もうそんな気持ちも、湧いてこないと俯く位に、果たして、どれだけ多くの時間が過ぎたと言えるのだろうか・・。

もうそんな気持ちも、忘れてしまったと嘆ける位に、そもそも、それ程に、自分を満たすものがあったと言えるのだろうか・・。

普段はそんな事も、特に考える必要もなく、
常に、何かが当たり前にそこにあるような感覚の中で、日々生活をしていると、私達は、本来それが、常に生じては、はかなく滅するような、姿、形あって、姿、形ないようなものであるという、物事に備わった本当の意味での"当たり前"の事も、よく見通す事が出来なくなる。

それが、あなたの"癖(samskara)"なのか、どうなのか、

自ら備わる、そのかけがえない自由を放棄してまで、

そこに何の流れもないのに、
一体何に抗い、

そこに何の形もないのに
一体何と比べて、

あなたは、
一体、無理して何をそこに当て嵌め、
無理してそこで、何を見いだし、

あなたは一体、何に悔やんで、
何に不安を抱き、

あなたは一体、何に憂いて、
何を恐れていくのですか。

全ては、あなた自身の判断で、あなた自身が選びとってきた事でもあるが故に、

そのあるがままを、受け入れ、明らかに見極めたつもりになり、それら、思うがままに味わい尽くしているつもりに、ならざるを得ない、受け入れるべき現実がそこにはあるが、

実際、少し冷静になって、
周りと比べ、

過去を振り向き、
未来の自分を展望すると、

そもそも、そこには、味も匂いも、何の彩りさえも、どこにもなく、

ただ何も無いだけの、無駄な時間の流れの中で、虚しく、寂しく、何も無いものを、ただ一人で見送るような、そんな切ない、哀れな気持ちが襲ってくる。

本当は、心の中に、苦しい気持ちが募り続けているのではないですか?

本当は、状況が圧迫され続けているのではないですか?

あなたは、それでもなお、それらを一つの過程と信じ歩み続ける中で、

とにかく何かが、色や形や自分の響きとなって、とにかく誰かに何かが届いて欲しいと偏る事を止められず、

まるで、自らそこで躓き、
まるで、自らそこで傷つき
まるで、自らそこに痛みを感じに向かっていくかのように、

まるで自ら、そこに血や涙の跡を、残していこうとするのだけれども、

結局それでは、何が何の響きとなる事もなければ、

結局、あなたは、これまで整え続けた、その全ての事まで含めて、迷い、彷徨い、貧しさを抱える、いつもの"我"へと帰っていく。

もちろん、そこから、何かが始まり、何かが終わりに向かう過程もあって、その全てが、決して欠く事ない、遍く要素の一つである事は間違いないし、

また、物質的にも、精神的にも貧しいあなたにとっては、何も無い事の不安や、どこに何も残っていない事の恐怖感は、常に付き纏うものでもあるので、

これもまた当たり前のように、それらを払拭しようと、焦りに駆られる事もあるかもしれないけれど、

それでもやはり、自ら、大きく道を外して、偏り続け、本来のあなたとは違う、偽るあなたの姿を、わざわざ無理して"痛み(Dukka)"に耐える事までして、不自然な形として不本意に響かしていく必要は、今ここには無いはずだ。

もし、それらの事が、頭ではよく分かっていながらにして、考えれば、考える程、更なる不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費しながら自らを疲弊させてしまうのであれば、

まずは、頭の中で
ややこしく考える事は、一休みにして、

まずは、正しく自身の坐法を選びとり、
まずは、正しくそれらを大地に根付かせ、
まずは、正しく背筋をスッと上へと伸ばし、

よく耳を澄ませて、
よく心を開いて、

まずは、そこで、あなたに宿る"自然な呼吸(生命の源)"を見つめて欲しい。

それは、もしかしたら
誰に認められる事もなく、
誰に評価をされる事もなく、
誰に何も届かぬままの、色も形も存在しない、無意味な響きのようなものに感じるかもしれないけれど、

例えば、飢えているなら、食物を、
寒さに震えているなら、衣服を施すように、

自然な呼吸という、生きる上で当たり前だけど、決して当たり前ではない、そういう生き物に備わる、根源的な生命の営みを通し世界を見つめてみると、

本来的な"生命"の在り方とはどういうものかを、痛みのない無形の形として考える、そのきっかけが私達に与えられる。

私達が本当に手放していく事は何なのか、
私達が本当に得ていくべきものは何なのか、

本当の豊かさ?
本当の価値?
本当の繋がり?
本当の平和?
本当の幸せ?

なすすべない嵐のような驚異的な出来事が、どうにもならない位に、吹き荒れ続ける今だからこそ、 

私も、あなたも、それ以外の沢山の人達皆が、隔たりなく、等しく、危い可能性を含んだ、儚い生命の中に暮らしているという、当たり前の事を見つめ直し、

出口が見えないなら、
また、入り口まで引き返していくように、

今自分にとって必要なものや、
大切なものを、

今あの人にとって必要なものや、
大切なものを、

もっと、もっと自然に、
もっと、もっとあるがままに、

そこに備わるものとして、
そこに溢れるものとして、

過去の歴史や、
未来の予測なんかではない、
紛れもない"今この瞬間"の現実として、

もっと、もっと、
それらを"賢く"見極めていって欲しい。

何も無いと感じる、今だからこそ見えるその"満たされた景色"は、きっと、今なお、何も見えないと思いこんでいる、その闇の中にだって灯っている

きっとイライラする事もあるし、
不安が募る事もあるし、
容赦ない現実は、差し迫ってくるばかりかもしれないけれども、

それでも、
儚い要素は、まるで金剛の如く確固たるものへと転換し、

危うい要素は、まるで母胎の如く包み込むような安心感へと転換していく事、

それこそ、まさに、"YOGA is LIFE"の教えなのだから、

自分を励ます為に、他に寄り添う為に、

何も無いと感じる、
何も残っていないと感じる今だからこそ、

一人一人が、かけがえないこの繋がり(yuj=yoga)の中で、共に分かち、生かし合っていくような、そんな優しい自分の"言の葉"を紡いでいく時なのではないだろうか。


時々起こる、どうにもならない事や、どうにかしようとする、気力が追いついていかない事。

何となく焦りのような気持ちの中で、無理矢理にでも、何かを見出す事に、あがいているつもりではあるのだけれども、

結局なす術ないと感じてしまう力の前では、それらは儚く、脆く、また無力であり続けてしまう。

思いの波動は、虚しくかき消え、
祈りは全く形にならず、

行き場を失くした、行き届かぬものは、やがて、疑い、迷いの渦となり、あなたが縋る、遠くの方で、小さく揺らぐ灯火さえも、あっという間に、無残に消し去っていく。

これが、宿命というものなのであろうか?
抗う事は、全く出来ないのであろうか?

その本質的な意味も、まだあまりよく分かっていないにも関わらず、一丁前にそんな小難しい事ばかりを考えながら、いつになっても、"答えが見つからない"事から抜け出せない、あなたの学びは、

何か理性を超えた所で、結局Yoga is Lifeとは、全く逆の所へ、向かっているように感じてしまう。

東西南北、何処から来て、何処へと向かっているかも分からぬ、ただ暗くて狭いその空間で、

あなたは、心の中で、
離れ続け続けているものや、増し続けているものが、

それらが何で、何の意味があり、
そこから何を学び、どう活かしていくのか等、

未だ結局、根本的には、何一つとして、明らかにする事は出来ていない。

時には、もがき、あがき、ただその事に追われているだけの、あなたのその姿、あり方を見て、

何も考えていない、自由に欠けた、悲しい生き方をしている人だと、誠に浅はかな解釈の下に、少し見下すように、判断する人もいて、

例え、あなたが真摯に向き合い、
例え、あなたが必死になって考え続け、

例え、あなたにどんなに力強く、大きく広く、深いものが含まれていたとしても、

かけがえない、あなたらしさが、本来のものとは違った形で捉えられてしまう事もある。

本当は、悔しい気持ちもあるのではないですか?

本当は、心の中に、認められたい、本来の自分らしさが潜んでいるのではないですか?

