無限の深み

ヨガの発祥は、遡る事紀元前数千年。そこから時を進めながら、元々はバラモン教等から由縁とする、古代インドにおける密教的行法の一つとして、その体系を確立していったという背景があります。

なので、ヨガというと、イコールでインドをイメージする方も多く、本場で本格的にヨガを学びたいという方の多くは、真髄なる教えを求めては、先ずインドへと旅立ち、アシュラムと呼ばれる、ヨガの修練を積む場所に滞在をしながら、そこでヨガの知識や技術を体得していきます。

しかし、ヨガの歴史を遡り、先述した密教の行法という視点から、それがどういうものかを捉えてみるならば、日本国内においても、世界に誇れる素晴らしき聖地が存在する事を忘れてはいけません。

日本で密教と言えば、今からおよそ1200年前、遣唐使として唐に渡り密教を修行した空海(弘法大師)が、日本に帰国した後、その教えを広める為に開宗した、真言宗(真言密教)という宗派が有名で、和歌山県にある"高野山"にその総本山(金剛峯寺)を構えます。

ヨガ=高野山とイメージをする方は、あまりいないかもしれませんが、中国で"瑜伽(ユガ)"と名付けられていた、伝統的な宗教技法であるヨガの教えを、日本に最初に伝えたとされているのも、まさにこの空海(弘法大師)であると言われていて、真言宗の代表的な教義でもある、身(印を結び)、口(真言を唱え)、意(心を仏のように穏やかに)の3密行により、生きとし生ける全ての生命の根源、即ち宇宙の真理を象徴する大日如来と、我との合一を図るという考え方や、その根底に流れる思想の数々は、まさに私が学んだ、大好きな"梵我一如"を含むヨガの世界観の象徴そのものでもあります。

「密教とは何か」という、言葉で簡単に説明できるものに関して言えば、ネット等でも沢山情報が出てくると思うのでここでは書きません(と言いますか、正直まだ詳しく書ける程の知識がありません・・)が、その教えの奥にある真髄というのは、こういった文章や言葉では簡単に表現出来ない、より難解な次元の中にあるとされていて、教義の伝承も、師から弟子への直接的な口頭伝承が基本となり、また秘伝としての儀式や行法の実践を通し、自らで体得をしながら学んでいくというのも特徴になります(密教が秘密の教えと呼ばれる所以です)。

なので、自分の日々の生活の中に、一つの思想としてその教えを活かしていく分には、テキストのようなものを見ながら、生涯学習のように楽しく学んでいく事も出来るのですが、教えを正しく深くありのままに会得し、ましてはそれで人を導くということになれば、どんなに自学自習を重ねたり、どんなに行法を体験のように重ねたとしても、決してそのレベルへと到達出来るものではなく、実際には深い帰依心を持ち、僧侶として相当な覚悟の下に学習と修行を重ね続け、阿闍梨(師範となる為の資格のようなもの)となる為に、伝法灌頂(師匠となる儀式のようなもの)と呼ばれる儀式を受け授かる必要もあります。

またこれはヨガも同じだと思うのですが、密教自体、歴史が非常に奥深く、古代のインドで生まれたものが、どの時代に、どんな人によって、どんなルートで、どんな風に伝わっていったのかで、中身の性質にも違いが生じるので(私もまだあまりよく分かりませんが・・)、一概に真言密教=密教の全てという事も当然ながらありません。

物事の一側面を見てそれを全てだと錯覚する事の危うさは、何度でも申し上げておきたいと思います。

ヨガの密教的側面というのは、多くの一般レッスンでも、プラーナヤーマ(生命エネルギーの拡張)のような見えざる力への働きかけや、マントラ(真言と言われ、その響きはこの世の真理を象徴し、私達の意識を高い次元へと拡張させる)を詠唱したり、お香を焚いたり、シンギングボウルやティンシャベルのような法具を利用したり等、どこか儀礼的かつ神秘的な雰囲気を呈するものとして残り、それを各々の先生方が、現代的に工夫をした上で提供がされています。

人によっては、それがヨガを少し怪しいと感じて敬遠する理由にもなるのですが、同時にそれは、現代のヨガというものにも、間違いなく一種の"深み"のようなものをもたらす、大切な構成要素の一つとなっていて、その深みの幅の部分にこそ、簡単には理解出来ないからこそのヨガの面白さや、その魅力が凝縮されるように詰まっていると言っても過言ではありません。

