"心の制御"から考える事・・

ヨガの聖者パタンジャリは、ヨガスートラ(2〜4世紀頃にによって編纂されたヨガの古典聖典)の冒頭にこう定義する。「ヨーガとは心の働きを制御することである」と。

108個と区切られる煩悩の数しかり、これは、いつもいつも私自身も感じる事として、人の心というのは、そのもの自体がガラスのように脆く儚く影響を受けやすく、常に翻弄しやすい性質を持つ。

いつまでも尽きる事のない欲への執着や貪り、他人と自分を比較しての慢心や嫉妬に、怒りや、恨みや、焦りや、不安に、寂しさ、孤独。どんなに自分で整えたと思ったところで、安易にただのループの一つの過程を、まるでそれが全ての事と錯覚しては、物事の本質全体を、ありのままに正しく観る事には誠に乏しく、直ぐに翻弄されては、直ぐに大きく崩れていく。

煩悩と呼ばれる心の揺れの中でも、代表する3つの根本を"心の3毒(貪・瞋・痴)"とも称するように、心に生じた小さな毒は、苦や楽、喜や憂など相対する2極のものに揺さぶられ、その間を何度もしつこく往復しながら、全身を蝕むように、揺れ幅を広げて蔓延し、頭の中では分かったつもりでいながら、どうしても同じ事を繰り返すように自らその毒の方に向かっては、何度も同じ苦しみに陥っていく。

心の制御を見失い、そのループに一旦はまったならば、"苦楽一如"そんな当たり前の原則すら、頭から抜け落ちたように分からなくなり、喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、全ては表裏一体、全ては繋がり何の区別もあるものではないのに、苦に偏れば、苦が自分の全てと錯覚しながら、全ての物事を悲観的にしか捉えられなくなる。

"全ての物事が"と書くと極端な感じに受け取る方もいるかもしれないが、いわゆる"鬱病"という言葉を思い出して頂くと分かりやすいように、実際この鬱状態の酷い時というのは、まさに"全ての物事"が悲観的な心の眼でしか物事を捉えられなくなってしまう。それは目に写るもの、耳に入るものに限った事ではなく、自分という存在に対してもそうであり、何か悪いことをした訳でもないのに、自分の存在がそこにあること自体に罪悪感を感じたり、誰かと自分を必要以上に比べては、自分はなんて駄目な人間だと卑屈になる。

また楽に偏り、喜びや楽しさ側が全てになれば、これもまた精神医学の中では躁状態と病名が尽くように、心の状態としては健全な状態ではないとされている。喜びが幸せに繋がり、楽しさがやる気や自信に繋がれど、これらもいきすぎると、いわゆる誇大妄想と呼ばれるような、自分は全知全能神のように何でも出来ると妄想したり、気持ちの高揚から、度を超えた形で多動多弁になったり、あるいは他者に対しての傲慢なる態度や言動を引き起こす事もある。また寝る間を惜しみ、自分のリミットを外しエネルギーを費やし続け、その後まるでバーンアウトするように、一気に反対側の鬱状態の方へと引きずり込まれてしまう事もあるのだから、これもやはりまた病理的であると言わざるを得ない。

こんな風に揺れては崩れる心を、パタンジャリはどう制御するというのだろうか?
心を落ち着かせる事や、心を知る事や、心を考える事を超えて、自らそれを制御させるなんて、そんな事が果たして本当に可能なのだろうか?それが実現したら、まさに怖いものなんて何も無い。何故なら怖いも不安も何も、制御出来てしまうのだから。

正直、心の揺れには散々翻弄されまくりの私には、どこかでまだ制御なんて簡単に出来る訳がないという気持ちもあるし、未だにそんな事出来るわけないと、疑いの気持ちが生まれる事もある。

それでもその事に疑いはありながらも、それがいい意味での知的好奇心をくすぐる形となったり、ヨガにはアーサナはじめ実践的なアプローチも沢山あるので、心の動きの事を抜きにしても、それ自体が技術の探求として夢中になれる要素もあり、一つ一つ実践を積み重ねていきながら進めていける事も、私にとっては魅力の一つとなっている。

また、パタンジャリが言う心の制御された状態というのは、決してヨガの行法中、常に制御が出来ていなければならないという意味合いで使われているものでもなく、ヨガの最終目標である悟りの要素の一つとして、到達を目指すものとして、そこに存在する。

なので実際の実践の中では、もし自分と向き合う過程の中で、心が揺れて乱れて苦しんだとしても、不安は不安として自分の内から湧くものとして受け取りながら、決してまたそれに囚われすぎる事もなく、どこか客観的な視点も持ち合わせながら、その心の動き自体を、悟りへ向かう歓迎すべき一つのプロセスとして捉える事も出来るし、まだ悟りに到達していない以上、むしろ制御が出来ていないと感じる事の方が、私達にとっては自然な心の状態であるとも考えられる。

ヨガの歴史はとても長く深い。
時を遡る事インダス文明の時代(約4000年前)、出土品にヨガの行法をらしきものを行う人物の姿が描かれていた事から、その時代が最も古いヨガの起源として推察されている。