確かにあなたは、上手に器用に振る舞いながら、賢く生きていく事を苦手とし、誰よりも、弱気で、心配性で、臆病で、泣き虫で、人間的にも未熟な所も多く、意図せず、人に嫌な気持ちを与えてしまったり、迷惑をかけてしまう事もあるのだけれども、

それでも、今あなたが感じる、辛さや、不安や、寂しさや、恐怖、もどかしさといった、あなたが"苦しい"と感じる気持ちの数々は、

決して全て、"あなたが悪い"という事ばかりではなくて、それはそれで、都合の良い浅はかな解釈なのかもしれないけれど、だからといって、断じてあなた自身が、根本的な深い所で、人としての大切な"豊かさ"を欠いているという事ではない。

自分に対し、どうしても自信が持てなくて、
申し訳無い気持ちが離れず、自分を責めてしまう事が続くのなら、

例え志を、高く掲げられなかったとしても、
例え夢や目標に、上手く向かう事が出来なかったとしても、

それなら、それで充分でもあって、

少しだけ、肩の力を抜いて、
少しだけ、素直な気持ちになって、
不安に思う事なく、少しだけ、人にも頼っていきながら、

今まさに、"あるがまま"に生きられていない自分の事を、どうか"ありのまま"に尊重し、今この瞬間、そのあるがままの時間を、"思うがまま"に味わい尽くして欲しい。

誰にとっても、
もっと自由に生きたい、
もっと成長したい、
もっと幸せになりたいと願う事は、

それは意図して、意気込む事をしなくても、それは無理して、言い聞かせる事をしなくても、人が生き物として本能的に"備えている"ものでもあり、

ありとあらゆる生き物、植物含め、生命あるものとして、この世に産まれたものが、自ら衰退する事を目的にして、自ら不幸になる事を目指し生きているとは、考にくい事と同様に、

例えあなたが、今どんな様子で、
どんな状況のもと、どんな生活をしていたとしても、

あなたが、あなたなりに、自由や、成長に向かう為の、足掻きや、もがきとして、懸命に"生命"を全うしようとしている事は、まだまだ、閉ざされ気味の私の眼にも、しっかり捉える事が出来ている。

もし、あなたが、自分自身の"眼"により、その備わる"生命のリズム"に気がつく事が出来、そこで、新たな自己の姿を捉え直していく事が出来たのなら、

そこにはまた、新たな炎の揺らぎが一つ、遠くの方で、小さく揺らぎ始める事であろう。

この前より少し近づいて、
この前より少し大きくて、

また、何かあったら、すぐ消えてしまいそうな、儚さではあるのだけれども、

何度も、何度も、
創造、維持、破壊のサイクルを繰り返す中、

その炎は、少しずつ大きく、
少しづつ明確になり、

いずれ、あなたの過去、現在、未来を含めた道のりその全体を、はっきりと照らし出していきながら、これまでも、今も、そしてこれからも、あなたが進むその道が、紛れもなく"Yoga is Life"である事を示してくれる。

例え、暗くて行き先がよく分からなかったとしても、
例え、暗くて足元がよく見えなかったとしても、

思う存分迷い、思う存分躓く位の気持ちで良いので、

なすすべない、
今だからこそ、本当に学ぶべき大切なことを味わい尽くし、

どうにもならない、
今だからこそ、その学んだ知恵の一つ一つを、いざ智慧の力へ転換し、

あなたがあなたとして、自信が無い事にも、自信を持ちながら、安心して、その学びの道を歩み続けていけば良いのである。


大したあてもなく、
その場凌ぎで、どこに辿り着く事もなく、

いつまでも、終わりが無い"無いもの探し"に漂流するあなたは、

まるで、
認めるべき事を遠ざけ、
見るべきものから視線を背け、
在るべき場所から退くように、

結局また陥るように、同じ深みの中へと沈んでいく。
 
それは、
必要以上に何かを欲する事とも、
必要以上に何かを貪る事とも、違うのだけれども、

何をしても嬉しくないし、何を見ても楽しくないし、

あれも恐くて、これも不安で、
自分なんか誰の役にも立たず、
自分なんか何をしても駄目なんだと、

大きな、重苦しい"貧しい気持ち"となって、あなたの視野を、際限なく偏らせていく。

本来なら、そこにも
楽しい事や、嬉しい事、

あるいは、あなたにとって、必要かつ大切で、あなたにとって、何よりもかけがえないものが、遍く広がっているにも関わらず、

 "貧しい"自分に溺れるあなたは、
右も左も、真ん中も、何千何万、細かい網目のような、そこにある限りに広がる経路を自ら堰き止め、

本来そこから流れ、そこへと巡る、正しく循環するべきものを停滞させていくかのように、輝く本来的な、その"満たされた景色"を、自らよく観ようとはしていかない。

吸い込む力は、細く短く、
呼び込む力は、惰性の如く。

主要な渦が力を失い、
風に躍る千の花びら達が、上から下へ、一枚、また一枚と、息を引きとるように枯れて散りゆくなか、

醜い自分に迷い、愚かな自分に溺れ、まるで腐りかけの流木のように、何を燃やす事なく漂流し続ける、あなたのその瞳の中には、

今この瞬間、そこに広がる大海原は、一体どんな景色として、写っているのであろうか。

例えそれが、どんなに美しく純粋で、
例えそれが、どんなに私達を平等に照らしていくものであったとしても、

あなたが、
"金輪際こんな思いは二度としたくはない"
と、

これからも、いつまでも、卑屈で、貧しい気持ちに延々執着し続けていくのであれば、

そこには、味わい尽くせるだけの喜怒哀楽を見出す事や、ダイヤのような、固い意志と決意を芽生えさせる事はなく、

一人誰もいない海原で、今抱えるその痛みを、誰かの為にと役立たせていく事も出来ない中、

それらは、ただ重くて、暗い、
"何も無い世界"として、

何かが終わりに向かい、
何かが始まる事もなければ、

あなたから何かを響かせ、
誰かに何かを届け、  

かけがえない、
大切な存在と繋がっていく(yuj)事も、やはり難しい事になる。

本当は、その重くて暗い世界に怯えているのではないですか?

本当は、何も無い世界に、寂しさが募っているのではないですか?

もし、あなたが今、陥る深みの世界の中で、緊急的に狭く圧迫されて、苦しんでいるというのであれば、

取り敢えず、
何かを深く考えようとせず、
どこかを無理に目指そうとせず、

穏やかな気持ちが、優しい波紋のように、自然と広がっていくのを、そこで漂流しながら、静かに待ち続けてみる事も、長い目で見れば、間違いなく大切な時間になっていくとは思うし、

何が縁や因となり、何が結果となっていくのかも、今この瞬間、あなたに顕現されているものだけには収まらない、過去、現在、未来を含めて潜在された、ありとあらゆる微細な要素が、複雑多様に関わり合う中での顕れであったりするもので、

何となく漂流しながら、偶然何か潮の流れに乗って、偶然何処かの岸辺に辿り着き、偶然誰かに拾われ、偶然誰かの役に立つ可能性があったとしても、決して不思議な事ではないと思う。

それでも、もし漂流を続ける過程の中で、我気づく故に、自然に無理なく、乱れた気持ちが落ち着き、少し冷静になって、物事を考える事が出来そうであるならば、

その限られた時間、
残された時間、
誰にとっても二度とは帰らぬ時間の中で

時には、自ら陸へと上がり、多少の勇気を持ち、いつもより少し強気な気持ちで"弱気の一歩"を踏み出して、

今度こそ、次は必ず、絶対にと、
願いを込め、希望も込めて、

こうありたい自分、こうしたい自分のようなものに向かうつもりで、内なる意志と決意を旗上げしたとしても、

その程度の欲張り位なら、決して何かを必要以上に"貪る"事にはならないだろう。

そこにしかない、
貴重な経験、貴重な学び、
唯一無二のかけがえないものが、

いつ、どこに居て、どんな状況で、どんな生活をしていても、必ず見つけていく事が出来るというのは、 

決して、有限、無限、物質、精神、そういう、頭で学んだ単語に縛られていくものでは無い。

例えそれが、尽きる事がないものだとしても、
例えそれが、私達を悩ます種になるものであったとしても

そこから視線を背け、自らそこから遠のき、
いつまでも、何処までも、極端に受け入れ(inclusive)ようとしないのであれば、

それらは、決して満たされる事のない"貧しさ"として、
それらは、決して終わる事の無い"漂流"として

これからもあなたの事を、無限の深みの世界へと、沈み込ませていってしまう。

目の前に広がる、何も無いからこその"無限の充実"は、まだまだ、学び始めの未熟なあなたにとっては、

迷子になる程難しく、漂流する程広すぎる、
少し背伸びをした世界でもあり

例え、迷子の末に、
例え、漂流の末に、
例え、姿、形、限りある、物質的な豊かさに辿り着いたとしても、

それはそれで、今あなたにとっての、適切な学びの段階だと言えるのではないだろうか。
あなたが、
瞳の奥に隠し
瞳の奥に眠らし、
瞳の先で訴えかけようとしているもの、

それが何なのか、
それが何処にあるのか、
それでどうしていきたいのか、

通りすがりの私には、それが何か、まだ具体的に、はっきりと分からない事も多いのだけれども、

狭くて暗い箱の隅のような所で、今にも泣き出しそうな、あなたのその瞳を見ていると、

私達が考える当然の事以上に、
振り返りたくない事や、
思い出したくない事、

あなたにとって、あまり本意ではないと感じられた事が、まるで溢れる涙のように、その瞳の中の景色として、沢山存在してきたのだろうという事が、何となく想像させられる。

時に、人に呆れ、うんざりされて、
自分の視線が不意に誰かを嫌な気持ちにさせてしまったり、

また、相手の自分を見る眼差しが、何か心を突き刺さす痛みのように感じ、必要以上に相手の眼線を気にしすぎてしまったり、

そんな自分に対し、心の中が、悔しさや、情けなさ、申し訳無い気持ちで一杯になり、それが涙として溢れ、いつまでも、いつまでも、抑えきれずに止まらなくなってしまったり・・。

それらは、誰にでもよくある、ごくごく自然な事でもあって、気持ちが次第と塞いでくれば、なるべく一人でいられる、どこか暗くて、小さい箱の中身のような所の方が、自分にとって居心地良く、安心して過ごしやすいと感じる事も当然あるであろう。

しかし、まるでそれらを、必要以上の範囲で、自分のトラウマのように心に深く刻み込み、もう何も見たくはないし、記憶ごと全て無かった事に・・と、極端に思考を偏らせ、せっかく開いた自身の瞼を、わざわざ閉じてまで、記憶も新しい景色もない、暗黙の世界に居続けようとする事が、果たして、それがあなたにとって本当に自然な事と言えるのだろうか。

本当はもっともっと、その眼で見たいと思う事があるのではないですか?

