味わい深き!


進んでいく者と、そこに縛られ続ける者。

まるで、左に見える明るいものが、抱えた弱さに溺れる、卑屈な自分の姿を明らかにし、

また、右に見える暗いものが、自分が自分として、そこに在る為に必要な、信じる力に陰りを与えていくかのように、

私達は時に、そのどちらを見ても、また、どちらも見ようとはしなくても、例えそれが光であろうが、闇であろうが関係はなく、そこにあるもの全てを、自分にとっての驚異として、不都合な解釈をしてしまう事がある。

それは、何も出来ない事が悔しくて、
また、何もしようとしない事が情けなくて仕方がない、その時の自分にとって、

常に、感謝の気持ちとして、その現実を受け入れ、また見極めたつもりなる、自分で自分を守る為に必要な、都合の良い心の働きなのかもしれないが、

しかし、まるで氷山の一角のように、

ほんの少し、表に顔を出した部分を、自分の全てと思い気持ちを装い続ける、少し冷めた自分自身と、その奥底深く、漲る熱(tapas)を備えた、本来的な自分自身とが、激しく"衝突"し合うような、破滅的なエネルギーでもあり、

そこにはまた、まるで藪に眠る蛇が、わざわざ突き起こされるような、どこか噛み合わない矛盾めいたものを抱える、納得しきれない自分の存在がある。

本当にこのままでいいのだと、心の奥底から、末端まで、隅々思う事は出来ていますか?

本当はもっと、胸を張って、自分らしく、そして力強く、そこに在りたいと思っているのではないですか?

もしあなたが今、繰り返される自問自答の中で、

土台となる肥やしを築く事や、柱となる根を伸ばす事、それら生長に必要な"地力(自力)"を蓄える事を疎かにしてまで、

周りの動きが気になり、
他と比べる事をやめられず、

いつまで経っても、掘った穴をまた埋め直すように、ただ痛めつけるだけの無意味な作業に、執われ続けていくのであれば、

例え今、平等に、かけがえなく誰もが受け取る事の出来る、豊かな"恵"がそこにあったとしても、

例え今、その恵から、唯一無二の、あなたという素敵な"芽"を出す可能性が、あったとしても、

まるで、土の中に取り残された、腐った一粒の小さな種のように、

あなたは、それに気付く事もなく、
そして、誰に気づかれる事もなく
 
遂には、まだ充分な可能性として残されているかもしれない、"本当の自由"を実らすことさえ、自らの意志と選択で、手放していく事になる。

自分の望む人生とは何なのか?
掴みたいものとは何なのか?
また、今掴めるもの、そして手放すものは何なのか?

私達が住むこのフィールドでは、極めて広大であるが故に、常に自分の意志で、どの道を選び、どう進んでいくのかを判断し、そして決断していく、その難しさが、"自由"の中に潜む"不自由"のように常に付き纏う。

時には、自分には本当に、自由な選択肢があるのか無いのか、それすら、分からなくなる事もあるし・・、

あるいは、自分は既に、選択するべき時を誤り、後戻り出来ないような状況にまで陥っているのではないのかと、不安で怖い気持ちに襲われる事もあるし・・

それは、まるで刈っても刈っても、しつこく生える雑草のように、整えて整えても、簡単に覆される、厄介なパターン化された癖(Samskara)のようなものでもあるので、

例えば、向きを変えたり、
回数を調整したり、

簡単に身体の動きを操るようにして、たやすく制御が出来るものではない。

それでも、同じ学びの中で、等しく説かれている事を追求すると、そこにはまた、"希望"を持って、一つ言える事も見えてくる。

宿命論?決定論?
頭の中で、また余計な渦を生み出しそうな、少し難しい話は、一旦手放して・・、

何を考える為に、何に気がつく為に、今の学びがあるのかを、原点に戻りながら、シンプルに、もう一度よく考え、もう一度それらをよく見つめ直してみよう。

今この瞬間の、不安や、恐れも、葛藤も、それらを偽らず、ありのまま、その学びに変えて積み重ねる事が出来た先、

もし2極の対立したものに害されない、ある原則に沿った(アーサナ3原則より)中道としての、"この道"に辿り着いたとするならば、

そこでは、その厄介な癖を含めた、そこで感じ取る事の出来る、喜びや憂い等の、表裏を行ったり来たりする葛藤や迷い、その全ての要素が、

"大地に根を張り力強く"
"見上げる空の如く、鮮やかに美しく"

まるで風に吹かれてなびく稲穂のように、砂塵を巻き上げ、吹きつける強風さえものともしない、

"願望、信念、愛情、情熱、希望"に満ちた、"生命の智"一粒一粒を、この広大なるフィールド溢れんばかりに展開していく事になる。

その"重々帝網"重なり合う、無数の繋がり(yuj=yoga)においては、

例え、その場に取り残されているような寂しさ、焦りに縛られていても、

例え、その場から後戻り出来ないような、後悔に執われていたとしても、

まるで、優しく穏やかな、温かい感覚が(Shanti)、胸の中心から、身近なものへと、そして遥か彼方へと、少しずつ、少しずつ響き渡っていくように、

決して衝突をする事無く(anahata)
また、激しい音(nada)を立てるでもなく、

全ての響きは、生かし、分かち合う、一つの調和されたものとして、奏でられていく(anahata nada)。

それらは、あえて、自由の名のもと、さらけ出していく事ではないけれど、

あえて不自由に抑えつけようとする事でもなく、

それらは、時に苦しい事かもしれないけれど、

でもそれらは、醍醐味や深みとして、表裏一体、大切な事とも繋がっていて、

それは、そう思えない矛盾を感じる事かもしれないけれど、

でもそう言い聞かせながら、少しずつ前向きに転換していってくれる、

何ものにも縛られる事のない、人生における、"究極なる自由の境地(samadhi)"だと言えるのだ。

YOGA INCLUSIVE

大地と共に、力強く。 見上げた空の如く、鮮やかに美しく。 たった一つの我なる"泉樹の花" その実は、今ここに成る。 全ては認め、愛され、 そして受容されながら。

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