無形
もうそんな気持ちも、湧いてこないと俯く位に、果たして、どれだけ多くの時間が過ぎたと言えるのだろうか。
もうそんな気持ちも、忘れてしまったと嘆ける位に、そもそも、それ程に、自分を満たすものがあったと言えるのだろうか。
普段はそんな事も、特に考える必要もなく、
常に、何かが当たり前にそこにあるような感覚の中で、日々生活をしていると、
私達は、本来それが、常に生じては、はかなく滅するような、姿、形あって、姿、形ないようなものであるという、物事に備わった本当の意味での"当たり前"の事も、よく見通す事が出来なくなる。
それが、あなたの"癖(samskara)"なのか、どうなのか、
あなたは、
そこに何の流れもないのに、
一体何に抗い、
何の形もないのに
一体何と比べて、
何をそこに当て嵌め、
何を見いだし、
何に悔やんで、
何に不安を抱き、
一体、何に憂いて、
何を恐れていくのですか?
全ては、あなた自身の判断で、あなた自身が選びとってきた事でもあるが故に、
そのあるがままを、受け入れ、明らかに見極めたつもりになり、
それら、思うがままに味わい尽くしているつもりにならざるを得ない、
あなたにとっての、受け入れるべき現実がそこにはあるが、
実際、少し冷静になって、
周りと比べ、
過去を振り向き、
未来の自分を展望すると、
そもそも、そこには、味も匂いも、何の彩りさえも、どこにもなく、
ただ何も無いだけの、無駄な時間の流れの中で、ただ何も無いものを、一人で見送るような、そんな切ない、哀れな気持ちが襲ってくる。
本当は、心の中に、苦しい気持ちが募り続けているのではないですか?
本当は、ただ状況が圧迫され続けているのではないですか?
そして、なおそれでも、
それらを一つの過程と信じ、歩み続けていく事が出来るのですか?
因みに、物質的にも、精神的にも貧しいあなたにとっては、特に何も無い事の不安や、どこに何も残っていない事の恐怖感は、いつ、どこにいたとしても、常に付き纏うもの。
当たり前のように、それらを払拭しようと、焦りに駆られる事もあるし、
また、とにかく何かが、色や形や自分の響きとなって、とにかく誰かに何かが届いて欲しいと、
自らそこで躓き、
自らそこで傷つき
まるで、自らそこに痛みを感じに向かっていくかのように、
自らそこに、血や涙の跡を、残していこうとする事もあるのだけれども、
しかし、結局それは、
何が何の響きとなる事もなければ、
あなたは、これまでせっかく整え続けた、その全ての事までを含めて、
迷い、彷徨い、最後は貧しさを抱える、いつもの何も無い、"我"へと帰っていく事になる。
もちろん、そこから何かが始まり、何かが終わりに向かう過程も、当然の事として存在する。
だけど、自ら大きく道を外して偏り続け、また、わざわざ"痛み(Dukka)"に耐える事までして、
本来のあなたと違う、あなた自身の姿を、無理矢理、響かしていこうとする必要が、今ここにはあるのだろうか。
もし、それらの事が、頭ではよく分かっていながらにして、考えれば、考える程、更なる不安に駆られ、余計にエネルギーを浪費してしまい、自らを疲弊させてしまうのであれば、
まずは、頭の中で
ややこしく考える事は、一休みにして、
正しく、自身の坐法を選びとり、
よく耳を澄ませて、
よく心を開いて、
まずは正しく、そこで、あなたに宿る"自然な呼吸(生命の源)"を見つめてみて欲しい。
それは、
誰に認められる事も、
評価をされる事もなく、
誰に何も届かぬままの、
色も形も存在しない、無意味な響きのようなものかもしれないけれど、
それでも、自然な呼吸という、生きる上で当たり前だけど、決して当たり前ではない、そういう生き物に備わる、根源的な生命の営みを通し、世界を見つめてみると、
例えば、飢えているなら、食物を、
寒さに震えているなら、衣服を施すように、
本来的な"生命"の在り方とはどういうものなのかを考える、そのささやかな、きっかけのようなものが私達に与えられる。
私達が本当に手放していく事は何なのか。
私達が本当に得ていくべきものは何なのか。
本当の豊かさ?
本当の価値?
本当の繋がり?
本当の平和?
本当の幸せ?
なすすべない嵐のような驚異的な出来事が、どうにもならない位に、吹き荒れ続ける今だからこそ、
私も、あなたも、
そして、それ以外の沢山の人達皆が、
隔たりなく、危い可能性を含んだ、儚い生命の中に暮らしているという、その当たり前の事をよく見つめ直し、
出口が見えないなら、
また、入り口まで引き返していくように、
今自分にとって必要なものや、
大切なものを、
また、今あの人にとって必要なものや、
大切なものを、
もっと、もっと自然に、
もっと、もっとあるがままに、
そこに備わるものとして、
そこに溢れるものとして、
それらを、
もっともっと"賢く"見極めていって欲しい。
何も無いと感じる、今だからこそ見えるその"満たされた景色"は、
きっと、今なお、何も見えないと思いこんでいる、その闇の中にだって灯っている。
きっとイライラする事もあるし、不安が募る事もあるし、容赦ない現実は、差し迫ってくるばかりかもしれないけれども、
それでも、
儚い要素は、金剛の如く確固たるものへと転換し、
不安定な危うい要素も、母胎の如く、包み込むような安心感へと転換していく事、
それこそ、まさに、"YOGA is LIFE"の教えなのだから、
何も無いと感じる、
何も残っていないと感じる今だからこそ、
一人一人が、かけがえないこの繋がり(yuj=yoga)の中で、
自分を励ます為に、
そして、他に寄り添う為に、
共に分かち、そして生かし合っていくような、そんな優しい自分の"言の葉"を紡ぐ時なのではないだろうか。
きっと、これもまた、
忘れたものを思い出させてくれる、
一つのきっかけとして、
与えられているものなのだ。
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