本当はもっともっと、その眼で見てきた事として、伝えたい事があるのではないですか?

本当はそれが、不自然な事であると感じているのではないですか?

それは、あなたが意図したものでもなく、またあなた自身も、実は気がついていない事なのかもしれないけれど、

まるで、多種多様この世の生き物、植物達が、個に備わる唯一無二の生命のリズムを、"生きる"というその最も純粋な営みへと凝縮させて、言葉なき声、音なき響きに乗せて、縦横無尽に躍動させていくように、

あなたがそこで、どんなに塞ぎ込み、どんなに口をつぐみ、どんなに覆って、どんなに抑えこんでいようとも、

あなたが、その眼で見続けてきたであろう、人間の喜びや、楽しさ、嬉しさ、優しさ、

あるいは、楽しいや、嬉しいばかりでない、幾つもの、悲しみに、怒りに、寂しさに、矛盾や、不合理、不条理、怠けも、愚かも、誠実も、不誠実も含め、

四方八方、
それら、ありとあらゆる正しい事から、
ありとあらゆる正しくない事まで、あなたにとっての"生きる"という事に関わってきた営み、その要素の全てが、

今この瞬間、あなたのその、瞳の姿、在り方へと凝縮されて、まるで余韻として滲み出るかのように、遠くを見つめる眼差として顕されている。

それは、決して具体的で、
決してはっきりしたものではないけれど

時にそれは、音や文字や言葉や色や形で表現される事よりも、より真っ直ぐ、より正直に、深甚なるあなたの心模様を象徴し、まるで色とりどり、艶やかに舞い踊る花弁の渦へと吸い込まれていくように、あなたを見つめる者の心は、その中心へと、そして一つのものへと、融通無碍に融け合いながら惹きこまれていく。

あなたの瞳は、決して大きな声で自分の名前を叫ぶ訳でもないし、決して自分の姿を必要以上に大きく見せようとしている訳でもなく、一見すれば、極めて受動的且つ、物足りなく、積極的でないように思わせるのだが、 

一方、何か広くて大きい永遠的な力で、遠くの方から、ありとあらゆるものを全て見通し、包みこむような、おおらかで優しい気品を兼ね備え、それがまた、あなたの憐みや、慈しみ、即ち慈悲なる心としての、受容的要素へと転換されている。

あなたに、惹きつけられる者の多くが、あなたと同じように、どこか危うい、生き方、人生、不安や物寂しさを抱えている事が多いのも、きっとあなたが、そのどこが受容的で、優しく包み込むような瞳の中に、自分の人生だけでなく、多くの人の辛さや悲しみを、何の濁りもないまま純粋に、こぼすことなく、漏らす事なく、受け取り、映しとってくれているからなのであろう。

例えその眼差しが、虚空彷徨うような、虚ろなものであったとしても、

例えそこが今、思い出したくない事や、振り返りたくない事から、隠れようとしている小さな箱の隅であったとしても、

例え、その瞳の中に、溢れる涙を溜め混んでいたとしても・・、

あなたのその、珠玉の如く輝く、唯一無二の瞳の有り様は、決して誰かを真似して出来るものでもなければ、また、あなた以外の誰かが、見よう見真似で、絶対に真似をする事など出来ないものである。

あなただから、見る事が出来たもの、
あなただから、見通していく事が出来るもの

そこから生まれる、瞳に宿る思いの波動は、

だからこそ響き
だからこそ届き
だからこそ躍動するものとして、

小さな箱の向こうの、通りすがりの人間なんか優に超え、

"虚ろな眼差し"として、どこまでも、どこまでも、遙かなる無限の範囲へと、力強く響き渡っていくのである。


もし、あなたが今いるその場所で、

誰かと比べた方が、上手く循環しそうな事さえ、そういうものだと都合よく解釈し、

原理に反するような、抗わなければならない事さえ無理して受け止めて、

必要最低限、そこにあってもいい欲まで欲張りだとして抑えこみながら、

目の前に広がるその光景に対し、自分がそれを望み、求め、自由の中で決断した事なのだと、胸を張って言い切る事が出来るのなら、

あなたは、
思う存分そのままずっとそこで俯き、
思う存分そこで、泣いていてもいいだろう。

無理して顔をあげる必要や
無理して笑顔を作る必要もないし、

涙を流し続けて、そのまま干からびるように蒸発しようが、俯向くあなたが大地に沈んでいくかのように消滅しても、

それら皆、あなた自身の問題にしか過ぎないのだから、正直、誰が困る訳でも、誰が迷惑するわけでも、そこで誰に恨まれ、誰に妬まれる事もないはずだ。

それは、ある意味では安心で、
それは、ある意味ではあなたにとって充実なのかもしれないけれど、

しかし、それと同時に、
恐らくそこでは、誰かに喜んでもらう事もなければ、誰かの役に立つ事もなく、誰かに悲しんでもらうという事もない。

本当は、寂しい気持ちを感じているのではありませんか?

本当は、心残りとして、何か悔やまれる事があるのでは無いですか?

あなたが繋がろうとしているもの、
あなたが果たそうとしている役割、

あなたはそれが、本当に"今ここ"にあるものだと、考える事が出来ていますか?

実際には、そんなに寂しい事はないかもしれないし、あなたを心配、必要とする人も沢山いたり、あなたがいるからこそ、今この瞬間成立しているものが溢れていたりもするのだが、

俯く事や、顔をあげる事、
喜ぶ事や、悲しむ事、
笑う事、泣く事、怒る事、

それら、どちらが善で、どちらが悪とか、自由な思考のもとに、そんな事ばかりを考え、下を向いて俯く事を、これもまた自由の一つとして選びとり続けていくのなら、

あなたはいつまで経っても、本来そこで自由がもたらすはずの、本当の姿を捉える事は出来ないのである。

進む事も、停滞する事も、退く事も、確かにそのどれもがあなたにとって、自由な事であるには間違いないし、あなたがそれで納得した理由を作ろうと、わざわざ狭く圧迫された、不自由な自分を選びとっていく事も、これもまた、あなたの自由なのかもしれないけれど、それでも自由とはまた、決して誰にとっても"偏り"に向かっていく為に、存在をしている訳ではない。

もっともっと、そこに生まれているものも、滅したものも、あるいはこれから生まれるかもしれない、潜在された、思い、意識、それらありのままの全てを含め、物事を包括的に広げた意識で、自由自在に観ていこうとする事の方が、そこに"純粋なる歓喜"へ繋がる(yuj)、本来的な自由の意味する由縁なるものはあると思うし、

もしかしたら、常に余裕の無いこの現代のフィールドにおいて、思うがままに自由の羽を広げる事は、決して容易い事ではないのかもしれないけれど、それでもそれが、あなたが顔をあげてはいけないとか、楽しく笑ってはいけないとか、喜んではいけないとか、本来の意味での自由をためらったり、偏ったり、抑圧したり等、自分自身を束縛しても良いという理由にも決してならない。

もし、あなたが自分の今いる場所を、暗くて狭い井戸の中だと錯覚しているのだとしたら、それなら、それでも良いだろう。

視線なんて遥か彼方、自由に彷徨いながら、どこに置こうが、暗い井戸の中で、結局何かが見える事もなければ、足下だっていつもグチャグチャ、大地に根を張ろうと意気込む必要もない。

時に、泥にまみれ、埃にまみれた自分の事を、沈んだ塵や埃のような、駄目な人間なんだと罪悪感に苛まれてしまう事もあるし、

時に、寂しくなって、一人大きな声で叫んでみたら、何でこんな事をと少し恥ずかしい気持ちや、やっぱり自分なんかと、恐縮した気持ちが湧いてくる事もあるかもしれない。

それでも、あなたが思う存分、"本当の自由"として、笑えるなら笑い、泣けるなら泣き、単純な事を、そのまま単純に捉える位の感覚で、もっと、自然に、シンプルに、俯いたり、泣いたり、笑ったり、楽しんだりを謳歌する事が出来たのならば、

例えあなたが泥でも、塵でも、埃でも、
例え弱気でも、陰気でも、ネガティヴでも、

そこであるがままに舞い上がり、舞って、舞って、舞い切った先に、塵や埃も積もって不動なる山のようなあなたの"象徴"が、きっと威風堂々そこにそびえ立つ。

どこで何が何の響きとなって、誰に届くかなんて分かる事では無いし、これはきっとタパスなんだと、あえて無理な解釈で受け入れ続け、疲れた身体と、乱れた心で、磨かれるべき、かけがえない大切なものをそのまま雲らせておくのなら、

多少他人と比べて
抗って、
少しばかり欲張る事があったとしても、

それもまた、あなたの"自由"な意志と選択に基づく決断の一つとして、何も心配なく、尊重される。

あなたの自由は、
あなたの重荷になったり、
あなたに苦しみを与える為のものではない。

あなただからこそ、 
その自由を本来的に全うする事が出来、

あなただからこそ、
それを表裏一体、善も悪も、良いも悪いも、喜も憂も全面的に味わい尽くし、

慈悲なる心が備わる、あなただからこそ、
それを人の為にと、役立たせていく事が出来るのだ。



私達は、誰よりも学ぼうとするし。
私達は、誰よりも努力しようとする。

それでも、
私達は、それをどんなに学んだとしても、
私達は、そこでどんなに努力を重ねたとしても、

私達には、絶対に満たされないものがある。

私達が、その閉じられた瞼の奥で懸命に見ようとしているもの、

私達がその覆われた視界の中で、見えていると思い込んでいるもの、

私達は一体何を見ようとして、何が見えていると思い込み、何に満足をしたと言っているのだろうか?

