始まりの余韻


それは、少し遠くの方にぼんやり見えてる時が一番恐ろしく、真近ではっきり見えている時というのは、意外と落ち着いていたりもする。

何故なら、目の前まで来た時点で、視線は背ける事が出来なくなり、気持ちは半ば諦めるように、開き直る事しか出来なくなるからである。

また、時々遠くでぼんやり見えていたものが、急に丁度ピントが合うようにして、はっきりとそれを"捉えられてしまう"時がある。

それは、別に見たくないのだが、見えてしまうという具合に、自分にとっては不本意な事であり、やはりその時はとても怖い。

しかし、本来なら自分にとって望ましくないはずのその状況が、はっきりとより鮮明でリアルになりきった所で、私はそこに"悪くない兆候"のようなものを感じとる事が出来る。

それはこれまでの経験則によるものが大きいのだが、過去に似たような感覚に陥った時に、その後から様々な事が少しづつ好転する事があったからだ。

過去のものは、今回のものとは全く質が違うので、比べる対象になるものではないし、その時は、過去の経験がどうとか振り返るものも無かった分、その感覚にもより"純粋性"が存在する。

特に、気付きや閃きにおいてこの"純粋性"というのは非常に大切なキーワードとなり、少しでも打算や計算等濁った部分が加わると、今回の気付きも根本から覆される可能性がある。

また、こうやって何となく分析しながら解釈している事を考えれば、自分が何とか納得できる終着点に、強引なルートを辿りながら、無理矢理辿りつかそうとしているだけなのではとも考えてしまう。

しかし、一瞬でも感じたその"悪くない兆候"という心の動きは、確かに今の自分の純粋な所から来たものであり、また人生というのは後々振り返ってみると、どんな小さな欠片のようなものでさえ、一見するとバラバラでありながら、実はそれら一つ一つは全体を構成するピースであって、粒子のような微細な欠片の全てが、パズルのように一つに繋がる事があるというのを知っている。

だからこそ、今回生じたこの粒のような小さな心の動きも、どこか大きな揺れの余震の一つのように感じて、完全には無視しきれない所があるのだ。

この世の全ては、常に"AUM"の波動があらわす創造、維持、破壊のサイクルで繰り返され、現象というものも何も無い所から急に、ボンっと何かが出現し、何も無かったかのように、スッとそれが消える事もなく、必ずその前後には、始まりの余韻や、終わりの余韻、または曖昧な境界のようなものが存在する。

それは馴染みのある言葉でいうと、縁起やジンクス、あるいはスポーツの試合等でも使われる"流れ"といった言葉にも繋がると思うのだが、占いや未来予知なんかも、起こるであろうと予想する現象の予兆として、こういう"始まりの余韻"めいたものを、一つの根拠としているのではと個人的には思っている。

今回感じた小さな心の動きもまた、きっとこれからの"始まりの余韻"となり、そこを起点に今後何かが好転する事があったとしても、それは決して不思議な事ではないだろう。

最後になるが、今回見える見えないと言っているものが何なのかというのは、特には言及しない。答えを言ったら、あぁ何だそんなつまらない事かと思うだろうし、そんなどうでもないような事を、どうしようもなく書いている自分が何となく気恥ずかしいからである。

また、いつもこういう事を書く時は、掴みどころの無い心に生じた精妙な動きの部分を、半分メモのような形で、自分の為に何か残して置きたいという気持ちから書いていたりもするので、あまり情報としての価値はないが了承をして頂きたい。

YOGA INCLUSIVE

大地と共に、力強く。 見上げた空の如く、鮮やかで美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花" その実は、今ここに成る。 全ては認め、愛され、 そして受容されながら。

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