、ただの落書きみたいな乱雑模様だけ。

縦横、織りなされる事ない、その突きつけられた課題の絡まりは、解きほぐせぬまま、今一体何を顕しているのだろうか。

意味ある規則や秩序?
あるいは智慧の働きのような、奥深く秘められたもの?

目の前では、相変わらず、ガチャガチャ、ギクシャク終わらない攻防が続いているし、それに対し、何も出来ずに、そして何もやろうとせずに、過ぎ去るものを、ただ見送るばかりのような、不安な気持ちや焦る気持ちも、まるで錆びつように募っていく。

もし、答えを探して、求めて、ペダルを漕いでも漕いでも、追いつかずに、離れて取り残されてしまうような、そんな、もどかしい感覚が続くのならば、

時には、まるで漕いだペダルが一周して、また元へと戻っていくように、

そんな今だからこそ、乱雑に絡まり顕になった、今この目の前の課題、そのありのままの姿を、今一度時間をかけて、グルリと一周しながら、全体を通し眺めてみたって良いはずだ。

混迷を引き起こす原因も、
または、それを解決する糸口になるものも、

実は、それらはちゃんと、まるで1枚のコインのように、表裏一体、歯車として重なり合いながら、みんな同じ中心から一つの糸で繋がっている。

それが何なのか?
いや、それは何でもいい事。

何も無いように思う事であっても、ちゃんとそこにはあって、何も無いからこそ、またそこにはある。

例え、分からなくて、
例え、難しかったとしても

今見えているもの、今聞こえているもの、
今だからこそ感じとれている事、

それこそが今、耳を澄ませる事であり、
それこそが、じっと見つめていく事なのだから。

・・・。

「まだ、止まりたくない・・」
「まだ、手放したくない・・」

どうして?

「だって決めた事なのだから」
「だって大好きなのだから」

本当かな?

「まだ続けていたい!」

もう一押し!

「だってもう無駄にしたくはないのだから!!」

やっぱり、そうだ!!

小さな頃から、今に至るまでの自分自身。
いつもより少し視野を広げて見つめる、その自分自身の"ありのまま"から、浮かんでくる姿は何ですか?

嬉しかった事?楽しかった事?

いや悔しかったり、情けなかった事・・。

気づけば、
誰かに負けないように、
何かに屈しないようにと、

必要以上に肩に力が入り、ペダルを漕ぐのも、不自然に、強張りがちになってはいませんでしたか?

因みに、倒れそうになるものや、壊れそうになるものを維持する力は、もっともっと穏やかで優しくて、そして遍く浸透していくもの。

もし、どこかに噛み合わないものがあるのなら、必要なものを、自分で賢く見極め、そして選び取り、その生じるズレや隙間を少しずつ埋めてみよう。

鼻からフ〜っと、息を一つ、深く吐き出してみれば、

力みは自然と抜けて、
気付けば集中も促され、

まるで錆びた箇所に油が差さるように、動きは円滑な元の流れを、そのまま取り戻していくだろう。

それは、大切なものを擦り減らすような、強引なものではなく、それは過信でもないし、卑屈でもないし、見栄や、エゴでもない。

もし、ありのままが望ましいというのであれば、きっと、これが戦うようにせめぎ合う、2つの思いの真ん中にあり続ける、自分にとっての、ありのままの姿。

それを響かす為に、そして届ける為に、

"ガチャガチャ "
"ギクシャク ギクシャク"

例え、不器用な音を響かす事があったとしても、

"右、左、右、左"
"右、右、左?"
"左、左、右?"