刻みこまれた行き場の無い思いを源とし、熱く、熱く、燃えたぎらせて、決して燃え尽きる事なく、残存した黒く焦げた塊のようなものを、

それを私達は支えとし
それを一つの解釈として
それを今の私達にとっての象徴としているのかもしれないが、

紛れもなく、それが"今の"私達にとって、自らの偏りを、何よりも定着させているものなのではなかろうか。

あなたは今、人間の湧き立つものの根本が、何処から由来し、どこに帰結していくのかを、繰り返される経験を一つの根拠としながら、おおかた理解したのだと思い込んでいるだろう。

それは、どんな仮説をもって、覆そうと思った所で、容易に覆す事などできなくて、

どんな、偉い学者が書いた論文や、
どんな、最新科学技術で裏打ちされたデータなんかも、遥か彼方へと超えていく、

あなたにとって、何よりも説得力のある、絶対的な根拠のように感じているかもしれない。

あなたは、
それを、うんざりだと感じていますか?
やっぱり、そういうものなんだと思いますか?

否定しても良いんだよと、肯定する気持ちを、無理に否定して抑えこんでしまったり、

抗ってもいいんだよと、抗わない事に、無理に抗ってみたり、

都合のよい言葉を当て嵌めて、仕方ないものだと明らかにしたつもりなって、

まるで、広い、広い大海原の景色をその眼で見てきたかのように、もしあなたが、そう見極めたと断言するのであれば、

もはやそれさえもまた、あなたを深みに陥らせている要因、そのものの一つになっていると、言わざるをえないだろう。

揺れを認めるんだという、揺れに翻弄され、ようやく行き着いたと思いんこんでいる先に広がる、幻想(マーヤー)の世界。

彷徨い込むあなたが、そこで、見る事、聞く事、触れる事、感じとる事ができるものは、

例え、それがどんなに価値があるものだとしても、

例え、それがどんなにかけがえのないものであったとしても、

例え、あなたがそれをどんなに大好きで

例え、そこにどんなに手放したくないと思えるものがあったとしても、

結局、その全てはまた、あなたの下からは離れていってしまう。

それは、
うんざりでもなければ、
やっぱりでもなんでもない。

時には、自分にとって不都合だったと極端に嘆いてみたり、逆に、無理をしてでも、そこに感謝の気持ちを抱いてみたり、自分で自分を納得させたいと、色々と試みているつもりなのかもしれないけれど、

そこで生じる、何度も繰り返さると感じているものや、または、いつもしつこく蔓延るように、付き纏ってくると感じているものも、
それは不確かな憶測なんかではなく、実際そこでは何も起こっていなかったり、何も存在すらしていない事もある。

あるいは、そこで起きている事の全てが、あなたにとって、何よりも今必要な事だったするにも関わらず、もしあなたが、ただそこで瞼を閉じて、ただ佇む事を続けているのであれば、いつまで経っても、そこに生じている、若しくは、生じていないかもしれない"本当の姿"を、捉える事は出来ないだろう。

あなたは、あなたの意志で、その瞼を閉じ、あなたは、あなたの意志で、その瞼を開ける事を手放してきたのではありませんか?

もう随分そこに居続けているからこそ、自分ではすっかり忘れてしまったのだと言うかもしれないが、でも本当は、それを理由に"忘れた振り"をしているだけなのではありませんか?

今あなたが、永遠の中の過程として、一つのサイクルの中にいる事や、また、開いた瞼の向こうの世界に、素晴らしい一如の世界が広がっているなんていう事は、散々これまでにも学んできた筈だ。

あなたが本当に手放さなければいけないもの、
あなたが本当にしなければならない事、

わざわざ言葉になんかするまでもなく、あなは心の奥底では、きっとそれが何で、それがどういうものなのかも、その学びの中で、全てを分かっている筈である。

それをただ知恵としてそこに留めておくのか、あるいはそれを"智慧"の力として昇華させ、新たな根拠として転換していく事が出来るのか、

それらの答えは、
どんなに頭で色々な事を考えようとも、
どんなに言葉で色々な事を覚えようとも、

その次元の中で、どうこう出来るものではないし、与えられたクビキ(yuj)を最終的に繋ぐ意志と決断は、誰かが代わりにしてくれるものでもなければ、偶然見つけるものでもなんでもない。

本当の智とは何なのか、
本当の慧とは何なのか、

あなた自身も既に気がついている事、
あなた自身も既に知っている事、

備わるものとして、
"今ここ"にあるものとして、

あなたが、その重い瞼を自らの力で持ち上げる事が出来た時、

あなたはそこに始めて、黒く焦げた燃えカスなんかじゃない、眼前、遍く光に照らされた、輝く本来的な"満たされた景色"を目にする事が出来るのだ。

今なおそこに輝く生命の煌めきは、
あなたをどこまでも優しく、暖かい気持ちへと受容していきながら、

それは、どんな時も、あなたの傍から決して離れる事はなく、

それは、いつまでも、全てを包み込んでいくかのように、

それは、ずっとずっと、果てなく無限の領域へと広がり続けていくのである。


"それは時として、壁となる"

発するものも、受け取るものも、全てを遮るものとして、立ちはだかり、四方八方、あなたの身動きを封じ込む。

そこにあるのは、根源的な無知なる"無"の世界。見渡す限り、音も形も言葉もなければ、何一つ語られるものも、何一つ映し出されるものもそこには無く、何一つとしての響きも存在しない。

空間はまるで置かれた箱の中身のように乾ききり、
大地は息を引き取るかのように沈みこみ
風は不穏なる邪気のようにまとわりつき、
水は悲嘆の溜まりのように澱みゆく。

あるべきはずの、本来的なものは、漆黒の炎に掻き消され、吸い込む煙に咳込むあなたは、呼吸のリズムを乱され、遠のく意識と、霞んだ視界に、ありのままの心の姿を見失う。

生まれる壁への破壊の衝動。
期待通りにならぬ気持ちの焦りは、壁を更に分厚くし、無理に破壊を求める程に、闇は更に深くなる。

下へ下へと陥るような、分厚い無限の深みの世界は、やがて破壊を求める気力も、どうにかならぬ焦りの感情さえも、全てを飲みこみながら、あなたを"怠惰"の渦へと引き込んでいく。

"それは時として、扉となす"

怠惰に溺れ、厚みを増す壁の姿に気力を失うあなたは、いつしか、あるはず無い一つの扉を壁の中で幻想する。

そこにあるのは、あるはずない扉であるが故、あなたは扉の向こうの世界を、一切見た事ないにも関わらず、脳裏に浮かぶ浅はかな解釈に惑わされ、扉の向こうと、こちらという2つの世界が、今ここに在る事を判断する。

扉のこちらに、光が届かぬなら、
光はきっと扉の向こうを照らすはずであり、

扉のこちらが光を浴びていないのなら、
扉の向こう側は、きっと光を浴びているはずであり、

扉を開ける事が出来た者は、扉を開ける事を許された者

扉を開ける事が出来なかった者は、扉を開ける事を拒否された者

そこには、優が有り、劣が有り
そこには、勝があり、敗が有り、

そこは隔たれ、分けられ、対なる明と暗を象徴するのだと。

あなたは、その隔てた2つの世界を、まるで壊れた定規のような歪な尺度で比較をし、そこから生まれる、妬み、嫉みに、心を激しく喧騒させる。

この扉があるから私に光は照らされず、
この扉が無ければ、私も光の世界に行ける。

誰かのせい、何かのせいと、あるはず無い、
開かずの扉を言い訳にして、自分で自分を守りたいが為に、まるで、本来的な役割からかけ離れたものを、使命であるかと錯覚させては、盲目的に深みに陥る惨めな自分の姿を、都合良く正当化する。


"それは時として、姿を持たぬ"

あるはず無い開かずの扉に、途方に暮れたあなたは、そこに倒れるように仰向けになり、不意に視線を上にあげる事となる。

視界に飛び込む、満点の青空、
空間を彩る、色めく紅葉。

肌を刺すかの如く冷たい高野の風と、風になびかれ、大地に散りゆく葉吹雪に、いつの間にかの秋の終わりと、冬の訪れを実感する。

麗かな冬の日差しが、次第と心を覆う靄を取り払い、そこには、雲一つ無ければ、分厚い壁や、開かずの扉の影もない。

あなたの心は、まるで波が収まるように、落ち着きを取り戻し、澄んだ心の水面には、この世に備わる自然の生命のリズムが共鳴する。

まるで、
水のリズムが生命を循環させて、
火のリズムが生命の種火を燃えあがらせ
風のリズムが生命を言葉として運び、

大地のリズムが生命の母となり、
空のリズムが、そんな私達の生命そのものを見守りながら。

各々奏でる生命のリズムが、無心に、歌い、踊り、語り合い、この宇宙という無限のホールの、地球という舞台の上で、一つの旋律として調和をしていくように、私達は皆、同じ舞台の上で、同じ陽の光に遍く照らされ生きている。

