〜ヨガの楽しみ方として〜

◉自己受容から他との繋がりへ

例え私達が、日々の生活に迷い、傷付き、悲しみながら、目の前の出来事全てに不安を感じるような事があったとしても、それでもなおヨガの世界は、"あなたはそこに居ればいいんだよ"と囁くようにして、誰に対しても優しく包み込みながら、そこに扉を開き迎え入れてくれます。

時には、皆が皆その入り口の奥でキラキラと輝く人生を歩んでいるような錯覚に駆られたり、あるいは、何故自分にはその感覚が分からないのかと、自己嫌悪に陥るケースもあるかと思いますが、しかし、ヨガの受容の世界では、決してそれらもまた否定されるものではありません。

自分に繊細であればある程、他者や他物を認め受容するという事に、難しさや苦しさを感じる事もあるかもしれませんが、そんな自分も決して責める事はなく、是非ありのままの、その自分の感情を受け入れてみて下さい。

見極めながらも抗う事なく、
また迷いながらも真実を疑う事なく。

もし、自分で自分を受け入れ認めていく事、それこそがまた、その先に広がる大きな世界との繋がりになるという事に、嘘偽りなく、"正直(satya)"に気がつく事が出来たのならば、

その気づきの種は、やがて"備わる力"を源として芽を出し、沢山の人や、物や、動物、自然、更には、地球、宇宙、神といった遍く無限なるものの領域までへと、その枝葉を自在にどこまでも、広げ伸ばしていく事が出来るでしょう。

この広い広い宇宙の中で、地上に芽吹きし、どんな小さな要素でさえ、そこに居てはいけないという理由等どこにもありません。

また、その小さな要素がそこにあるからこそ、大きな全体が全体として、そこに成立し得ているものも沢山あります。

今この瞬間、そこで感じる事の出来る、包むような優しさも、穏やかな心も、またはここに居て良いという安心感や、そして、今ここに必ず自分の居場所はあるという、自己を肯定する気持ちも、

それは、いつでも、そんな小さな種のような、小さな気づきをスタートにしながら、次第と心の中に満たされ、そして花開かせていくものになるのです。

因みに、宇宙や神という言葉で何かが表現されると、少しヨガという世界が怪しい世界のように受け取られてしまう所もあるのですが、それは、穏やかな優しい、幸せな感覚を象徴的に表現する為の、一つの例えのようなものでもあり、神でも、仏でも、自然でも、またそれ以外のどんな言葉、どんな形、どんな色、どんな音で当て嵌まろうとも、その象徴される世界観に制約や、隔たりはありません。

時にそれらは、総じて、
"梵我一如"
(梵:宇宙を構成する根本原理(ブラフマン)も、我:本質としての自分(アートマン)も、全てのものは、皆んな縁となり繋がりあって存在をしている事、また私達自身が宇宙の真理の顕われそのものであるという、至高なる体験への気付きや、理解や、覚醒等。古代インドにおける、究極的な悟りを顕わす、伝統的な思想の一つ)

と言う言葉でも表現されたりもするのですが、例えどんな象徴で、その感覚が顕されようとも、大切なのは、自分が、自分として、無限に広がるものの中で、あるがまま、そこに満たされているという事になります。

自己を受容し、他者を受容し、癒しやリラクゼーションと言う言葉を超えた、宇宙のように無限に広がり続ける、その穏やかな優しい感覚(三昧:samādhi)へと到達した時、

きっと私達の内側にも、"甘露"と呼ばれる至福に満ちた雫が、"内なる歓喜(Ānanda)"として、滴り落ちてくる事でしょう。

◉万物から真似ぶ(学ぶ)

〜例)ゴームックアサナ〜
ヨガのアーサナには、様々な生き物や植物、その他、自然界に存在するものを由来としているものが沢山あります。

例えば、今回挙げるゴームックアサナ(牛の顔のポーズ)。

このような、動物の名前のついたアーサナを行う時の、私の中の楽しみ方としては、
(他の生き物や植物のアーサナ全般行う時にも言えますが)

まずは、その動物が、どんな形をしていて、どんな風に動き、どんな所に住み、どんな物を食べ、どんな暮らしをしているのか等、大まかな生態を知る事(又は想像する事)から始めていきます。

そして、その知識が土台となる事により、その動物が何を感じ、何を思い、どう生きているのかに、思いを馳せやすくなるのと同時に、またアーサナを通し、身体の面から形として"真似て"いく際にも、そのイメージの深まりがある事によって、より一層、それら生き物達との深い繋がりを感じやすくなります。

因みに、「真似る→学ぶ」という、これも有名な言葉の語源でありますが、実際、真似る事から始まり、それが、"気づき"や"閃き"として、学びへと発展していくと考えるのならば、物や生き物、植物等、この世の万物をまさに"真似る"ように作られているヨガのアーサナは、無限の学びが詰まった素晴らしき「学びの宝庫」であると言っても過言ではありません。

ここで、ゴームックアサナ(牛の顔のポーズ)に話しの舵を戻し、実際に牛という動物を"真似て"いく事で、そこから、どんな学び(気づき)がありそうかを、私的な解釈もありますが、簡単に上げていきたいと思います。

まず、牛という動物は、宗教によっては、体の中に沢山の神様が宿るとされ、非常に神聖な動物として扱われており、(牛の鳴き声とAUMマントラの響きって似ていませんか?)