時代を超え、場所が変わり、どんなに時が進み、どんなに科学が発展し、どんなに物質的な豊かさと、安全基準が確立されようとも、それがそのままイコールで人の心の豊かさ、落ち着き、余裕に繋がらないのは、経済先進国でもある、我が国日本の抱える社会病理の根深さや、高い推移を保つ自殺率のデータ等を見てもまさに一目瞭然でもあり、ヨガがこれだけの長い時間を経てもなお、"心の制御"を目的として、多くの人に求められ続ける背景は、それだけ人が心の揺れに迷い苦しみ、それに対して何とかしたいと葛藤をする事が、科学経済の発展とは関係なく、人類にとっての永遠不変な絶対的テーマとして、常にそこにあり続けているという事を如実に物語っている。

人生山あり谷あり、心に迷いを抱え、困難を乗り越えながら、力強く生きていくには、分かりやすい強さや、前向きさは絶対必要不可欠な事であり、強くないと、前を向かないと、笑顔でいないと、目標を持たないと生きていく事が困難なのが、世の中の現実とも言える。

だからこそ、それが望まれ、求められ、そして教え、教えられ、また自分自身も必死に強くあろうと気持ちを奮い立たす。しかし実際には、ヨガの長い歴史が物語るように、そういられない現実が永遠不変にそこにある中、そのギャップが逆に、更なる自分の感情の抑圧やストレスを引き起こし、またそこで新たな苦しみのループを続けてしまう事も招きかねない。

後退して停滞と感じられる時間には、スポットライトを浴び、活躍する人を横目に、自分の不甲斐なさや、嫉妬に胸が締め付けられる事も沢山ある。それでも、それを分かっていながら、どうにかならない葛藤の中で、足掻いて、もがいて皆んなが十分に頑張って生きていて、皆んながそこに美しく咲いているのだから、例えどんな心の状態で、どんな心の動きが生じようとも、本来ならもうそれで十分、それらは全て受容(inclusive)され、そこに判断も評価も選択だって存在はし得ないはずなのだ。

"動から静へ"と向かうヨガの原則は、それは心の動きもまた然りである。だからこそ、無理をしたり我慢をして、泰然自若、別に強くあろうとしなくてもいいし、後退したって、混乱したって、卑屈になったって問題無い。十分頑張っている自分として、ありのままの自分としてそこに存在し、自らの心の動き、即ち"心の動"に意識を委ね、圧迫するものを解放しながら"心の静"に向かっていく、これがまた私にとってのヨガの解釈の一つとも言える。

これは別に卑屈になって自分を卑下している訳ではないのだが、あくまでも客観的な視点から見ても、現状私自身に、まだその解釈までヨガを深められるだけの知識や技術も、学びの量も、器の広い人間性も兼ね備えられてはいない。

それはレッスンをするとなればなおさら、その理想から極めて遠く離れた所から、それこそ誇大妄想ばりに、頭の中の妄想を論じているにしか過ぎず、先の未来を誇大して妄想する前に、まずは足元見つめて、しっかり大地に根を張る事が必要先決で大切な事であると思う。

それでも書店に行けばヨガの本は、ズラリと並び、ネットで検索すれば情報も簡単に手に入り、スポーツジムでもヨガのスタジオだって駅の近くに沢山あって、公民館や、カルチャーセンター、至るとこでヨガは学べる中、その中で私という人間がヨガティーチャーとしての役割を、真の我からの声として確立していくならば、例え妄想の中の空論でも、一つ自分の目指すべき理想像として頭に描きながら、そこに向かうイメージ位は持ったとしても、それは決して欲でも見栄でもエゴでも無いはずだ。

人は、解釈の仕方が分からなかったり、あるいは分かってはいるけど、受け止めきれない自分の状態がそこにあった時、そこに生じる苦が大きければ大きいほど、色々な角度から答えを求め、翻弄しながら内発的な動機の中でよく学び、よく考えようとする。それは興味から来る内発ともまた違う、もっと深い所からくる生命力のようなエネルギーであり、力そのもの自体がとても大きく、浪費もかなり激しいのだが、そこからもたらされる学びの量も、深まる考えの幅もまた莫大なので、結果、翻弄したらした分その過程の全てが、自分の成長及び"広がる意識"を導いていく。

今の私には、まだヨガの世界は刺激が強すぎる事が沢山ありすぎて、その都度耐えられないほど重く、自分の未熟さ、愚かさ、醜さから来る心の揺れに直面する。でも、これから自分が更に生きていこうとするならば、この目の前の揺れと現実に向き合わない限り、ずっと何も変わらず、更に泥は深くなるばかりなのだから、全てを自分の学びと、広がる意識を導くものとして、認識から外さず正対し、例えそこからただ苦しさしか出てこなかったとしても、一切皆苦を知るではないが、それを知る事自体に意味があり、そこから解決策を見出しながら、それがまた新たな創造とスタートを生むきっかけになると思っている。

パタンジャリが言う、心の働きの制御には、まだまだ遠い現実はあるけれど、きっとこの感覚を改めて深い所で感じ、そして考える為に、私にとっては全てが必要不可欠な遠回りなっていると信じているし、今回の揺れも、紛れも無い素晴らしい恩恵と、素晴らしい学びである事に間違い無い。心から感謝の気持ちで一杯だ。


Yoga Inclusive

決まった形も無い。囚われも無い。 泉のように湧きおこるその"慧"の力は、 無数の"言の葉"となりながら、 紡ぎ繋がり大きく広がっていく。 根を張り、大地と繋がり、力強く。 見上げた空の如く鮮やかで、美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花"。 その実は、今ここに成っている。 全ては認め、愛され、受容されながら。

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