そんな唯一無二の事実において、まるで泉が湧くかの如く、自然の理として解き放たれた、そのあるがままの光景は、遮るものも無ければ、全ては融け合うかのように、こちらや、向こうといった区別は無く、それを受け取るあなたの意識もまた、まるで環境に応じて、蒸気や氷と姿を変える水の性質の如く、融通無碍に絶えず変化を繰り返していく。

ある時には、壁になり
ある時には、扉となり
それぞれ翻弄しながら、
ある時には、ふと姿を消して純粋な姿に立ち戻り、ある時また、それが壁となって自分の前に立ちはだかっていきながら。

自然の循環、春夏秋冬、季節の巡りの如く、そこには決して、抗い、逆らう事等出来ない、無常といえる原理が存在し、その原理において、確信をもって断言できるものは何も無いのかもしれないけれど、それでも不確かな変化がそこにあるからこそ、同時に、初めから全ての可能性を閉ざすものも、また存在はしない。

まるで、さえずるような小さな鳥が、大きな羽根を広げて、優雅に空を舞うように、

まるで、1本の木が枝葉を自在に空へと伸ばし、幾多の花の姿を表現しているように、

あなたという一人が刻む、自由な意志と選択も、全ては一如に繋がり合う、この地球という大きな舞台の上で、かけがえない、唯一無二の"生命のリズム"として躍動する。

ある日突然、舞台の幕を降ろしてしまう判断はどこにも必要無いし、疑い深く澱んだ迷いの心も、いずれ素直で清らかなる洞察心へと展開し、湧き立つ焦りや、嫉妬の力も、やがて不安や恐れに勝る、旺盛なる興味関心へと移ろいゆくだろう。

例えあなたの今いる場所が、
遠く離れた陸の孤島や、暗くて狭い井戸の中であろうとも、

例え、あるはず無い扉があなたを錯覚させて、

例え、四方八方、大きな壁に身動きを封じこまれているように感じていたとしても、

私達はいつでも、その備わる躍動的な"生命のリズム"に乗って、自由自在、壮大なる"人生"という名の音色を、この宇宙という無限のホールに響かす事が出来るのだ。


まるで心の内を見透かされていたかの如く、あなたに突き付けられたその課題の山々は、少々痛みを伴う現実として、容赦する事無く、あなたを無明の世界へと引きずり込んでいく。

悪夢のような闇は、視界をたちまち狭窄し、そこでは何一つとして確信めいたものは存在せず、過去に辿った足跡も、未来を示す道標も、今この瞬間全てが同じ一つの闇として塗り潰される。

暗闇でおぼつかない足下、
クラクラするような目眩
いつまで経っても優れぬ気分、

いつ?
何で?
どうして?
どこから?

こんな闇なんか無ければいいのに、
こんな迷いも無ければいいのに・・

もっとこうして欲しいし
もっともっとこうありたいし、
もっともっともっともっと・・・

不気味に漂うその不快な気配の渦が、それを受け取るあなたの心を惑わし、次第とあなたの集中力は奪われながら、冷静に物事を考える為の洞察力も思考力も、歪な形に削がれていく。

あなたは、
本当は弱くて、
本当は後ろ向きで、
本当は心配性であるにも関わらず、

"何も焦っていないし、
何も心配してもいないし、
何とも比べていないし、
何も求めていない"と
心の中で取り繕ったように必死に言い聞かせ、

あなたは、
どんな時も優しくて、
どんな時も謙虚で、
どんな時でも他人を思いやり、
どんな時でも他人に心配を掛けたくないと、
どんな時でも笑顔を絶やさず、
どんな時でも強くあろうとするからこそ、
その暗い闇の世界に負けないようにと、至って平然を装い続ける。

本当は、無闇に抑えつけているだけではありませんか?
本当は、誤魔化し、偽っているだけではありませんか?
本当は、ただ先送りにしているだけではありませんか?

内心、闇にあわてふためきながら、薄々、思い知らされているのでは無いだろうか。

結局、自分の軸なんて何も確立出来てはいないのだと。

アスファルトに集めた落ち葉のように、ただコンパクトにそこに収めただけの、安易な解釈は、突然の風に吹かれては、あっという間にまた無残に散らばっていく。

ただ散っては集めを繰り返す、そんな漠然たる不安からの逃避が、いずれ判然たる恐怖として形を変え、またあなたの前に再び姿を顕してくる事を、あなたは何度もループするかの如く経験しているはずだ。

時間がかかってもいいし、
疎かなものがあってもいい。

集めた落ち葉を土へと還し、新たな肥やしとしていくように、まずは、凝り固まったその"否定的"を否定する観念をすて、己の心意を巡りめくそのあるがままへと委ねてみて欲しい。

地水火風空、森羅万象この世の全てのものが、何隔たりなく、妨げ合う事ない調和の中で、お互いが縁となり、お互いが生かしあいながら、創造、維持、破壊のサイクルを繰り返していくように、

私達人間、個々の内なる万象も、抱える弱さ、脆さ、醜さ、儚さ、愚かさ、湧き起こる
嫉妬、不安、焦り、悲しみ、怒り、それらが一つの調和された世界に共存して、初めて抑圧は打ち破られ、新たな光の世界が創られていく。

"真実"なるものは、誰かがあなたに対し、言葉をもって教えてくれるものでもなければ、
文字を通して、知識や情報として理解をしていくものでも無い。

それは、あなたの心の奥底、いつでも正直に湧き起こるものに対して、あなたから、あなたに語りかけられていく。

壁を隔てて、
無理に何かを隠そうとする必要もなければ、
無理に何かを言い聞かせ、
無理に何かの言葉をもって解釈しようとする事も無い。

あなたから、湧き起こるどんな迷いの感情も、そこから生まれれるどんな解釈も、その性質一つ一つが過程となり、その一つ一つが大切な要素となりながら、その一つ一つがまた、遍く照らす光の象徴として、唯一無二の根源へと繋がっていくのだから。

目の前の現実に、
例えとても哀れで、
例えとても見苦しく、
例えとても無様な姿を見透かされているように感じたとしても、

創造される光は、いつでも、
あなたの心を正しく顕し、
あなたの心をあるがままに照らし、
まるで透き通った水面のような、嘘偽りないあなたの透明なる心を輝かせながら、塗り潰された過去の足跡も、未来の標も、そして今この瞬間の立ち位置も、また全てを明らかに見極めていく。

アスファルトのように、固く覆った心の壁も、あなたのその、真実なる心の力をもってすれば、いつでも簡単に壊していく事も可能であるし、澄んだ水面のようなその心から、まるで豊潤な果実のように滴り落ちる甘露の雫は、あなたの疲れた身体と心を癒し、奥底深く蔓延る"煩"の力をなだめ、息を潜めて眠り続ける"明"の力を躍動させる。

次第と悪夢は醒め、眼は開かれ、視界は晴れ渡り、まるでトグロを巻くかの如く、天にも昇る、その内なる歓喜に目覚めたあなたは、"もっと、もっと"の外なる歓喜にも、決して心を惑わされぬ確固たる自分の軸を手に入れていくだろう。

何一つ、除かれる由縁となるもの一切無し。

痛みを伴う現実があるからこそ、
母胎の如く包みこむ、慈悲なる心が生まれるように、

山積された課題があるからこそ、それを乗り越えようと、ダイヤモンドの如く堅固な智慧と意思の力が生まれるように、

全ては一つの無碍なる世界の中で、芽生えるものではなく、初めから備わるものとして、
いつでもそこに"真実"として、繋がりあって共存しているのだ。



ヨガの発祥は、遡る事紀元前数千年。そこから時を進めながら、元々はバラモン教等から由縁とする、古代インドにおける密教的行法の一つとして、その体系を確立していったという背景があります。

なので、ヨガというと、イコールでインドをイメージする方も多く、本場で本格的にヨガを学びたいという方の多くは、真髄なる教えを求めては、先ずインドへと旅立ち、アシュラムと呼ばれる、ヨガの修練を積む場所に滞在をしながら、そこでヨガの知識や技術を体得していきます。

しかし、ヨガの歴史を遡り、先述した密教の行法という視点から、それがどういうものかを捉えてみるならば、日本国内においても、世界に誇れる素晴らしき聖地が存在する事を忘れてはいけません。

日本で密教と言えば、今からおよそ1200年前、遣唐使として唐に渡り密教を修行した空海(弘法大師)が、日本に帰国した後、その教えを広める為に開宗した、真言宗(真言密教)という宗派が有名で、和歌山県にある"高野山"にその総本山(金剛峯寺)を構えます。

ヨガ=高野山とイメージをする方は、あまりいないかもしれませんが、中国で"瑜伽(ユガ)"と名付けられていた、伝統的な宗教技法であるヨガの教えを、日本に最初に伝えたとされているのも、まさにこの空海(弘法大師)であると言われていて、真言宗の代表的な教義でもある、身(印を結び)、口(真言を唱え)、意(心を仏のように穏やかに)の3密行により、生きとし生ける全ての生命の根源、即ち宇宙の真理を象徴する大日如来と、我との合一を図るという考え方や、その根底に流れる思想の数々は、まさに私が学んだ、大好きな"梵我一如"を含むヨガの世界観の象徴そのものでもあります。

