「もしあなたが神様だとしたら」

「もしあなたが神様だとしたら」

この仮定の中では、神としてのあなたははどんな事も創造できる力を宿し、どんな困っている人も助けられます。

でも助けられる人は1人だけ。
例え同じように100人助けたいと思う人がいても、選べるのは一人のみです。
(神様という言葉も一例なので、こういうシチュエーションになったらというあくまでも仮定の話しです!)

あなたが選んだその一人は助かり、
残りの99人は助かりはしませんが、あなたが選ばなかった事を要因として、その99人の人生に、何か影響を与えるという事はなく、どういう選択をしても、誰に対して平等も不平等も無ければ、神としてのあなたの選択は正しいものとして尊重され、それに対して残りの99人があなたに対し何か恨みの感情を持つ事もありません。

皆同じように、何かしらの苦しみを持ち、皆そこで同じようにあがいています。

そして神様はその人の過去から現在に至るまでの全ての行いも、心の中の想念も、良いところも、悪い所も、全てを見通し、全てを知っています。

あなたは、一体何を決め手にその1人を選ぶでしょうか?

また、もしそんな神としてのあなたの前に、困った状況に窮する人間としてのあなたが目の前にいたら、あなたは自信と確信を持ってあなたを助けたいと思いますか?

神とか、救いとか書くと、何か宗教的な感じもするのですが、この話しは以前私が人から聞いた話しで、その方は自分が人生に迷った時に、こんな感じで問答をしながら、自分の進むべき道(どんな人の役に立ちたいか)や、あるべき姿を見つける事が出来、また日頃の自分の行いや、振る舞い等を見つめ直す事が出来たとお話ししてくれました。

人間、疲れやストレスが溜まって、悲しい気持ちになったり、自分を見失いがちになってくると、どうしても自分の考えや感情にも自信を持つ事が出来なくて、段々と全ての物事に対して否定的に捉えるようになりがちです。また、考える視野や思考の幅も狭くなり、大きく広い視野で物事を考える事自体が苦しく、自分には不相応な事だと罪悪感のように感じる事もあるかと思います。

でも、このお話を聞いて私が感じたのは、
「もし例えば」いう仮定の中であれば、あまり負担に思う事なく、神という大きな視点から自然と心のブロックを外し、自分の沸き起こる考えや感情を俯瞰的に捉えやすくなるなという事です。何故なら何を考えても、何を感じたとしても、それはあくまでも「もし例えば」の世界で自分が考えた、全て仮定の話しになるので別に気にする必要もありませんし、自分が考えた事だけど、自分が考えた事ではないと、割り切りや無責任でいられる感情も作りやすいと思います。

この方は、自己と向き合う過程の中で、たまたま「もし例えば」という言葉と「もし自分が神様だったら」という閃きに辿り着き、それがその時の自分の状態にたまたま上手いことマッチした事で、生き方や自分の在り方の方向性を、自分の内側からの気付きとして得る事が出来た訳ですが、こういうバラバラだったベクトルを同じ方向にむけ直す感覚を、どういったものから得られるかというのは、人によってまさにそれぞれです。

因みに神様というフレーズが出たから言いますと、私は正直、神様系の話の類はヨガの学びの中でもあまり得意な方ではなく、色々なものに神のような崇高な存在が宿っている感覚や、祈りの感覚や敬いや感謝の感覚は自然に持てるのですが、「〜神」みたいに名前がついたり、絵や像等で「これがその〜神です」みたいな形を見たりすると、す〜っと気持ちが引いてしまう所があります。
(未だに「シヴァ」や「シャクティ」というヨガではかなりメジャー所の神様の事を言われても、神様と言われているからそれを神様の名前としては認識するけど、それ以上でも、それ以下でも無いという感覚のままです)

なので内省をしていても、目に見えない力にすがろうとする事はあっても、漠然とした感じでしか、神様という存在を感じとる事が出来ないので、自在神の感覚も乏しいし、「〜の神様お助け下さい」と、具体的に神様の名前を出してお祈りする事も苦手です。人によっては、神様や精霊や守護神といった存在からのメッセージを、直接聞く事が出来るという方もいるとは思うのですが、私の場合はどちらかというと因果応報、カルマの法則やそれを含めた仏教的な思想から自分を見つめていく方が、自然と内側の自分と向き合う感覚は深まります。

またヨガのクラスの最後にはシャバアーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる、完全にリラックスをした状態て仰向けなる、深い瞑想に向かっていくアーサナを行います。内観と瞑想は、お互い目的や本質は近くて似てるようではありますが、私の中では若干違う感じがあり、内観が自分の内面を観察したり対話をしていく感じなのに対して、瞑想はより無に近い形でより深く潜在意識に向かっていく感じになります(語尾に〜な感じが多いですね・・)

このシャバアーサナと呼ばれる究極の瞑想法であっても、横になってリラクゼーションの延長からそのまま吸い込まれるように内に入っていく事が可能な方もいれば、人によってはそこから自然や宇宙のように、より高次な広い感覚から内側の小さな一点に向かう人もいるし、あるいは愛とか癒しとかの、何かに包まれているような安心感の感覚から、気持ちや思考の波が収束へと向かい、そこから内側へと入る人もいるだろうし、または、知の部分からあえて脳内で考える動の部分を作ってから、思考を手放すようにして、静なる状態に向かう人もいると思います。