例え、不規則にリズムが崩れる事があったとしても、

出来ない自分、
やらなかった自分、
やろうとしない自分、

そんな自分を手放し、
また、包み込んでていく為に、

足元のペダルは、これからも、そして変わらずにいつまでも、"この道"の上に、漕ぎ続けられていくのである。

ポトン。ポトン。
ポトン。ポトン。

濁りに染まった雫が、天から滴り落ちる。

大地はぬかるみ、熱の力は泥に埋まり、

風に乗る、残った煙が、
厚いベールとなって、また空へと広がっていく。

最後に残存するのは、
結局いつもの、小さな浮遊物。

突き刺す根は居場所を失い、
色も無く、
声も無く、
香りも無く、

細く、短く、また衰退していく。

さて、ここから翔ぶのか、翔ばないのか。

まるで、渦巻くように曲がりくねった迷路で彷徨い続けるように、

あなたは、
何度も、何度も、暗雲漂う空を下から覗き、

その背負った翼を、
前から後ろへ、上下、左右と、

開いて、閉じて、
また、開いて、閉じて、

羽ばたき、そして、それを躊躇うように、
繰り返し動かし続けている。

まるで奥歯でじっくり、何かを噛みしめ、そしてその味を確かめるように・・。

それは、昇ったものも、思わず上から下へと崩れ落ちていくかのような、とてつもなく苦くて、しょっぱい味。

ぶつかるような、大きな音を立て、

堅い一つのものさえ、
向こうと、こちらに分断させていく。

裂けた傷から、漏れ出していくもの。
妨げられて、失われる輝き。

秩序?原理?
それは抗うもの?
それとも、そのまま流れていってしまうもの?

正しい理解の欠如と共に、
また、心は揺らされていき、

緊張なのか、弛緩なのかもよく分からぬ渦が、グルグル、グルグル回り出していく。

頭が痛い。
目眩がする。
ご飯が美味しくない・・。

あなたにとって、夜はちゃんと、眠る為の時間になっていますか?
   
季節は今、梅雨真っ只中。
外の世界も、雨。雨。雨。
そしてまた、雨が降る。

過ぎ去るばかりの、お日様恋しい時間に、心の中に滴るものも、少し濁りの混ざった、苦くて、しょっぱい涙雨ばかりかもしれないけれど、

でも、天と地との間で、何かが巡り、流れていくというのは、ただ、ただ、そういう事であったりもする。

例えば、春夏秋冬、4つの季節の間に、12の"月"があり、その12の月の間に、365個の"日"があって、365個の"日"の間にある、沢山の分や秒の集まりその一つ一つにさえも、ちゃんと季節の巡りのようなバイオリズムがあると捉えてみれば、

そこにあるどんな要素もまた、まるで潮の満ち引きのように、行ったり来たりを繰り返す、そんな大きく波打つ"備わるリズム"を持っていたとしても、決しておかしい事ではない。

それこそ、上に行ったり、下に行ったり、
右に行ったり、左に行ったりもしていきながら。

もし、その動きに疲れて、それを痛みとして感じる程に、ぬかるみの中に陥っていると感じてしまうのであれば、

今は、動きを止めて、
そして軸の力を手放して、

まるで、甲(よろい)のように重たくなった羽根は一旦降ろして、自らゆっくり大地へと還っていく、

そんな少し怠けた時間があったとしても、

それもまた、私達が選び取る事の出来る、大切な自由の要素の一つとして、これからも巡り巡りながら、循環していくだろう。

そのまま膝を伸ばして、
フ〜っと肩の力を抜いて、
ゆっくり、大地へと身を預けてみよう。

そこにあるのは紛れもなく"母なる大地"。 

全ては認め、愛され、そして受け止められていく。

今度は、耳を澄まして聞いみよう。

"シトシト"
"シトシト"。

雨音の余韻が、開いた指先から、あなたを労わるように浸透していく。

まるで"父なる空"が、
あなたと一緒に、泣いてくれているように。

・・・。
・・・。

何だか、少し瞼が重たくなってきて、
眉間の辺りに、トロ〜ンと温かいものが広がるような、不思議な感覚。

それは、両目の周りを、優しく包み、
やがて鼻の奥から、頬全体へと広がっていき、

口の中を通って、

ゆっくりと喉を潤しながら、

最後に、胸の奥の方へとスーッと溶けこんでいく。

・・・。
・・・。
ポツン・・。
ポツン・・・。
 
どこからともなく、また雫が落ちる。

"あ〜ここにあったんだ"
何となくそんな感覚も湧いてきて、

懐かしい気持ちや、安心した気持ちが、爽やかな風のように吹きこんでくる。

その雫は、甘くて、豊潤で、
心の中をたっぷりと満たしてくれるもの。

喉の奥から、その味覚が拡がって、今度は鼻の穴からフワ〜っと幸せな香りが抜けていくと、瞼の奥に、彩り豊かなお花畑が広がりゆく。

その中心にあるのは、赤い三角?黄色い四角?