「密教とは何か」という、言葉で簡単に説明できるものに関して言えば、ネット等でも沢山情報が出てくると思うのでここでは書きません(と言いますか、正直まだ詳しく書ける程の知識がありません・・)が、その教えの奥にある真髄というのは、こういった文章や言葉では簡単に表現出来ない、より難解な次元の中にあるとされていて、教義の伝承も、師から弟子への直接的な口頭伝承が基本となり、また秘伝としての儀式や行法の実践を通し、自らで体得をしながら学んでいくというのも特徴になります(密教が秘密の教えと呼ばれる所以です)。

なので、自分の日々の生活の中に、一つの思想としてその教えを活かしていく分には、テキストのようなものを見ながら、生涯学習のように楽しく学んでいく事も出来るのですが、教えを正しく深くありのままに会得し、ましてはそれで人を導くということになれば、どんなに自学自習を重ねたり、どんなに行法を体験のように重ねたとしても、決してそのレベルへと到達出来るものではなく、実際には深い帰依心を持ち、僧侶として相当な覚悟の下に学習と修行を重ね続け、阿闍梨(師範となる為の資格のようなもの)となる為に、伝法灌頂(師匠となる儀式のようなもの)と呼ばれる儀式を受け授かる必要もあります。

またこれはヨガも同じだと思うのですが、密教自体、歴史が非常に奥深く、古代のインドで生まれたものが、どの時代に、どんな人によって、どんなルートで、どんな風に伝わっていったのかで、中身の性質にも違いが生じるので(私もまだあまりよく分かりませんが・・)、一概に真言密教=密教の全てという事も当然ながらありません。物事の一側面を見てそれを全てだと錯覚する事の危うさは、何度でも申し上げておきたいと思います。

ヨガの密教的側面というのは、多くの一般レッスンでも、プラーナヤーマ(生命エネルギーの拡張)のような見えざる力への働きかけや、マントラ(真言と言われ、その響きはこの世の真理を象徴し、私達の意識を高い次元へと拡張させる)を詠唱したり、お香を焚いたり、シンギングボウルやティンシャベルのような法具を利用したり等、どこか儀礼的かつ神秘的な雰囲気を呈するものとして残り、それを各々の先生方が、現代的に工夫をした上で提供がされています。

人によっては、それがヨガを少し怪しいと感じて敬遠する理由にもなるのですが、同時にそれは、現代のヨガというものにも、間違いなく一種の"深み"のようなものをもたらす、大切な構成要素の一つとなっていて、その深みの幅の部分にこそ、簡単には理解出来ないからこそのヨガの面白さや、その魅力が凝縮されるように詰まっていると言っても過言ではありません。

"深み"という言葉も、これも表裏一体、良い面と、その反対の側面の双方を持っていて、"深みにはまる"という言葉も慣用句としてはありますが、例えば深みというものが、私達を陥れるものとして、はまってしまい抜けられない感覚の中に存在する時、それは、息が詰まるような、圧迫感として、大変に苦しいものとして姿を顕し、また繊細で脆く壊れやすい私達の心は、まるでその圧迫感に押し潰されるかのようにして、無残に壊れては散りばります。

しかし、ある時ふと何かをきっかけとして、頭の中の靄が覚醒的にパーッと晴れ渡っていくような、閃き(気付き)体験がそこに訪れると、今度はトゲトゲしく散りばったその心の欠片の一つ一つは、まるで新たな絵を創造するパズルのピースのように一つに繋がっていき、次第と自分をおとし入れるように下へ下へと沈みこませていた、"深み"という言葉の嫌な感覚は、闇に差した光がどこまでも続いて拡散していく、まるで宇宙のように広がり続ける"無限の深み"へと変容していきます。

それまでの閉ざされた視野には、この深みの感覚により、これまでの自分には無い新たな活路が見出され、破片のようなトゲトゲしさとは対象的な、その優しい流線模様のような開放的な景色の広がりは、受け取る人次第により、その世界観や、可能性を同じく無限の領域へと拡大をしていくのです。

今回の密教というキーワードに触れた話で言えば、私はヨガに関連した事をこうやって書いていながら、正直ヨガの本場インドには行った事はなく、本場における本場のヨガは全く体験した事がありません。

なので、幸いに日本に居ながらにして教えてもらった、伝統式ハタヨガというものから、きっとヨガとはこういうものなんだろうなという不確かな想像と、そこに自分なりの解釈を加えた中で学びを続けていて、実際にインドまで渡航して学ぶというのが、現実として難しい現状の中で、大変なもどかしさのようなものが自分の中にはありました。

その事に対して、毎度のお決まりのように卑屈になったり、劣等感を感じたり(これはもう人類の根本苦だと思います)、暫く頭の中でその渦がグルグルと巻いていたのですが、ふとヨガの学びや歴史を振り返る中で、密教というキーワードから、高野山という場所に結びつき、実際に滞在を続けながら、ヨガと真言密教の中のキーワードや世界観がいくつも連鎖するように繋がった時には、何とも言えないようなワクワクする感覚が広がって、まさに灯台下暗しな状態から、どこにいてもどんなものからでも、いくらでも学べるものがあるという、見失っていた当たり前の教えにも気づく事ができ、その事に嬉しさというか、喜びというか、自然と湧いてきた前向きな気持ちに対し、まるで心が穏やかな波のように広がっていく、とても安心した感覚を覚える事が出来ました。

今も、そしてこれからも、私には出家をしてお坊さんになる覚悟は全く持てませんが、例え、その真髄まで到達をする事が出来なくても、まずは日々の自分を助けるものとして、そして大好きなヨガの学びを深める為に(そしていつか誰か人の役に立つ事を願って・・)これからは、この密教に関わるキーワードについても、少しづつ関心のベクトルを向けていきたいと考えています。

そして、やっぱりいつかはインドにも行きたいし、他の聖地と呼ばれる所も色々巡礼したい気持ちはあるのですが、それは行かなくてはいけないものという訳ではないし、行かなくても、行けなかったとしても、それでもいいんだよという事は、自分の中の拠り所にしたいなと思っています。

その心は、決して自分の可能性を閉ざすような、ネガティブな意味での解釈では無く、どこに居ても、どんな状況で、どんな生活をしていても、学びや成長の機会は捻出できるんだという、むしろ、より自分の可能性を広げていく為のポジティブな思考からくる心の動きとしてです。

もしどうにもならなくなったら、それが潔く自分の寿命な訳ですから、どうにかなって今ここにいる限りは、1日0.1mmでもいいから、今この瞬間、今この場所で、少しでも芽を上へと伸ばす実感の中で、日々生きていく事を目指していきたいと考えているし、たとえ踏み出す一歩が弱気な一歩だとしても、その選択と決断は、自分に委ねられているのだという思いは、常にとは言いませんが心の中に存在します。

それこそ何度でも、何度でも、繰り返し想いを持って言い聞かせていけば、その響きはきっと、自分なりの"マントラ(真言)"として、パワフルなエネルギーを持ちながら、心の奥深くへと届き、自らの意識を変容へと導いていくのではないでしょうか。


早くここから出たいのに、
早く扉の向こうに飛び出したいのに、

鍵穴が錆びてて回らない
建てつけが悪くて、扉が開かない。
誰かが向こうで扉を抑えてる。

暗くて、狭い。
怖くて、不安。
寂しくて、涙が止まらない。
誰か助けて、何で自分だけ・・。

あなたは、扉の奥で必死に抗い、必死に抵抗する。

"本当は扉なんてそこに無いはずなのに・・。"


また、あいつが追ってきた。
逃げても逃げても、しつこく追ってくる。
隠れても、隠れても見つかってしまう。

胸が苦しい、息が出来ない。
もうこれ以上脚が動かない。

腕を振り、歯を食い縛り、
あなたは、あなたを追うものから、必死に逃げ惑う。

"本当は誰も追ってなんかきてはいないのに・・。"

あなたは、あるはずもない扉の奥で狼狽し、
いないはずの追っ手から、何故か逃げ惑う。

あなたは気付いているはずだ。

目の前のパラドクスの渦に、ひたすら混乱をしながらも、どこかそれら全てを俯瞰的に見ている自分がいる事に。

偽わらなくていい。
正直になっていい。
 
あなたは、そこから進めないのでは無く、
あなたがそこに留まっている。
 
あなたは追われているのではなく、
あなたが自ら向かっている。

あなたは恐怖を避けるため、自らそこにぶつかり、

あなたは安心したいが故に、不安を手放さず、

あなたは満たされていたいからこそ、満たそうとしない。

笑えないのではなく、
笑わないのであり、

あなたから涙が流れているのではなく、
あなたが涙を流しているのだ。

あなたの中の"制御"のベクトルは、正しくあなたに向かっていると言えますか?

あなたが、あなた自身に、"正直(サティア)"の教えを背いてはいませんか?

あなたの中の"目的"は、あなたの真実に基づいたものだと言えますか?

あなたはその偽りを"言い訳"に利用していませんか?