この辺の動きも私は、自分では上手くコントロール出来ない所があるので、シャバアーサナでもずっと外側の意識をボーっと漂っているだけの事もあるし、結構な割合でそのまま寝てしまう事も多いです。上手く内に入っていけたとしても、何がきっかけでとかはその時によって全然違ったりするし、偶然的な要素もかなり多いです。

また、閉じた瞼の奥の闇の世界に、急に宇宙が広がるような感覚が訪れたり、眉間やおヘソ辺りは、渦(チャクラ)ようにグルグル周る事があります(それ以外のチャクラは全く感じた事がありません)。チャクラはそれぞれ場所毎に色々な意味があるのですが、正直渦が回っている感覚だけで、そこから何か力が湧いてきたり、気付きが降りてきたりとかは無く、どうして今ここが回るのだろうと、いつも疑問を残すのですが、それでも深く瞑想に向かえている証拠として悪い感覚は無く、覚醒後もやはり、スッキリした感じはあります。

色々と書きましたが、こんな風にどんな事でもいいので、何かの言葉や、環境、匂いやサウンド、考え方、スピリチュアル視点等、どういう所から自分が内側の潜在意識に入りやすいかという各々の感覚を、他人と共有していくのも、瞑想や内観を深める学びとして有意義なものになると思います。知恵として語り継がれるテクニック的な事でもいいし、自分の感覚やイメージの事でもいいし、哲学的に思考を深めながらでもいいし。

普段の生活だと「愛」とか「平和」とか「神」とか「エネルギー」とか「チャクラ」とか「宇宙」とか「〜教」とかそんな話しをすると、少し怪しい感じもして、周りの人もビックリしてしまうかもしれませんが、こういう事をためらわずに、感じた事や、浮かんだ事、考えた事、気づいた事、疑問に思った事を自由に話せる場があったとしてもいいと思います。何故なら、その中から得た気付きの価値は、どんなに沢山本を読んだり、インターネットで調べたとしても得られるものではないし、シェアの価値がとても高いものだからです。

頭の中で浮かんだ疑問の「?」は、どんなに些細な事でも、それは閃きと発見の大きな「!」に繋がります。実際小さな子供の成長なんかは毎日これの積み重ねです。ある程度ヨガのレッスンを受けて、技術や知識を習得したら、一度子どものように「何でこれは白いの?」「何でこれは丸いの?」といったシンプルな観点に戻りながら、習得した事に対する内なる声に耳を傾けていく事をおすすめします。「もし例えば」という小さな疑問から「自分が神様だったら」と子どものような想像を膨らませ、そこから人生の大きな気付きを得た前述のエピソードの方のように、思わぬ所から内観や瞑想が深まり、思わぬ気付きを得るなんて事も十分にあるし、自分の内側から得た気付きに優る学びはやっぱりありません。 

更にこの話しで言えば、ヨガの学びの段階八支側の二ヤマの中には、自在神祈念という言葉もありますし、また私達一人一人が宇宙の創造主なんだ、という考え方もあるので、「もし例えば」の仮定から入って、本当に自分の内側に神様を見いだしても、何ら大げさな事でもなく、もしその感覚が訪れたとするならば、それはヨガの目的の一つである梵我一如に向かう、凄く大きな飛躍だと思います。

何がきっかけになって、どこに飛躍するかなんて事は本当に分からないし、それは生きるという営み全てにおいて言える事です。根拠はなくても、こればかりは本当に予測がつかないので、だからどんな事も可能性を排除する事もないし、小さな気付きも無駄にする事もないし、今日何もなくても、明日偶然何かあるかもしれなくて、その何かを分岐点にして、人生が大きな飛躍へ向かっても全く不思議ではありません。智慧として獲得した、アーサナや呼吸法の技術も活用しながら、日々どんな状況でも偏りや歪みの少ない素直で純粋な状態を保ち、常にそれを自分のニュートラルとして保ち続ける事ができたならば、綺麗に整った部屋程小さなチリやホコリが目につくのと似た感じで、それこそ些細な気付きなんていくらでも見つけられると思うし(チリやホコリに例えると少し汚い感じがしますが・・)、それだけ人生を好転、飛躍させるきっかけも沢山あるという事に繋がります。

心身の不快感に気をとられて、そんな大切な気付きを逃してしまうのであれは、不安や寂しさも、悔しさも一旦は胸にしまい内に秘め、その瞬間出来る事は、兎にも角にもまずはやはりマットを敷いて実践を重ね、心身のバランスの調和を図るのみなのかなと思います。

ダラダラと書いて、無理矢理な感じもありますが、結局最後は凄くシンプルな所に着地した感じがします。それだけ色々な揺れが自分の中にあるという事なのかもしれません。

YOGA INCLUSIVE

大地と共に、力強く。 見上げた空の如く、鮮やかに美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花" その実は、今ここに成る。 全ては認め、愛され、 そして受容されながら。

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