我気づく故に
それは不安?心配?怖い?
ここは夢なの?現実なの?
あっちの自分がこう言えば、
こっちの自分がこう言い返し、
混在する意識の中で、色々な自分が自分を惑わしてくる。
頭の中で思考する自分も、
心の中で感じる自分も、
鏡に映る自分も、
そのどれもが自分の筈なのに、
そのどれもが自分ではないように感じたり、
または目の前の出来事全てが自分の事なのに、その全てが他人事のように感じ、
それが全てではない筈の事を、まるでそれが全てのように感じて、必要以上にそれに囚われてしまったり。
気づけば何も変わっていないどころか、いつまで経っても前には進まず停滞し、まるで、自分自身がそうなる事を望んでいるかのように、すすんでで後退する。
まさに自滅の苦しみだ。
どうしてそっちを選び、どうしてそっちに向かうのか?
自分は一体誰と何の問答を続けているのだろうか?
誰か私を導いて欲しい。
そして誰か私に教えて欲しい、
本当の私というものを。
停滞する自分は、ただの臆病で、弱気にしか過ぎないのかもしれないけれど、
自分は何をしたいのか、
自分はどうしたいのか、
何故今ここにいて、
何故それをして、
何故それを考え、
何故それを思うのか、
怖くて、不安で、心配で、どうしても最後に、そんな真の"我"からの気付きを、慎重に確かめながらでないと、その一歩さえ踏み出す事に躊躇ってしまう事が多々生じてしまう。
結局、仏教的に無我の境地なんて、現在地からしたら程遠く、結局"我"への執着だって手放す事が出来ていないかもしれない。
それでも、ヨガの思想が
ちゃんと私に教えてくれていたりもする事がある。
"我"はみんなにあるんですよと。
それは、我儘や我が強いといった、欲深いエネルギーを象徴するような低次元の"我"の概念としてではなく、
"花が花として咲くように"
"雲が雲として流れるように"
そして自分が自分として生きる為の、本質としての我、即ち真我(アートマン)なる概念として。
我とは何か?
それはあるのか無いのか?
無我?真我?アートマン?
時には、答えの無い永遠不変の大きなテーマを前に、そんな渦巻く思考に翻弄されていく事もあるかもしれない。
でも、唯一無二、たった一つの真なる我が、常にそこにあるのだとしたら、
どれだけ幾多の我が、あらゆる言葉で自分を翻弄し、心を迷わせ、苦しめようとも、
そんな錯覚としての''我"に、あれやこれやと翻弄されてしまう必要なんて本来どこにもないし、
それらは結局、視界を曇らす闇の中に作り出された、いくつものマーヤー(幻想)のようなものにしか過ぎないのだ。
我思う故に我あり。
我思う故の我は、確かにそこにあるのかもしれないけれど、でも、我思う故の我を、どこまでも追い続けていく事は、はっきり言ってキリが無い事だとも思うし、
時には、閃きや覚醒、そんな言葉を頼りにしながら、内から湧く"我からの気付き"を静かに待ち続けてみるのもいいかもしれない。
慌てる事も、
また、焦る事もあるかもしれないけれど、
でもそれは、決してこちらから無理して追わずもがな、自然と向こうからやってきては、
無知なる心の影を照らし、
ありのままの姿を明らかにし、
自分の中の偏りも、盲信も、
そして、そこに陥る自分が本当の自分ではないという、それら幻想のように揺らぐ灯火さえも、
"我気付く故に"
いつでも、優しく吹き消していってくれるのだから。
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