あなたは見えているはずだ。
扉を抑えつける人影も、
あなたをしつこく追ってくる何者かも、
あなたを閉じ込め、圧迫し、追い詰めるもののその正体は、紛れもなく"あなた自身"そのものであるという事を。

本当はどうするべきか、
本当はどうしていきたいのか、
一生懸命言い聞かせるかのように何かを学び、頭でそれを分かったつもりになった所で、行為の伴わない"分かったつもり"の知識は、結局何も分かっていないのと同じ事である。

知行合一。
知識と行為も本来なら一つに繋がりあっていく中、言葉と思考と行動は、他者にも自分にも"正直"にそれらが一つに繋がって、心は初めて穏やかな状態へと向かっていく。それがまたサティア(正直)の教えでもあるはずだ。

あなたに今必要な事は、
偽る為に、隠す為に、防衛する為に、頭の中で言い聞かせるばかりに浪費する事ではなく、まずは自分に正直に、真実へ向かって、"行為"としてその一歩を前に踏み出していく事。

偽る事に慣れたあなたは、
偽りを手放し、真実へ向かう事に対して
大きな不安と恐怖を感じかるもしれない。

「失敗したくない」
「恥をかきたくない」
「傷付きたくない」と。

幾多の声がまたあなたの心を揺らし、
幾多の幻想がまたあなたの視界を惑わす。

人間の根本は、簡単には変わらないかもしれないし、それはあなたに染み込むように根付いたものであれば尚更のこと。

それでも私はあなたに、一貫してこう伝え続けていきたい。

「安心していいんだよ」と。

それは力強い勇気の一歩なんかじゃなくて
もいい。揺れた心に生じる、恐怖と不安を背負った消極的で弱気な、おぼつかない一歩になってもいいし、躓いて、失敗をしても、恥を感じても、それは決してあなたの傷になるものでもなければ、あなたの存在価値が否定されるものでもない。

何故なら、あなたが抱く偽りは、決してあなだだけの問題でもないし、あなたと同じく、多くの人がその偽りを抱え、誰もがその偽りの中に生き、誰もがその偽りにもがき苦しんでいるのだから。

人は決して敵でもなければ、
あなたを欺くものでもない。

共通の課題を持つ"仲間"としての繋がりがあり、だからこそ、人は支え合い、寄り添い合い、知恵を出し合い、力を合わせて、歴史を紡ぎながら、ここまで発展をしてくる事が出来たのではないか。

自分に正直に、他者に正直に、決して偽る事なく、その一歩をまずは踏み出して、仲間への貢献、仲間との繋がり、そこで感じる優しさ、思いやり、達成感。穏やかな心の中で、意識を広げて、視野を広げて、気がついて欲しい。

この広い広い宇宙の中で、あなたがそこに居てはいけない理由等どこにも無ければ、あなたがそこに居るからこそ、成立し得ているものがこの世の中には沢山あるという事を。

あなたは、これ以上偽りを重ねる事に必死になる事もないし、扉の奥で不安と孤独に駆られる事もない。

まるで重たい荷物を降ろしたかのように体の緊張は解かれ、まるで酸素を味わうかのように呼吸は深くなり、どんな苦しみも、どんな恐怖もまた、必ず受容へと向かっていくものなのだから。

あなたが本来向かうべき望ましい未来は、今踏み出す、目の前のその小さな一歩から広がっている。

そしてその一歩は、常にあなた自身に委ねられている。

あかの他人も
親密な仲間も、
遠い親戚も、
近い身内も関係ない。

背負った宿命も
生まれた時代も
属する社会も関係ない。

今この瞬間、あなたの意志と選択で、
その道はいつでも開かれていくのだ。


ヨガの聖者パタンジャリは、ヨガスートラ(2〜4世紀頃にによって編纂されたヨガの古典聖典)の冒頭にこう定義する。「ヨーガとは心の働きを制御することである」と。

108個と区切られる煩悩の数しかり、これは、いつもいつも私自身も感じる事として、人の心というのは、そのもの自体がガラスのように脆く儚く影響を受けやすく、常に翻弄しやすい性質を持つ。

いつまでも尽きる事のない欲への執着や貪り、他人と自分を比較しての慢心や嫉妬に、怒りや、恨みや、焦りや、不安に、寂しさ、孤独。どんなに自分で整えたと思ったところで、安易にただのループの一つの過程を、まるでそれが全ての事と錯覚しては、物事の本質全体を、ありのままに正しく観る事には誠に乏しく、直ぐに翻弄されては、直ぐに大きく崩れていく。

煩悩と呼ばれる心の揺れの中でも、代表する3つの根本を"心の3毒(貪・瞋・痴)"とも称するように、心に生じた小さな毒は、苦や楽、喜や憂など相対する2極のものに揺さぶられ、その間を何度もしつこく往復しながら、全身を蝕むように、揺れ幅を広げて蔓延し、頭の中では分かったつもりでいながら、どうしても同じ事を繰り返すように自らその毒の方に向かっては、何度も同じ苦しみに陥っていく。

心の制御を見失い、そのループに一旦はまったならば、"苦楽一如"そんな当たり前の原則すら、頭から抜け落ちたように分からなくなり、喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、全ては表裏一体、全ては繋がり何の区別もあるものではないのに、苦に偏れば、苦が自分の全てと錯覚しながら、全ての物事を悲観的にしか捉えられなくなる。

"全ての物事が"と書くと極端な感じに受け取る方もいるかもしれないが、いわゆる"鬱病"という言葉を思い出して頂くと分かりやすいように、実際この鬱状態の酷い時というのは、まさに"全ての物事"が悲観的な心の眼でしか物事を捉えられなくなってしまう。それは目に写るもの、耳に入るものに限った事ではなく、自分という存在に対してもそうであり、何か悪いことをした訳でもないのに、自分の存在がそこにあること自体に罪悪感を感じたり、誰かと自分を必要以上に比べては、自分はなんて駄目な人間だと卑屈になる。

また楽に偏り、喜びや楽しさ側が全てになれば、これもまた精神医学の中では躁状態と病名が尽くように、心の状態としては健全な状態ではないとされている。喜びが幸せに繋がり、楽しさがやる気や自信に繋がれど、これらもいきすぎると、いわゆる誇大妄想と呼ばれるような、自分は全知全能神のように何でも出来ると妄想したり、気持ちの高揚から、度を超えた形で多動多弁になったり、あるいは他者に対しての傲慢なる態度や言動を引き起こす事もある。また寝る間を惜しみ、自分のリミットを外しエネルギーを費やし続け、その後まるでバーンアウトするように、一気に反対側の鬱状態の方へと引きずり込まれてしまう事もあるのだから、これもやはりまた病理的であると言わざるを得ない。

こんな風に揺れては崩れる心を、パタンジャリはどう制御するというのだろうか?
心を落ち着かせる事や、心を知る事や、心を考える事を超えて、自らそれを制御させるなんて、そんな事が果たして本当に可能なのだろうか?それが実現したら、まさに怖いものなんて何も無い。何故なら怖いも不安も何も、制御出来てしまうのだから。

正直、心の揺れには散々翻弄されまくりの私には、どこかでまだ制御なんて簡単に出来る訳がないという気持ちもあるし、未だにそんな事出来るわけないと、疑いの気持ちが生まれる事もある。

それでもその事に疑いはありながらも、それがいい意味での知的好奇心をくすぐる形となったり、ヨガにはアーサナはじめ実践的なアプローチも沢山あるので、心の動きの事を抜きにしても、それ自体が技術の探求として夢中になれる要素もあり、一つ一つ実践を積み重ねていきながら進めていける事も、私にとっては魅力の一つとなっている。

また、パタンジャリが言う心の制御された状態というのは、決してヨガの行法中、常に制御が出来ていなければならないという意味合いで使われているものでもなく、ヨガの最終目標である悟りの要素の一つとして、到達を目指すものとして、そこに存在する。

なので実際の実践の中では、もし自分と向き合う過程の中で、心が揺れて乱れて苦しんだとしても、不安は不安として自分の内から湧くものとして受け取りながら、決してまたそれに囚われすぎる事もなく、どこか客観的な視点も持ち合わせながら、その心の動き自体を、悟りへ向かう歓迎すべき一つのプロセスとして捉える事も出来るし、まだ悟りに到達していない以上、むしろ制御が出来ていないと感じる事の方が、私達にとっては自然な心の状態であるとも考えられる。

ヨガの歴史はとても長く深い。
時を遡る事インダス文明の時代(約4000年前)、出土品にヨガの行法をらしきものを行う人物の姿が描かれていた事から、その時代が最も古いヨガの起源として推察されている。

時代を超え、場所が変わり、どんなに時が進み、どんなに科学が発展し、どんなに物質的な豊かさと、安全基準が確立されようとも、それがそのままイコールで人の心の豊かさ、落ち着き、余裕に繋がらないのは、経済先進国でもある、我が国日本の抱える社会病理の根深さや、高い推移を保つ自殺率のデータ等を見てもまさに一目瞭然でもあり、ヨガがこれだけの長い時間を経てもなお、"心の制御"を目的として、多くの人に求められ続ける背景は、それだけ人が心の揺れに迷い苦しみ、それに対して何とかしたいと葛藤をする事が、科学経済の発展とは関係なく、人類にとっての永遠不変な絶対的テーマとして、常にそこにあり続けているという事を如実に物語っている。

人生山あり谷あり、心に迷いを抱え、困難を乗り越えながら、力強く生きていくには、分かりやすい強さや、前向きさは絶対必要不可欠な事であり、強くないと、前を向かないと、笑顔でいないと、目標を持たないと生きていく事が困難なのが、世の中の現実とも言える。

だからこそ、それが望まれ、求められ、そして教え、教えられ、また自分自身も必死に強くあろうと気持ちを奮い立たす。しかし実際には、ヨガの長い歴史が物語るように、そういられない現実が永遠不変にそこにある中、そのギャップが逆に、更なる自分の感情の抑圧やストレスを引き起こし、またそこで新たな苦しみのループを続けてしまう事も招きかねない。