花びらが1枚、2枚、3枚、4枚、どれもが楽しそうに踊っていて、

じっくり眺めているだけで、根っこの部分に、精気が戻ってくる。

今は、厚い雲のベールに覆われ、それがどこにあるのか、探し見つける事が、難しい状況なのかもしれないけれど、

でも、まるで雨のち晴れで、そこに綺麗な虹のアーチが架かっていくように、

新たに内から漲る力が、まるで、ぶつかるように離れていった、幾多の内なる自分と繋がる(yuj)為の、色鮮やかな"架け橋"となっていく。

きっと、曲がりくねった道の途中、
2つの思いは、必ずどこかでまた交わり合う。

時に傷つけ、傷つきあいながらも、
常に、補い、そして支えあっていきながら、

決して支配する事なく、
また、支配される事もなく、

それは、決して滅する事のない、
自分にとっての大切な"居場所"を知っているかのように。

例え、降りしきる雨に、お疲れ気味な所があったとしても、

いつまでも、羽根を広げて羽ばたく事に、躊躇い続ける必要は無い。

何故なら、それら皆んな、天と地との間の、
ただ、それだけの事なのだから。


行き届かぬ思いは滞り、

それが、あとから痛み(Dukkha)となって追いかけてくる。

留まるものは、そこから離れ、
支えとなる軸の力が、内から外へと散り去りながら、
 
抗う者の、風の流れは止まり、
逆らう者の、光が遮られていく。

迷いこんだ逃げ道のような、風も陽も何も当たらぬその場所は、

少し息苦しく、また少し窮屈でもあり、

内に潜んだ"種"が、

風の感触へと、また陽の温もりへと向かって、ごく自然な事として、芽を出していく。 

それは、まるで眩しい陽の光の世界に、まだ少し瞼の重い、閉じた自身の"眼"を馴染ます、ようやく前に踏み出す"弱気の一歩"。

長い長い時間をかけた割には、なんだかとても小さい範囲のようだし、

また、覚悟を持って気持ちを込めた割には、動きも遅いし力強くもないのだけれど、

後ろを見たり、周りを気にする事から離れた中で、内なる自分の思いの下、確かに前に進む事が出来たもの。

心の中で、その一歩を噛みしめ、そして、たっぷりと味わっていく。

時々、その僅かな合間の、かすかな余韻の中で、

そこから何かをしようと進み始めた、今の、あなたの足を引っ張りながら、

そこまで、何もしてこなかった自分自身が、心の隙間に付け入り、こう声を掛けてくる。

"やっぱり自分なんか"
"分かってるんだけど"

"でも、でも、でも・・"

それは、いつもいつも自信が無くて、
ついつい下を向いてしまいがちな、あなたにとっての、少し言い訳混じりに枝葉のついた、心の叫びのようなもの。

頭の中では、これから自分がどんな風に進んでいこうか、遊び心を持って自在に枝葉を伸ばし、彩り豊かにそれを想像していく事も出来るのだけれど、

気づけば、踊るようになびく、周りの枝葉の動きにつられて、自分のバランス感覚を見失い、

そこに付いた、赤、白、黄色、鮮やかに映える花の姿に、すっかり色彩感覚を狂わしていく。

頭の中で描いた、未来の自分は、まるで色味の無い枯れ草姿・・。

あなたはそれを、不自由で物足りない想像だと考えますか?

なんてつまらないものなのだろうと、見極めてしまいますか?

始まっては終わり、また、進んでは帰っていく事を繰り返す、そんな不安定な私達の住むこの世界においては、

"これが正解である!"
と言われているものでさえ

まるで、名も無きものの名前や、姿無きものの形を探し続けるように、

幾度となく、いとも容易く流転していくもの。

巷に溢れる自由な言葉に、
これをやってみたい!!
あれもやってみたい!!と、
自分の気持ちが高ぶるように踊り出す事もあれば、

逆に、
何をしたらいいんだろう?
これはしたら駄目なのかな?と、
気持ちがグラグラ、踊らされてしまう事も沢山あって、

まるで、先行き見えない不安や、
尽きないストレスが抑えつけるように、

頭で描いた枝葉は、綺麗に真っ直ぐ伸ばす事も、それを器用に表現していくのも、また難しい事になる。

そこに居る人の数だけ、そこで営まれている生活の数だけ、そこにある思いの数々が、どんな形で生長し続け、そこにどんな蕾がつくのかなんて、決して分かる事ではないし、

時には厳しく、また時には冷い世間の風に、右へ左へ揺らされながら、

それらに抗う事や、逆らい続ける事に追われてしまう事も多いのだけれど、

でも、でも、でも!!