八支則(ヨガの学びの段階を表したもの)のニヤマの中にイーシュヴァラ・プラ二ダーナ(自在神祈念) という教えもありますが、牛に限らず、人でも、物でも、植物でも、あらゆる万物を、(神様のように)尊いものとして、敬いや感謝の気持ちを持つということは、私達の心に落ち着きと、安定の作用をもたらす事に加え、小さな事から幸福を感じる力(Santosha)を育んでいきます。

また、牛は決して見返りを求める事なく、自らの命を削りながら、私達にミルクを与え、(この話は、私が養成コースでヨガを学んでいた時に、よく先生がお話ししてくれました。)
仲間思いで、繊細で、とっても優しくて、慈悲を象徴するような、代表的な動物とも言われています。

もし、そんな牛の気持ちになりきり、牧場でのんびり過ごす、穏やかな牛の姿なんかも一緒にイメージしてアーサナを深めていけば、それだけでも、まるでその牛の"慈悲"に包まれたように、自分の気持ちは安らいでくるし、また、穏やかな落ち着きの中で、思いやりとは何だろう、優しさとは何だろう、慈悲とは何だろうと、それらについて、自らの考えを深めていくきっかけにもなります。

因みに、ヨガで慈悲というと、それに直結するチャクラとして、胸元にあるアナハタチャクラがあるので、このように、その動物から連想される、何かのキーワードをきっかけにして、"チャクラ"と呼ばれるような、ヨガの精神世界への関心を深めていくのも、アーサーナの楽しみ方の一つといえるかもしれません。

また、このアーサナは、片手づつ、それぞれ上と下から手を背中に回したところで、上下に握手をするように繋ぎ合わせていくのが特徴になります。

例えば、背中という見えざる世界の空間を、瞼を閉じた心の眼で捉え、また、それぞれの手には、理想や現実、陰と陽、心と身体等、内に潜在する2極の力をイメージし、更にはそれらを、互いに、握り繋ぎ合わせる事によって、より1つの大きな力へと調和をさせていきます。(イメージの一例です!)

潜在とか、見えざると言うと、これもまた少し怪しくなるのですが・・、

それらを意識する事は、実際"集中力"というような身近な力にも関わり、イメージや想像を深める事は"感性"や"感覚"といった右脳に関わる領域へ働きかけ、そしてそれらを論理的でなくとも言語化してみたり、こうやって文章で書き記したり等すれば、それは左脳に関わる領域へも働きかけてくれます。

他にも、アーサナの実践は、何度も繰り返す事により、その副産物として、身体機能の向上や改善という、素晴らしき恩恵得られる事も出来ます。

例えばゴームックアサナで言えば、まずは肩周りの柔軟性向上、歪み改善、胸を開く形になるので猫背解消等による姿勢改善があげられ、また坐法としてとる、ダャーナ・ヴェーラサナと呼ばれる膝を縦に並べて足を組む座り方は、骨盤の歪みを調整し、腰痛改善等にも効果が期待されます。

ここまで上げたものは、極々ほんの一例にしか過ぎないのですが、その他諸々、このようにアーサナ一つから得られる智慧と恩恵の数々は、見方一つ、考え方一つ、組み合わせ次第で、無限に創出出来ると言えるでしょう。

同時にそれは、私達に、あらゆる万物その他全てのものが、自分にとってのかけがえのないグル(師)となり、例えどこに居て、どんな状況で、どんな生活をしていても、必ずどんなものからでも、学びや成長の機会は捻出できるんだという、自らの可能性を広げていく為の、より"開かれた思考"のようなものをもたらしてくれます。

自らのグル(師)として、自然界から私達に与えられる恩恵への気づきは、やがて、内から自然と湧き起こる、万物への敬いや感謝といった"祈りの言葉"、即ち、自分なりの"マントラ(真言)"へと形を変え、それらはよりパワフルなエネルギーを持って、心の奥深くへと響き渡り、自らの意識をより高い次元への変容へと導きます。

あなたが、今持っている、敬意や感謝や優しさの気持ちは、誰に向けたものですか?
その人が年上だから?先輩だから?上司だから?お客さんだから?家族だから?恋人だから?友人だから?