後退して停滞と感じられる時間には、スポットライトを浴び、活躍する人を横目に、自分の不甲斐なさや、嫉妬に胸が締め付けられる事も沢山ある。それでも、それを分かっていながら、どうにかならない葛藤の中で、足掻いて、もがいて皆んなが十分に頑張って生きていて、皆んながそこに美しく咲いているのだから、例えどんな心の状態で、どんな心の動きが生じようとも、本来ならもうそれで十分、それらは全て受容(inclusive)され、そこに判断も評価も選択だって存在はし得ないはずなのだ。

"動から静へ"と向かうヨガの原則は、それは心の動きもまた然りである。だからこそ、無理をしたり我慢をして、泰然自若、別に強くあろうとしなくてもいいし、後退したって、混乱したって、卑屈になったって問題無い。十分頑張っている自分として、ありのままの自分としてそこに存在し、自らの心の動き、即ち"心の動"に意識を委ね、圧迫するものを解放しながら"心の静"に向かっていく、これがまた私にとってのヨガの解釈の一つとも言える。

これは別に卑屈になって自分を卑下している訳ではないのだが、あくまでも客観的な視点から見ても、現状私自身に、まだその解釈までヨガを深められるだけの知識や技術も、学びの量も、器の広い人間性も兼ね備えられてはいない。

それはレッスンをするとなればなおさら、その理想から極めて遠く離れた所から、それこそ誇大妄想ばりに、頭の中の妄想を論じているにしか過ぎず、先の未来を誇大して妄想する前に、まずは足元見つめて、しっかり大地に根を張る事が必要先決で大切な事であると思う。

それでも書店に行けばヨガの本は、ズラリと並び、ネットで検索すれば情報も簡単に手に入り、スポーツジムでもヨガのスタジオだって駅の近くに沢山あって、公民館や、カルチャーセンター、至るとこでヨガは学べる中、その中で私という人間がヨガティーチャーとしての役割を、真の我からの声として確立していくならば、例え妄想の中の空論でも、一つ自分の目指すべき理想像として頭に描きながら、そこに向かうイメージ位は持ったとしても、それは決して欲でも見栄でもエゴでも無いはずだ。

人は、解釈の仕方が分からなかったり、あるいは分かってはいるけど、受け止めきれない自分の状態がそこにあった時、そこに生じる苦が大きければ大きいほど、色々な角度から答えを求め、翻弄しながら内発的な動機の中でよく学び、よく考えようとする。それは興味から来る内発ともまた違う、もっと深い所からくる生命力のようなエネルギーであり、力そのもの自体がとても大きく、浪費もかなり激しいのだが、そこからもたらされる学びの量も、深まる考えの幅もまた莫大なので、結果、翻弄したらした分その過程の全てが、自分の成長及び"広がる意識"を導いていく。

今の私には、まだヨガの世界は刺激が強すぎる事が沢山ありすぎて、その都度耐えられないほど重く、自分の未熟さ、愚かさ、醜さから来る心の揺れに直面する。でも、これから自分が更に生きていこうとするならば、この目の前の揺れと現実に向き合わない限り、ずっと何も変わらず、更に泥は深くなるばかりなのだから、全てを自分の学びと、広がる意識を導くものとして、認識から外さず正対し、例えそこからただ苦しさしか出てこなかったとしても、一切皆苦を知るではないが、それを知る事自体に意味があり、そこから解決策を見出しながら、それがまた新たな創造とスタートを生むきっかけになると思っている。

パタンジャリが言う、心の働きの制御には、まだまだ遠い現実はあるけれど、きっとこの感覚を改めて深い所で感じ、そして考える為に、私にとっては全てが必要不可欠な遠回りなっていると信じているし、今回の揺れも、紛れも無い素晴らしい恩恵と、素晴らしい学びである事に間違い無い。心から感謝の気持ちで一杯だ。


あっちの自分がこう言えば
こっちの自分がこう言い返す。

すべき事、あるべき事を分かっている自分。
素直にそれに従って行こうとしない自分。

それは不安?心配?怖い?
ここは夢なの?現実なの?
混在する意識の中で、色々な言葉で、色々な自分が自分を惑わしてくる。

頭の中で思考する自分も
心の中で感じる自分も
鏡に映る自分も

どれもが自分の筈なのに、そのどれもが自分ではないように感じたり、

または目の前の出来事全てが自分の事なのに、その全てが他人事のように感じたり、

それが全てではない筈の事を、まるでそれが全てのように感じて、必要以上にそれに囚われてしまったり、

必死に何かを繋ぎ留めながら、無理矢理何かをそこに形成し、些細な緩みや、些細なひびのような綻びからその全てが崩れて壊れ、全てがどこかに流れて、全てがどこかに飛んでいってしまうような、危うい感覚にばかり翻弄され、狭い感覚と意識の、偏った世界の中に自分を閉じ込め、壁の向こうの広い世界に気づかないふりをしては、あーでもない、こーでもないとしつこい位に自問自答を繰り返し、いつまで経っても前には進まず停滞し、気づけば何も変わっていないどころか、そっちを選べばそうなるよというのが目に見えていながら、本当は自分自身がそうなる事を望んでいるかのように、すすんで後退する。

まさに自滅の苦しみだ。

どうしてそっちを選び、どうしてそっちに向かうのか?

自分は一体誰と何の問答をしてたのだろうか?

ただ無駄な時間だけを浪費する、そんな問答に何の意味が今まであったのか?

誰か私に教えて欲しい。
私というものを。

誰か導いて欲しい。
迷いの無い世界に。

停滞する自分はただの臆病にしか過ぎないのかもしれないけれど、ヨガっぽく言えば、過去の経験?トラウマ?そんな風に色々なものが邪魔をするのか、どうしても最後に、真の"我"からの気付きを、慎重に確かめながらでないと、怖くて、不安で、心配で、その一歩さえ踏み出す事に躊躇ってしまう事が多々生じる。

私は何をしたいのか。
私はどうしたいのか。

何故私は今ここにいて、
何故私はそれをして、
何故私はそれを考え、
何故私はそれを思うのか。

仏教的に無我の境地なんて、現在地からしたら程遠く、結局中々手放せない"我"への執着。
 
それでもヨガの思想は教えてくれている。
"我"はみんなにあるんですよと。

万物は皆、同じルーツを根本原質として持ち、そこから派生をし、循環を繰り返していきながら、どこかで何かを共有し、どこかで何かが関わり合いながら存在をしている。

それは物質的な繋がりもあれば、プラーナと呼ばれるようなエネルギー的なものを通しての繋がりもあるし、あるいは遺伝のように科学的な視点や、過去世等のスピリチュアル的なもの、または大きく広く縁起や因果の法則といった思想の観点からも説明出来る。

だからこそ私達は自他同一の視点を根拠として持ちながら、他者を慈しみ、他者を憐れむ、慈悲なる心を養う事が大切であるのだが、ヨガの中ではそれと同時に、内なる自分と向き合い、本質としての我と繋がり、それを磨いていく事も大切な目的の一つとして据えられている。それは、我儘や我が強いといった、欲深いエネルギーを象徴するような低次元の"我"の概念としてではなく、花が花として咲くように、雲が雲として流れるように、自分が自分として生きる為の、本質としての我、即ち真我(アートマン)なる概念として。

我とは何か?
それはあるのか無いのか。 
無我?真我?アートマン?

そんな渦巻く思考に翻弄され、答えの無い永遠不変の大きなテーマを前に、時に何か極端に偏った思想に傾倒したり、時に勢いや衝動に駆られて、屈折した形でエネルギーを暴発させてしまったり、あるいは死後の世界に安楽を求めてなんて事もあるかもしれない。

でも、唯一無二、たった一つの真なる我がそこにあるのだとしたら、どれだけ幾多の我が、あらゆる言葉で自分を翻弄し、心を迷わせ、苦しめようとも、それらは結局、視界を曇らす闇の中に作り出されたいくつものマーヤ(幻想)にしか過ぎないのだから、それら錯覚としての''我"に、あれやこれやと翻弄される必要なんて本来どこにもないのだ。

もし論理的に理解しようと思えば思うほど、しつこく考え込み、何かに縋ろうと思えば思うほど、更なる不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費しながら自らを疲弊させてしまうのであれば、まずは思考を手放し、身体を整え、気の流れを拡張し、瞑想で心を穏やかに落ちつかせる事を先決すればいい。

アーサナやプラーナヤーマや瞑想法含め、その為の智慧や実践がヨガには沢山あるし、私達が無知の闇から解放されて、物事を正しく見る為の、土台やきっかけとなるものは、いつでも穏やかで落ち着き、調和の図れた心身の状態の上に存在する。

我思う故に我あり。
我思う我はそこにあるかもしれないけれど、その我をどこまでも追っていく事は、はっきり言ってキリがない事であるし、時には閃きや覚醒、そんな言葉を頼りにしながら、内から湧く"我からの気付き"を静かに待ってみるのもいいかと思う。

それは、決してこちらから追わずもがな、向こうからやってきては、

無知なる心の影を照らし、
ありのままの姿を明らかにし、
自分の中の偏りも、 
盲信も、
そこに陥る自分が本当の自分ではない事も、

それら全て幻想のような灯火を、優しく吹き消していくのだから。