まるで湧き起こる泉のような、
そんな思いも、そのまま受け止めながら、

自分の為に、また誰かの為にと、ありのままに、その枝葉を伸ばしていく事が出来たのなら、 

そこから響く、心の叫びは、 

例え、それが遠くの方から、微かに聞こえる小さな声であったとして、

例え、それが通りすがりに送る、ただの眼差しであったとしても、

自分にとって"大切な声"として、 
また、誰かにとっての"必要な眼差し"として、

二転三転しながらでも、やがて辿り着く場所へと辿り着いていく。

その固く握り締めた拳のように、あなたが、そこから流れまいと、頑なに執着し、掴み続けているものは何ですか?

震える身体、瞳から溢れ出るもの、

それは、心配だから?怖いから?心細いから?

まずは、鼻からゆっくりと息を吐きだし、
肩の力を抜いてみてごらん。

そして、深く呼吸を味わうように、握った拳を、優しく手放すように開いてみてごらん。

それは今この瞬間、何かが突然どうこうなる事もなく、

それは今この瞬間、自分の思いで簡単に制御(Nirodha)の出来る、

それは今この瞬間、とても安心(Sukha)できる事だから。

開いた手の平へと流れるものや、
そして隅々まで、辿り着いていくものが何なのか、

繊細な気持ちを持ったあなたなら、きっと分かるはず。

思う存分、それを解放(mukta)してみよう。
ありのままに、その風(pawan)に乗ってみよう。

厳しいだけじゃないもの。
冷たいだけじゃないもの。

曲がりくねった枝葉に、どんな蕾が成るのか、陽の光に慣れて、前より少し開いた、その"眼"でよく観てみよう。

どんな色?
どんな香り?
どんな形が観えてきますか?

離れたものは戻り、
根はまた少し深まりながら、

まるで囁くように描く、その優しい彩りは、

そこに至る、弱気な気持ちも、
そこに生じる、期待も不安も、喜びも悲しみも、

そして、湧き起こる、叫びのような、あなたの"心の声"も、

これからは、その一つ一つを"確かな一歩"としての、軸の力へと変えていき、これからも、そしてどこまでも、それらはきっと繋がっていく(yuj)。

"抗うことなく、自分らしく"

伸ばした根の先、もう一つ深い所から、その意味を汲み取る事が出来たのならば、

あなたの痛み(Dukkha)も"暫く"は、
あなたを追ってくる事はしないだろう。


進んでいく者と、そこに縛られ続ける者。

まるで、左に見える明るいものが、抱えた弱さに溺れる、卑屈な自分の姿を明らかにし、

また、右に見える暗いものが、自分が自分として、そこに在る為に必要な、信じる力に陰りを与えていくかのように、

私達は時に、そのどちらを見ても、また、どちらも見ようとはしなくても、例えそれが光であろうが、闇であろうが関係はなく、そこにあるもの全てを、自分にとっての驚異として、不都合な解釈をしてしまう事がある。

それは、何も出来ない事が悔しくて、
また、何もしようとしない事が情けなくて仕方がない、その時の自分にとって、

常に、感謝の気持ちとして、その現実を受け入れ、また見極めたつもりなる、自分で自分を守る為に必要な、都合の良い心の働きのようなものなのかもしれないが、

しかし、それはまるで大きな氷山の一角のように、

ほんの少し、表に顔を出した部分を、自分の全てと思い気持ちを装い続ける、少し冷めた自分自身と、

また、その奥底深く、漲る熱(tapas)を備えた、本来的な自分自身とが、激しく"衝突"し合うかのような、破壊的なエネルギーの一つでもあり、

そこにはまた、まるで藪に眠る蛇が、わざわざ突き起こされるような、どこか噛み合わない矛盾めいたものを抱える、納得しきれない自分の存在がある。

本当にこのままでいいのだと、心の奥底から、末端まで、隅々思う事は出来ていますか?

本当はもっと、胸を張って、自分らしく、そして力強く、そこに在りたいと思っているのではないですか?

