Yoga is life〜あなたは何ヨガ?〜

時間の経過と共に、そのまま全ての泥は置き去りにされ蓄積される。時間は万能に何でも解決してくれるわけではなく、時という乗り物に乗り、景色を変えながらただ一緒に移動してきただけで、まるまる何も変わっていない所か、山のように蓄積されては、更なる膨張を繰り返す。ボタン一つで、排水溝から水を流すように、泥の全てを一気に排出して終わりに出来たらどんなに楽かと思うけど、考えても考えてもどうにかならずここまで来ているのに、最後にちょっと足掻いたところでどうにかなる訳でもなく、そんな簡単にしつこく蔓延る濁りが綺麗サッパリ澄み渡っていく訳がない。

そして結局の所ヨガに限った話ではなかったりもするのだが、まるで亀を追うアキレスのように、私がどんなに追いかけても追いつかない所で、多くの人はずっと先に進んだ所て"生きる"という事を捉えていて、私がどんなに考えても、分からない事を、多くの人は備えたものとして持ち、常に一歩進んだ所から"どう生きるか"を深めているように感じてしまう。

もし蓄積して膨張する泥から上がり、綺麗に明るい所に花を咲かしたいと思うのであれば、やはりヨガであろうが何であろうがもう一つ太い覚悟が無いと、恐らく進めば進むほど苦しくなるだろうし、ただ襲ってくる感情の波に飲み込まれていくだけで、このままだと更に、ヨガをして手放したい、回避したいと思っていた側の方へと、逆にどんどんと進んでいってしまうだろう。

今は考えれば考える程、色々な事が目に入ってきては心も乱され、渦の幅も更に拡大していく。だから、あまり好ましくない事を承知しながらも、どうしてもこういう嫌な気が充満した卑屈じみた文章になってしまう。

それでもなお、何故ヨガというジャンルの中でこんな事を書いているかと言われれば、即ちそれは生きる事=ヨガという大きなテーマの中で、こういう心の揺れと向き合いながら、それを超えた所を真理として追求し、最終的には到達を目指していくという事が、ヨガの大きな目的として存在するからであり、人生にあがいているようなまさにその状態というのも、実は真理に向かいヨガを深めている、大切なプロセスそのものであったりするのだ。

人間誰だって、おおらかで、爽やかで、前向きで、波の無い穏やかな状態が望ましい事なんて分かっているし、愚痴ったり卑屈になる事の自分や周りへの悪影響だって知っている。それでも生きていればどうしたって下しか向く事が出来なかったり、目標なんて持てずに、泥の中であがいて、もがく事しか出来ない事も沢山あれば、人に蔑まれ、みじめな思いをし、泥面の向こうで咲く花を見て嫉妬に狂い劣等感に苛まれ、そんな自分に対し、自分で自分を軽蔑しては辟易とする事だってある。

その都度悔しい思いをしたり、自分で自分を責める事しか出来なくなれば、誰だって気持ちは行き場を失くして迷子になる事もあるけれど、それでも無理にでも上を見上げて、前に進む事を求められる中で、悲しむ事も、迷う事も、泣く事も、全てが弱気だ、ネガティブだ、陰気だと思われているような気がして余計に苦しくなるのなら、だったらせめて、ヨガという時間に浸っている間位は、思う存分、安心して落ち込んで、抗って、比べて、嫉妬して、憎んで、悔やんで、後ろを向いて、下を向いて、沢山泣いたっていいはずだ。

世の中で認められたり、成功したり、人に喜ばれるのは、例えば前向きで、芯が通っていて、志があったり、行動力があったり、心身共に健やかであったり、逆境でも負けないとか、誰よりも努力をしているとか、そういう生きるエネルギーに溢れている人だったりするかもしれないけれど、でも人を傷つけないように留意した中、愚痴ってもいいというあえて設けたその為の時間と場所の中で、愚痴りたくなったらどんどん愚痴って、溜め込む毒や泥は吐き出し、沢山泣いてスッキリさせたら、例えそれが無知であろうとも、例えそれが愚かであろうとも、その隙間の影から穏やかで波の無い景色だって、その内見えてくる事もあるかもしれない。