例え目の前にいるその人が、どんなに自分より立場や身分が低い人であったとしても、

例えその人が、どんなに自分にとって関係が無いと感じられる人であったとしても、

決してそれが支配をしたり、敬意や感謝を欠いても良いという理由などにはなりません。

自分にとってのグル(師)として、
同じ生きとし生ける、繋がりあった仲間として、

またいつ自分自身も、どんな困難に陥るか分からないという事に、想像力を働かせ、

どんなものや、どんな出来事からも、共に真似ぶ(学ぶ)という姿勢を持つ事も、アヒンサ(非暴力)やサントーシャ(知足)といった、ヨガ思想において重要な資質を高める、大切な心がけになるのではないでしょうか。


◉自問自答も、真なる"我"への気付きに

時を超え、場所を超え、現代でも様々な形式を持ってヨガは普及している中、きっと多くの方がそこからメッセージを受け取り、自身の生活へと役立てると共に、中にはそこから感じた癒しの力や教訓を通し、更に自分にとっての真理や、絶対的な答えのようなものを見つけていく方もいるかもしれません。

しかし、見失ってはならないものが一つあるとするならば、どんなにヨガの世界が魅力的で、どんなに素晴らしいヨガティーチャーから教えを受けたとしても、自分が自分らしく生きる上での本当に大切なものは、外の世界や、自分の肉体、感情の癖に左右されるものではなく、決して表には顕在する事は無いかもしれませんが、汚れや、歪みもない、素直で純粋な状態として、もっともっと奥深く、自分の内側に潜在すると言われています。

それは欲深いエネルギーを象徴するような低次元の"我"の概念としてではなく、花が花として咲くように、雲が雲として流れるように、自分が自分として生きる為の、本質としての我、即ち"真我(アートマン)"なる概念として。

ヨガの教えは素晴らしいと申し上げる事はできますが、しかし、盲信を促すかのようにそれが絶対であると断言出来るものではありません。

決してヨガの教えに囚われ過ぎる事なく、時には知識や情報からは離れ、よりフラットな状態の中で、そこに備わる、本質からの声に耳を傾けるように意識してみましょう。

私は何をしたいのか。
私はどうしたいのか。
何故今ここにいて、
何故それをして、
何故それを考え、
何故それを思うのか。

中には、苦しいと感じるような、答えのない自問自答の繰り返しもあるかもしれませんが、"我"というものの本質(本来の生命としての自分)や、この世で果たすべき役割(ダルマ、慈悲の実践等)へと向かっていく為に大切なのは、内なる自分の心と"正直(サティア)"に対話を重ねてみる事(内観)でもあります。

因みに、動から静へと向かうヨガの原則は、身体面に限らずに、心の動きもまた然りです。

例え、自己と向き合う過程の中で、周りの目を気にしたり、人と比べて、下を向いてしまうような、迷い、葛藤が"心の動"としてあったとしても、それ自体は何も問題はありません。

まるで、地水火風空、森羅万象この世の全てのものが、何一つ隔てる事ない調和の中で、お互いが縁となり、お互いを生かしあいながら、創造、維持、破壊のサイクルを繰り返していくように、

私達人間、個々の内なる万象も、楽しいや、嬉しいばかりでない、抱える弱さや、脆さや、醜さや、愚かさ等、それら遍く要素が一つに調和、共存するからこそ、打ち破られる抑圧や、新たな気づきによる視野の拡大が訪れるのではないでしょうか。

ついつい否定的で、卑屈になってしまう自分を責めてしまう事もあるかもしれませんが、まずは、十分頑張っている自分として、ありのままの自分としてそこに存在してみましょう。
 
例え、大粒の汗(身体の動き)や、
あるいは涙(心の動き)が、"動き"として顕になったとしても、

それらと共に、圧迫するものを解放(デトックス)し、心身の奥底から、スッキリとした感覚を味わうというのも、ヨガの楽しさの一つと言えるのです。

◉曖昧も迷いもYOGA is LIFEへ

ヨガをしたら、これが良くなり、こんな効果があるというのは、いくつかの研究結果や科学的根拠もありますが、ヨガの精神的な世界観は、非科学的な部分も正直多く、そこに絶対という言葉を持って、断言出来ない事も沢山あります。

もちろんヨガをしていて、身体や心で感じる癒しの部分や、健康面での効果の実感はいつも感じているのですが、それは別にヨガでなくてもいいし、現代の科学の力に頼ればむしろヨガよりも効果的な事も沢山あるかもしれません。

では何故ヨガなのだろうか、何故私はヨガが好きなのだろうかと、ずっと違和感のような物を感じながら、自分に問うていたのですが、ある時、この違和感こそに、実はヨガの魅力が沢山詰まっているのではという、新たな気付きが私に訪れました。

