満たされた景色
私達は、誰よりも学ぼうとするし。
私達は、誰よりも努力しようとする。
それでも、
私達は、それをどんなに学んだとしても、
私達は、そこでどんなに努力を重ねたとしても、
私達には、絶対に満たされないものがある。
私達が、その閉じられた瞼の奥で懸命に見ようとしているもの、
私達がその覆われた視界の中で、見えていると思い込んでいるもの、
私達は一体何を見ようとして、何が見えていると思い込み、何に満足をしたと言っているのだろうか?
刻みこまれた行き場の無い思いを源とし、熱く、熱く、燃えたぎらせて、決して燃え尽きる事なく、残存した黒く焦げた塊のようなものを、
それを私達は支えとし
それを一つの解釈として
それを今の私達にとっての象徴としているのかもしれないが、
紛れもなく、それが"今の"私達にとって、自らの偏りを、何よりも定着させているものなのかもしれない。
あなたは今、人間の湧き立つものの根本が、何処から由来し、どこに帰結していくのかを、繰り返される経験を一つの根拠としながら、おおかた理解したのだと思い込んでいる。
それは、どんな仮説をもって、覆そうと思った所で、容易に覆す事などできなくて、
どんな、偉い学者が書いた論文や、
どんな、最新科学技術で裏打ちされたデータなんかも、遥か彼方へと超えていく、
あなたにとって、何よりも説得力のある、絶対的な根拠のように感じられるもの。
あなたは、
それを、うんざりだと感じていますか?
やっぱり、そういうものなんだと思いますか?
否定しても良いんだよと、肯定する気持ちを、無理して否定的に抑えこんでしまったり、
抗ってもいいんだよと、抗わない事に、無理に抗ってみたり、
都合のよい言葉を当て嵌めて、仕方ないものだと明らかにしたつもりなって、
まるで、広い、広い大海原の景色をその眼で見てきたかのように、もしあなたが、そう見極めたと断言するのであれば、
もはやそれさえもまた、あなたを深みに陥らせている要因、そのものの一つになっていると、言わざるをえないだろう。
揺れを認めるんだという、揺れに翻弄され、ようやく行き着いたと思いんこんでいる先に広がる、幻想(マーヤー)の世界。
彷徨い込むあなたが、そこで、見る事、聞く事、触れる事、感じとる事ができるものは、
例え、それがどんなに価値があるものだとしても、
例え、それがどんなにかけがえのないものであったとしても、
例え、あなたがそれをどんなに大好きで
例え、そこにどんなに手放したくないと思えるものがあったとしても、
結局、その全てはまた、あなたの下からは離れていってしまう。
それは、
うんざりでもなければ、
やっぱりでもなんでもない。
時には、自分にとって不都合だったと極端に嘆いてみたり、逆に、無理をしてでも、そこに感謝の気持ちを抱いてみたり、自分で自分を納得させたいと、色々と試みているつもりなのかもしれないけれど、
そこで生じる、何度も繰り返さると感じているものや、または、いつもしつこく蔓延るように、付き纏ってくると感じているものも、
それは不確かな憶測なんかではなく、実際そこでは何も起こっていなかったり、何も存在すらしていない事もある。
あるいは、そこで起きている事の全てが、あなたにとって、何よりも今必要な事だったするにも関わらず、
もしあなたが、
ただそこで瞼を閉じて、
ただ佇む事を続けているのであれば、
いつまで経っても、そこに生じている、若しくは、生じていないかもしれない"本当の姿"を捉える事は出来ないだろう。
あなたは、あなたの意志で、その瞼を閉じ、あなたは、あなたの意志で、その瞼を開ける事を手放してきたのではありませんか?
もう随分そこに居続けているからこそ、自分ではすっかり忘れてしまったのだと言うかもしれないが、でも本当は、それを理由に"忘れた振り"をしているだけなのではありませんか?
今あなたが、永遠の中の過程として、一つのサイクルの中にいる事や、また、開いた瞼の向こうの世界に、素晴らしい一如の世界が広がっているなんていう事は、散々これまでにも学んできた筈だ。
あなたが本当に手放さなければいけないもの、
あなたが本当にしなければならない事、
わざわざ言葉になんかするまでもなく、あなは心の奥底では、きっとそれが何で、それがどういうものなのかも、その学びの中で、全てを分かっている筈である。
それをただ知恵としてそこに留めておくのか、あるいはそれを"智慧"の力として昇華させ、新たな根拠として転換していく事が出来るのか、
それらの答えは、
どんなに頭で色々な事を考えようとも、
どんなに言葉で色々な事を覚えようとも、
その次元の中で、どうこう出来るものではないし、与えられたクビキ(yuj)を最終的に繋ぐ意志と決断は、誰かが代わりにしてくれるものでもなければ、偶然見つけるものでもなんでもない。
本当の智とは何なのか、
本当の慧とは何なのか、
あなた自身も既に気がついている事、
あなた自身も既に知っている事、
備わるものとして、
"今ここ"にあるものとして、
あなたが、その重い瞼を自らの力で持ち上げる事が出来た時、
あなたはそこに始めて、黒く焦げた燃えカスなんかじゃない、眼前、遍く光に照らされた、輝く本来的な"満たされた景色"を目にする事が出来るのだ。
今なおそこに輝く生命の煌めきは、
あなたをどこまでも優しく、暖かい気持ちへと受容していきながら、
それは、どんな時も、あなたの傍から決して離れる事はなく、
それは、いつまでも、全てを包み込んでいくかのように、
それは、ずっとずっと、果てなく無限の領域へと広がり続けていくのである。
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