ヨガ=清澄、寂静、解放、至福、慈愛・・等々、ヨガでよくあるそんなイメージも、それらは到達するものと考えれば、途中経過で無理して、爽やかに、清らかに、穏やかでいるイメージばかりを作り上げていく必要も無いと思うし、例えばヨガの代表的なアーサナである蓮華座にしても、あれだって本来なら咲いている蓮の花をイメージしているのかもしれないけれど、咲いている花や、咲かそうと芽を出しているものばかりが、花ではないのだから、咲かない苦しみや、咲かす事にエネルギーを注げない苦しみ、他の咲いている花の事が気になる心の苦しみ等を瞑想によって鎮めるという事を目標として、逆に咲いていない花のイメージから姿勢をとる事も一つのアプローチであると思う。

その過程で、なんで、どうしてと不満が募ったり、悔しさや嫉妬に潰されそうになったり、それが口から愚痴として排出されて、感情が溢れて泣いたって、闇があるから光があり、涙があるから笑顔があり、揺れがあるからニュートラルがあり、こういった原則の中で、たった一つの本質としての自分や、真理を見つけそれに向かっていくのがヨガと言えるのだから、例え愚痴であろうが何であろうが、それらもまた瞑想状態へと向かい、悟りに到達する一つのプロセスだと捉えていいはずだ。

結局グルリと遠回りしながら、また自分に都合よく、揺れる煩悩についての解釈をしているようだけど、あえてこれに現代式っぽく新しく名前を付けるとしたならば「愚痴ヨガ」とでも名付けてみようか。

愚痴る事も簡単な人には凄く簡単な事かもしれないけれど、適度な毒抜きとして上手く自分をコントロールする術として、器用にそれが出来る人と出来ない人とが実際にはいたりするし、無理に頑張ろうとしたり、無理に笑顔でいようとしたりする中で、人によっては何かに依存して、自分の健康を害する形でバランスを取っている人も沢山いる。だからそうなる前の段階として、最近あった嫌な事や、頭に来た事、嫉妬した事等何でもいいので、体と心に溜まった邪気や泥のようなものを払うように、書いてでも、口に出してでも、動いてでも何でもいいから、自分の意志と選択であえてそれらを外に出していくイメージでヨガをしてみたら、また違う観点から案外とスッキリした感覚を得られるかもしれない。

伝統式にも、現代式にも、ヨガのジャンルは山ほど現存すると思うけど、せっかくヨガ=生きる事という大きなテーマがあるのだから、自分が悩んでいたり、考えていたり、陥っていたりするものに、何でもいいからこうやって最後に「ヨガ」をつけて、"○○ヨガ"って名前をつけたら、それはもう立派なその人にとってのオンリーワンヨガだし、それこそ自分の名付けた○○ヨガを通して、人生に無駄な事は無いという事を、自らの実感として得られるのではないだろうか。

人の数だけ人生があれば、きっと人の数だけヨガが存在する。私にとってのオンリーワンヨガだって必ずあるはずだし、誰にもそれはきっとある。そしていつか、人生に迷う目の前のその人にとっての唯一無二のオンリーワンヨガを、ヨガティーチャーとして導く事が出来たのなら、きっとYOGAを通したINCLUSIVEにも向かっていく事が出来るだろう。

なんだかんだヨガだからこそ、これが出来る無限の可能性を秘めていると思うし、だからこそ私はなんだかんだヨガについて考えるし、だからこそ私はなんだかんだヨガの魅力に惹かれてしまうのだ。



Yoga Inclusive

決まった形も無い。囚われも無い。 泉のように湧きおこるその"慧"の力は、 無数の"言の葉"となりながら、 紡ぎ繋がり大きく広がっていく。 根を張り、大地と繋がり、力強く。 見上げた空の如く鮮やかで、美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花"。 その実は、今ここに成っている。 全ては認め、愛され、受容されながら。

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