1+1が2になるような、決まった方程式の枠組みの中で、単純に数を重ねていくものとは違い、曖昧で不確かで、それでいてちょっと怪しい嘘臭い言葉が出て来たり、ヨガをやる時、頭の中はいつも色々なイメージや想像、自問自答が渦の様に溢れているのですが、必ずその後には、絡んだ糸が一つにスーっとほどけるように、「あぁそういう事なんだ」という気付きが生まれます。 

それは、自分でも予期せぬ、新たな自分を発見する手助けとなる事もあれば、一周まわって、またそこに戻ってくるように、その気付きにより、そこで自分という人間を改めて再確認する事も少なくありません。

因みにアーサナ(体位法)やプラーナヤーマ(呼吸法及び、生命エネルギーの拡張)も、本来そんな自分自身(本質としての自分)との対話(繋がり)の為のツールとして存在しています。
 
諸行無常。時や物事は常に流れ続けている以上、私達の体や心の状態は、昨日と今日、極端に言えば1秒単位でさえ全く同じという事はありません。同じアーサナ一つとっても、その日の体調や気分によって、体への感じ方は異なる中、その瞬間々々得られる気付きは無限に含まれており、そこで私達が感じる事の出来る小さな気付きの連続は、いずれ内側に潜在する、自分の本質へと向かう大きな気付きへと繋がっていくのです。

始めはこういった曖昧な感覚や表現が、迷いのような形で、不安をもたらし、意識のベクトルの先もバラバラと、統一を欠いたものになるかもしれませんが、何度も繰り返し実践とイメージを重ねる事で、コンパスの針が自然と北側へと導かれるように、あちこち向いた矢印の先が自然にクルリと自分の方に向いてくる、そんな感覚を自在に感じられるようになると思います。

また、人によってはそんな気づきを繋げ、イメージの世界を広げながら、アーサナを身体表現として楽しんだり、音を奏でたり、絵を描いたり、句を詠ったり、まるで芸術を楽しむような感覚で、より現代的にヨガを楽しむ事も出来るかと思います。

あるいは、もう少し気軽に、日々の体調管理の一環として、ストレッチやフィットネスの延長として、楽しみたい方もいるかもしれません。

そんな私自身も、身体を動かす事は大好きなので、もちろんフィットネス的にもヨガを楽しみますし、またアーサナ実践中の怪我のリスクや、八支則(ヨガの学びの八つの段階)の流れ、あるいは前述した心身一如の視点を踏まえてみても、やはり解剖学的アプローチによる身体感覚の統制をおざなりにして、その先の更に精妙な"心の制御"へと向かう事は、決して容易な事では無いと思います。

最後に、ここまでつらつらと書き連ねては来ましたが、ヨガに関心がある方も無い方も、何か重要な目的を見つけた方も、そうで無い方も、ヨガを始めるのに、人に熱く語らなければならないような、特別な動機やきっかけは、決して必要ではありません。

何だかんだヨガで言っている事が全て正しいなんて事もありませんし、そこで強制されるものも、束縛されるものもなく、誰かと比べずに、自分のペースで自由に楽しむ事が出来る柔軟性こそ、またヨガの大きな魅力の一つであります。

実際、伝統式、現代式問わず、ヨガのジャンルは山ほど現存し、ヨガ=生きる事という大きなテーマ中では、自分が悩んでいたり、陥っているもの、または自分が好きなもの等、何でもいいから最後に「ヨガ」をつけて、"○○ヨガ"と名前をつければ、それはもう立派なその人にとっての、オンリーワンヨガであって、それこそ自分の名付けた○○ヨガを通して、人生に無駄な事は無いという事を、自らの実感として得ていく事も、充分可能となるのではないでしょうか。

そして、最後の最後に、メッセージとしてこの言葉を。

「YOGA is LIFE(生きる事)」
人の数だけ人生があれば、きっと人の数だけヨガも存在する。

まるで、さえずるような小さな鳥が、大きな羽根を広げて、優雅に空を舞うように、

まるで、1本の木が枝葉を自在に空へと伸ばし、幾多の花の姿を表現しているように、

私達一人一人が刻む、どんな小さな意志や選択も、全ては一如に繋がり(yuj)合う、この地球という大きな舞台の上で、かけがえない、唯一無二の"生命(ヨガ)のリズム"として躍動していくのです。

現状、私自身のヨガの学びや活動を紹介するに留まってはおりますが、皆さんが、まるで太陽に向かい力強く幹を伸ばす、向日葵のように、迷い無く、自信を持って、壮大なる"人生(ヨガ)"という名の音色を、縦横無尽に響かしていく事を心より願い、微力ながらではありますが、これからも、ヨガについての魅力を伝えていけたらと思っております。

(関連記事)