貧しさ

大したあてもなく、

その場凌ぎで、どこに辿り着く事もなく、

いつまでも、終わりが無い"無いもの探し"に漂流するあなたは、

まるで、
認めるべき事を遠ざけ、
見るべきものから視線を背け、
在るべき場所から退くように、

結局また陥るように、同じ深みの中へと沈んでいく。
 
それは、
必要以上に何かを欲する事とも、
必要以上に何かを貪る事とも、違うのだけれども、

何をしても嬉しくないし、
何を見ても楽しくないし、

あれも恐いし、これも不安で

自分なんか何をしても駄目なんだと、

大きな、重苦しい"貧しい気持ち"となって、あなたの視野を、際限なく偏らせていくもの。

本来なら、そこにも
楽しい事や、嬉しい事、

あるいは、自分にとって必要かつ大切で、何よりもかけがえないものが、遍く広がっているにも関わらず、

そんな "貧しい"自分に溺れるあなたは、

右も左も、何千、何万、細かい網目のような、そこにある限りに広がる経路を自ら堰き止め、

本来そこから流れ、
またそこへと巡る、

正しく循環するべき、
その"満たされた景色"をよく見ようとはしていかない。

吸い込む力は、細く短く、
呼び込む力は、惰性の如く、

迷い、溺れ、まるで腐りかけた流木のように、何を燃やす事なく漂流し続ける、あなたのその瞳の中には、

今この瞬間、そこに広がる大海原は、一体どんな景色として、写っているのであろうか。

本当は、その重苦しい、世界に怯えているのではないですか?

本当は、その何も無い世界に、寂しさが募っているのではないですか?

例えそこに、どんなに美しく純粋なものが広がっていたとしても、

例えそれが、どんなに私達にとって平等なものであったとしても、

もし、あなたが、
"金輪際こんな思いは二度としたくはない"
と、

これからも、その卑屈で、貧しい気持ちに、延々執着をし続けていくのであれば、

それらは、ただ重くて、暗い、
"何も無い世界"として、

そこから、味わい尽くせるだけの喜怒哀楽を見出す事も、

また、今抱えるその痛みを、誰かの為にと役立たせていく事も出来ずに

一人誰もいない海原で、大切な何かと繋がっていく(yuj)事も、難しい事になる。

因みに、そんな漂流を続けるあなたの前に、何が因や縁となって、何が目の前の現実として見えてくるのかは、

今この瞬間、あなたに顕現されているものだけには収まらない、

過去、現在、未来を含めて潜在された、ありとあらゆる微細な要素が、複雑多様に関わり合い、予期せず、突然明らかになる事がある。

なので、もしあなたが今、溺れるように、迷い、悩み、苦しむ状況にあったとしても、

何となく漂流しながら、
偶然何か潮の流れに乗って、
偶然何処かの岸辺に辿り着き、
そして偶然誰かに拾われて、

そのまま、運良く誰かの、何か役に立つ可能性があったとしても、それも決して不思議な事ではない。

また、取り敢えず、
何かを深く考えようとせず、

また、どこかを無理に目指そうとせず、

穏やかな気持ちが、自然と広がっていくのを、そこで漂いながら静かに待ち続けてみる事も、長い目で見れば、きっと大切な時間の一つにもなってくる。

それでも、そこにしかない、貴重な経験、貴重な学び、唯一無二のかけがえないものが、

いつ、どこに居て、どんな状況で、どんな生活をしていても、必ず見つけていく事が出来るというのは、

決して、有限、無限、物質、精神、そういう、迷子になるような単語に溺らされ続けていくものでもないはずだ。

時には、多少の勇気を持って、
自ら陸へと上がり、

少し強気な気持ちで、
そのまま、前へと一歩を踏み出してみて、

今度こそ、次は必ず、絶対にと、

こうありたい自分、こうしたい自分のようなものを、威勢よく旗上げする事があったとしても、

その程度の些細な欲張り位なら、決して大した"貪り"になる事もないだろう。

きっと、ようやく学び始めた、あなたの今目の前に広がる、その何も無いからこその、"無限の充実"は、

正直まだまだ迷子になる程難しくて、そして漂流する程広すぎる、少し背伸びをした世界なのかもしれない。
 
もし、終わりの見えてこない漂流の末に、

例え、姿、形、限りある、そんな物質的な豊かさに、そのまま辿り着いたとしても、

それはそれで、今の適切な学びの段階であると言う事も出来るのだ。

YOGA INCLUSIVE

大地と共に、力強く。 見上げた空の如く、鮮やかに美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花" その実は、今ここに成る。 全ては認め、愛され、 そして受容されながら。

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