因みに、"深み"という言葉も、これも表裏一体、良い面と、その反対の側面の双方を持っていて、"深みにはまる"という言葉も慣用句としてはありますが、例えば深みというものが、私達を陥れるものとして、はまってしまい抜けられない感覚の中に存在する時、それは、息が詰まるような、圧迫感として、大変に苦しいものとして姿を顕し、また繊細で脆く壊れやすい私達の心は、まるでその圧迫感に押し潰されるかのようにして、無残に壊れては散りばります。

しかし、ある時ふと何かをきっかけとして、頭の中の靄が覚醒的にパーッと晴れ渡っていくような、閃き(気付き)体験がそこに訪れると、今度はトゲトゲしく散りばったその心の欠片の一つ一つは、まるで新たな絵を創造するパズルのピースのように一つに繋がっていき、次第と自分をおとし入れるように下へ下へと沈みこませていた、"深み"という言葉の嫌な感覚は、闇に差した光がどこまでも続いて拡散していく、まるで宇宙のように広がり続ける"無限の深み"へと変容していきます。

それまでの閉ざされた視野には、この深みの感覚により、これまでの自分には無い新たな活路が見出され、破片のようなトゲトゲしさとは対象的な、その優しい流線模様のような開放的な景色の広がりは、受け取る人次第により、その世界観や、可能性を同じく無限の領域へと拡大をしていくのです。

今回の密教というキーワードに触れた話で言えば、私はヨガに関連した事をこうやって書いていながら、正直ヨガの本場インドには行った事はなく、本場における本場のヨガは全く体験した事がありません。

なので、幸いに日本に居ながらにして教えてもらった、伝統式ハタヨガというものから、きっとヨガとはこういうものなんだろうなという不確かな想像と、そこに自分なりの解釈を加えた中で学びを続けていて、実際にインドまで渡航して学ぶというのが難しい現状の中で、それなりのもどかしさのようなものが自分の中にはありました。

その事に対して、毎度のお決まりのように少し卑屈になったり、劣等感を感じたり(これはもう人類の根本苦だと思います)、暫く頭の中でその渦がグルグルと巻いていたのですが、ふとヨガの学びや歴史を振り返る中で、密教というキーワードから、高野山という場所に結びつき、実際に滞在を続けながら、ヨガと真言密教の中のキーワードや世界観がいくつも連鎖するように繋がった時には、何とも言えないようなワクワクする感覚が広がって、まさに灯台下暗しな状態から、どこにいてもどんなものからでも、いくらでも学べるものがあるという、見失っていた当たり前の教えにも気づく事ができ、その事に嬉しさというか、喜びというか、自然と湧いてきた前向きな気持ちに対し、まるで心が穏やかな波のように広がっていく、とても安心した感覚を覚える事が出来ました。

今も、そしてこれからも、私には出家をしてお坊さんになる覚悟は全く持てませんが、例え、その真髄まで到達をする事が出来なくても、まずは日々の自分を助けるものとして、そして大好きなヨガの学びを深める為に(そしていつか誰か人の役に立つ事を願って・・)これからは、この密教に関わるキーワードについても、少しづつ関心のベクトルを向けていきたいと考えています。

そして、やっぱりいつかはインドにも行きたいし、他の聖地と呼ばれる所も色々巡礼したい気持ちはあるのですが、それは行かなくてはいけないものという訳ではないし、行かなくても、行けなかったとしても、それでもいいんだよという事は、自分の中の拠り所にしたいなと思っています。

その心は、決して自分の可能性を閉ざすような、ネガティブな意味での解釈では無く、どこに居ても、どんな状況で、どんな生活をしていても、学びや成長の機会は捻出できるんだという、むしろ、より自分の可能性を広げていく為のポジティブな思考からくる心の動きとしてです。

もし、どうにもならない事があったとしても、それが潔く自分の運命や宿命のようなものな訳ですから、どうにかなって今ここにいる限りは、1日0.1mmでもいいから、今この瞬間、今この場所で、少しでも芽を上へと伸ばす実感の中で、日々生きていく事を目指していきたいと考えているし、たとえ踏み出す一歩が、小さな弱気な一歩だとしても、その選択と決断が、自分に委ねられているのだという思いは、常にとは言いませんが心の中に存在します。

それこそ何度でも、何度でも、繰り返し想いを持って言い聞かせていけば、その響きはきっと、自分なりの"マントラ(真言)"として、パワフルなエネルギーを持ちながら、心の奥深くへと届き、自らの意識を変容へと導いていくのではないでしょうか。


YOGA INCLUSIVE

大地と共に、力強く。 見上げた空の如く、鮮やかで美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花" その実は、今ここに成る。 全ては認め、愛され、 そして受容されながら。

0コメント

  • 1000 / 1000