もしあなたが今、繰り返される自問自答の中で、

土台となる肥やしを築く事や、柱となる根を伸ばす事、それら生長に必要な"地力(自力)"を蓄える事を疎かにしてまで、

周りの動きが気になり、
他と比べる事をやめられず、

いつまで経っても、掘った穴をまた埋め直すように、ただ痛めつけるだけの無意味な作業に、執われ続けていくのであれば、

例え今、平等に、かけがえなく誰もが受け取る事の出来る、豊かな"恵"がそこにあったとしても、

例え今、その恵から、唯一無二の、あなたという素敵な"芽"を出す可能性が、あったとしても、

まるで、土の中に取り残された、腐った一粒の小さな種のように、

あなたは、それに気付く事もなく、
そして、誰に気づかれる事もなく
 
遂には、まだ充分な可能性として残されているかもしれない、"本当の自由"を実らすことさえ、自らの意志と選択で、手放していってしまう事になる。

自分の望む人生とは何なのか?
掴みたいものとは何なのか?
また、今掴めるもの、そして手放すものは何なのか?

私達が住むこのフィールドでは、極めて広大であるが故に、常に自分の意志で、どの道を選び、どう進んでいくのかを判断し、そして決断していく、その難しさが、"自由"の中に潜む"不自由"のように常に付き纏う。

時には、自分には本当に、自由な選択肢があるのか無いのか、それすら、分からなくなる事もあるし・・、

あるいは、自分は既に、選択するべき時を誤り、後戻り出来ないような状況にまで陥っているのではないのかと、不安で怖い気持ちに襲われる事もあるし・・

それは、まるで刈っても刈っても、しつこく生える雑草のように、

整えて整えても、簡単に覆される、厄介なパターン化された癖(Samskara)のようなものでもあるので、

例えば、向きを変えたり、
回数を調整したり、

簡単に身体の動きを操るようにして、たやすく制御が出来るものではない。

しかし、それでも同じ学びの中で、等しく説かれている事を追求すると、そこにはまた、"希望"を持って、一つ言える事も見えてくる。

宿命論?決定論?
頭の中で、また余計な渦を生み出しそうな、少し難しい話は、一旦手放して・・、

何を考える為に、何に気がつく為に、今の学びがあるのかを、原点に戻りながら、シンプルに、もう一度よく考え、もう一度それらをよく見つめ直してみよう。

今この瞬間の、不安や、恐れも、葛藤も、もし、それらを偽らず、ありのまま、その学びに変えて積み重ねる事が出来た先、

やがて2極の対立したものに害されない、ある原則に沿った(アーサナ3原則より)中道としての、"この道"に辿り着いたとするならば、

そこでは、その厄介な癖を含めた、そこで感じ取る事の出来る、喜びや憂い等の、表裏を行ったり来たりする葛藤や迷い、その全ての要素は、

まるで風に吹かれてなびく稲穂のように、

砂塵を巻き上げ、吹きつける強風さえものともしない、"願望、信念、愛情、情熱、希望"に満ちた、"生命の智"一粒一粒を、この広大なるフィールド溢れんばかりに展開していく事になる。

その"重々帝網"重なり合う、
無数の繋がり(yuj=yoga)においては、

例え、その場に取り残されているような寂しさ、焦りに縛られていても、

例え、その場から後戻り出来ないような、後悔に執われていたとしても、

まるで、優しく穏やかな、温かい感覚が(Shanti)、胸の中心から、身近なものへと、そして遥か彼方へと、少しずつ、少しずつ響き渡っていくように、

決して衝突をする事無く(anahata)
また、激しい音(nada)を立てるでもなく、

全ての響きは、生かし、分かち合う、一つの調和されたものとして、奏でられていく(anahata nada)。

それらは、あえて、自由の名のもと、さらけ出していく事ではないけれど、

あえて不自由に抑えつけようとする事でもなく、

それらは、時に苦しい事かもしれないけれど、

でもそれらは、醍醐味や深みとして、表裏一体、大切な事とも繋がっていて、

それは、そう思えない矛盾を感じる事かもしれないけれど、

でもそう言い聞かせながら、少しずつ前向きに転換していってくれる、

何ものにも縛られる事のない、人生における、"究極なる自由の境地(samadhi)"だと言えるのだ。