それだけの事かもしれない・・
向き合うべき事から、視線を背け続けた、その果ての望まざる結果としての、いくつもの貧しい自分。
眼前散らばる、砕けた、幾多の"自分"という、あなたの欠片の数々も、仮に、少し離れた場所から、その道ごと眺めてみれば、
それはまるで、
道をなぞった、手元の地図を眺めるかのように、
ただ、あなたが自分で、それを拾い集めて、回収し、そこからまた、あなたがそのまま、歩みを進めていけば良いだけのような、ごく簡単な事として見通せる。
それは、まるでただ流れていたものが、流れなくなるような、とてもシンプルな事。
ところが、現実として、今この瞬間、
あるゆる渦中において、その道を捉えてみようとすると、
それらは、まるで塗り潰された地図を片手に、見知らぬ道を彷徨うように、
東西南北、右も左も、見通す事は難しく、
頭の中は、グルグル、ゴロゴロ、グラン、ゴニョン、バチーンと、どうにも言葉にならない程の、大きな渦で一杯になる。
いつも、いつも、取り敢えずの気持ちを一つの頼りにし、全てを自分で選び、また自分で決め続けてきた事が殆どである、あなたにとってのその道は、
まさに今、あなたの望んだ通りのものとして、そこにあるようにも思われる。
それなのに、
何故、どうして、
あなたは、足跡一つ残らぬ、その泥濘だらけの道に、今更ながら"後悔"のような気持ちを、湧き立たせてしまうのだろうか。
それは抗わぬ事に、抗う為に?
あるいは、隠しきれぬ事を、隠していく為に?
正直、まだまだ、ダイヤのような確固たるものでもなく、そして、ガラスのように、すぐに壊れやすいあなたの心は、
時々、物質とか、精神とか、有限とか、無限とか、そういう知的好奇心をくすぐられるような、小難しい言葉に影響をされて、すぐその標識の指す方角へと、自らの動きを偏らせていく事がある。
例えば、足るを知る(サントーシャ)事が大切なのだと知れば、無理して、そこにあるように見える、ただ何も無いだけの、現実に感謝をしようとしたり、
あるいは、激しい痛みや、苦しみがあれば、タパス(苦行)という言葉の、単語の意味そのまま、浅はかに解釈してしまったり等。
だけど、そもそも、知る力も、祈る力も、元々乏しい、更には学び始めの、今のあなたにとって、それらの言葉はまだ、簡単には分かり得ぬはずのもの。
時には、まるで、小さな子どもが、新しく買い与えられたおもちゃの鎧で、自分の身を飾り立てていくかのように、
自分を少し強く、賢くなったような気にさせて、
逆に今ある渦の流れに、余計な加速を与え、更なる迷いの道へと、自分自身を引きずり込んでいってしまうものにもなりかねない。
本当は、不自然な形で、自然な自分が、妨げ(dukka)られている事があるのではありませんか?
本当はずっと、そんな同じ不安の中に、居続けているのではありませんか?
もし、不安に思う自分の事まで、
怖れとして不安を重ね、
怖れを重ねる不安な自分の事まで、
あれや、これやと疑ってしまい、
そこから何が目覚めて、何がどこへと昇り、何が開いて、何と繋がる(yuj)かもよく分からぬまま、
結局最後は、何も変わらぬいつもの自分に戻ってきてしまうのであれば、
まずは、心を鎮めて
祈りを捧げる、
その少し難しい過程の前に、
今、あなた自身が、
正しく、この地に根づき、
一つ一つをもう一度拾い、
また集めるように、
鎧を降ろし、言葉を離れ、
もう一つ深い所で、"正直(Satya)"な自分自身へと潜ってみて欲しい。
地は地として、花となり咲く事はないかもしれないけれど、
地は地として、花を支える為に、
地としてそこにあり続け、
花が花として、咲く事が出来たのならば、
花は花として、散り去っていきながら、
やがて、地の要素としてまた蓄えられる。
そして、地は地として自分の姿を、花は花として咲いた自分の姿、形を、ありのまま見る事は出来ないかもしれないけれど、
でも無限の広がりの中で、空が空として、それらをいつでも包み、見守りながら、
やがて空も陽となり、雨となり、風となり、
そうやって生命の種を、地へと運び、
それら全てが、宇宙を舞台にした、
地球という名のもと、
地水火風空、あなたを含めた、遍く要素に、"生命のリズム"として循環していく。
あなたが、あなたとして、
偽らざるままに、そこに在る事もまた、
この舞台の上の、欠かす事の無い、大切な要素の一つになるのだとしたら、
例え、言葉にならぬ、大きな渦巻くものに溺れてしまう事があったとしても、
例え、重たい鎧を無理して纏い、自らを着飾ってしまう事があったとしても、
それ程、不自然に自分を疎かにしすぎる事も無いと思うし、
もっと、
あなたが、あなたとして、
その身のままに、
受けとり、そして与えていけば、
きっと、それがそのまま、
あなたの"Yoga is Life"として、今"この道"となって続いていくのではないだろうか。
それは、少し難しいようでありながら、
それは、何の言葉を当て嵌める必要も無い、容易な事でもあり、
それは天と地程の、間が空いた事のように思うかもしれないけれど、
それは、遠く空の方から、地となる自分を、ただ見下ろし眺めるように、
それは、今この瞬間、地に渦巻く、
後悔も、不安も、怖さも、寂しささえも、
ただ、"それだけの事"であると、気がつかせてくれるのだ。
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